【3.11あの日】〜東日本大震災〜体験記録Vol.1【絆の足跡】 [machi](★0)
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- 2012/03/20(火) 19:52:26
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>>438
横レス。
福島市内は主要道路(R4、R13)が渋滞していた位で、抜け道等は普通に通行出来た。(瓦を踏みながら)
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- 2012/03/20(火) 21:33:31
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如何すれば良いんだろう
救援で行ったアメリカ兵が居るのだが・・・フラッシュバックが酷くて。
「自分は”スーパーマン”だ」と出て行って、ぼろぼろで帰ってきやがった。
”敵の死体はなんとも思わないけど、味方の遺体(特に子供)は耐えられ無い”と
こんな愛すべき馬鹿野郎に如何接すれば良いのだろうか。
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- 2012/03/20(火) 22:07:39
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その兵隊さんは最善のことをしてくれたのだからもう辛く思わないで欲しい。どうもありがとう、本当にありがとう。
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- 2012/03/20(火) 23:13:42
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>>439
いや、停電中に出庫できたのか聴きたかったんです。
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- 2012/03/21(水) 09:03:43
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>>447
サティ屋上からはゲートが無いので
停電は関係無かったです
ちなみに吹雪の中で稲荷神社の横の駐車場に停めた時はゲートは開放されており
チケットも出てこなかったので一時的な駐車は可能でした
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- 2012/03/22(木) 19:38:01
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1 @仙台市若林区 <実家でもある職場で>
前回の宮城県沖前の建物だから「次のが来たら、OUTかなぁ」と
普段の地震でも、あわてずに外に出るのが習慣。
印象深い事は、揺れてる時間の長さと
アスファルトの「下」の地面が体感できたこと。
立っていられないから、かなり広めの足幅だったけど
右足と左足の高さが違く、波打ってるのが分かった。
外に出ていない近隣住民の安否だけ確認し
(大声で呼びかけ、返事がないと「入るよぉ!」って勝手に中に…
ゴチャゴチャになってしまった部屋に、おジィちゃんが呆然としゃがみこんでた)
職場の片付けは両親に頼み、車で20分の息子の小学校へ
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- 453
- 2012/03/22(木) 19:56:00
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2
危惧していたバイパスの横断も、信号が消えているための大渋滞で
スムーズ(?)に渡れた。
運転中に、宮城野区(町寄り)が職場の妻に安否メール。
揺れはじめから、パニックにもならず、慌てもせず
冷静だと自己分析しながら行動していたが
ラジオやワンセグをつけるという事すら思いつかず
ひたすら「安全に、早く、息子の元へ」以外のことは考えられず
たぶん、脳が「この容量じゃぁ、これが限度」って他の思考を停止させてたのかな。
後から思うに、2〜3日の間、自ら情報を遠ざけてた。
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- 2012/03/22(木) 19:58:58
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3
実は4/7も怖かった。
3/11は、自分の身の安全だけでよかったが
あの時間は家族一緒にいて、妻と息子にすがられて
「皆を守らねば!」の緊張感の急激な上昇に、後からどっと疲れた。
激しく揺れるアラジン式ストーブにかけられたヤカンを下げる為
動こうとした妻を引き止めた直後、ヤカンが転落。
あれだけは正しい判断だったと、今でも思う。
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- 2012/03/22(木) 21:14:07
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4月7日の揺れは3月11日より酷かったように思います。
短時間の揺れだったけど被害は311より酷かったと感じます。
洗濯機の中ででぶんまわされたような揺れって感じでした・・・。
皆さんはどう感じられましたか?
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- 2012/03/22(木) 23:02:17
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3/11は船に乗ってゆっさゆっさと揺られているような感じ
4/7はもっと小刻みな激しい揺れ、三陸はるか沖地震の時と似た感じ
自分はそう感じましたが。
三陸はるか沖を経験した方は同じように感じたのではないでしょうか?
@岩手県北
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- 2012/03/22(木) 23:06:06
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>>455
宮城ですが同感です。
3月から一月かけて片付けた家具たちが、
デジャブのように同じ姿で倒れいくのがスローモーションみたいに見えて、揺れながら呆然と見つめてた。
揺れの中で、ああ〜もう福島原発はこれで終わったな…と絶望したのを鮮明に覚えてます。
やがて電気が消えて真っ暗になり、冷蔵庫から飛び出して飛び散ったシチューや落ちた電子レンジを踏み越えて外へ出ると、
同じく飛び出してきた近所の人で道路があふれ、コンビニとGSには早速行列が出来てました。
電気が復旧したのは翌日夜で、思ったより早かったけれど、
結局あれで止めをさされた形になって解体した家はすごく多かったですね。
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まいね
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- 2012/03/22(木) 23:36:41
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>>448
447です。どうもありがとう。
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- 萌きゅん89φ
- 2012/03/22(木) 23:43:52
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>>458
こちらのスレッドへどうぞ。
↓
スレたてるまでもない質問・雑談・情報交換スレ《PART10》
http://tohoku.machi.to/bbs/read.cgi/touhoku/1310822072/l50
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- 2012/03/23(金) 20:10:10
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こんな世の中じゃどっちが天国なんだか・・・
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まいね
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- 2012/03/25(日) 22:37:11
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…津軽はまだまだ寒さが厳しいんでしょうね。ご自愛下さいませ。
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- 2012/03/25(日) 23:05:20
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>>455
そう、ですねえぇぇ・・・
何もかもが不自由な中で、取りあえず最低限の生活が出来る様になったところで
もう一回、やられたんで
激しく、へこんだ。
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- 2012/03/26(月) 08:23:53
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私が住んでいるところは一回津波が来たところだったので
もう一度の津波警報、しかも真夜中で本当に怖かった。
うちはそれから一週間は電気が止まりました。
停電で夜中逃げるには、靴を揃えてぬぐとかとても大切だと思いました。
暗いところで靴を探していては時間がかかります。
そのあと家の観葉植物が急に枯れて磁場が変わったのではと感じました。
水もままならない電気もこないと米をガスのコンロで炊くので、テフロンの鍋は役に
たちました。あまりくっつく鍋だと水も大量に使うからです。
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- 2012/03/26(月) 20:57:09
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普通はそうでしょね
炊飯器に、計量したお米を入れて
メモリ通りに水を入れれば、で、スイッチ入れれば
お米が御飯になります。
アルマイトが、実は最強なんですよ
飯盒ならテフロンよりも
遥かに役立ちます
そのためだけに設計された先人の知恵なんです
あの形は
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- 2012/03/29(木) 10:27:10
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3月15日に仙台から青森まで4号を使って避難したんだけど
吹雪の中、荷物満載の自転車で北に向かって走る若い夫婦とか
カブのおじさんを見たなあ。
走っている車はほんとに少なくて、見事にエコカーばかり。
あとなぜか893さんが好む車が何台もかっとばしていった。
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- 2012/03/29(木) 10:30:08
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3月15日に仙台から青森まで4号を使って避難したんだけど
吹雪の中、荷物満載の自転車で北に向かって走る若い夫婦とか
カブのおじさんを見たなあ。
走っている車はほんとに少なくて、見事にエコカーばかり。
あとなぜかヤーさんが好む車が何台もかっとばしていった。
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- 2012/03/30(金) 21:41:48
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>>444
んん
んだな・・・
バカ野郎ども、
すごかったな素晴らしかったよな
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- 青鹿φ
- 2012/03/31(土) 10:54:33
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去年の今ごろは、やっと物が普通に買えるようになったきたところ。
もう少し経ったころに、、修行僧らしき若い坊さんに遭った。
震災直後、日本橋から(沿岸沿いに?)青森の実家まで歩いたとい言う。
その小庵から岩手沿岸まで再び南下して、、、話した時はその帰りだった。
陸前高田の一本松のことをその時聞いた。
寝泊まりに使ったシェラフはジャンケン勝者にくれてきた、といった話を思い出す。
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- 2012/03/31(土) 15:22:59
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去年は多賀城のアパートまで泳いで帰った。
それからドラックストアに入っていく泥棒さんを、乾麺食いながら観察してたな。
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- フラガール774期生
- 2012/04/01(日) 10:20:16
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ただ揺れるだけなのに風評被害ハンパねぇの西東北
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- 青鹿
- 2012/04/02(月) 19:18:59
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忘れていましたが、、、別館にこちらと並行した画像版スレがあり、
何名様か投稿されています。
【MAHALO】 〜東日本大震災〜体験記録@東北別館 【ALOHA】
http://hidebbs.net/bbs/80?no=49707198&sw=t4&s=t
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- 2012/04/06(金) 05:51:06
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>>1
午後3時過ぎに起きた、
最大余震 茨城県沖・M7.9が起きた直後、
家を飛び出してしまい、
さらに、スマホを落して、パニくっていた。
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- 2012/04/07(土) 02:42:35
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@名取
古本屋で立ち読みしてら震災発生
奇跡的に自分がいたところは本が落ちてこず「妙に長い揺れだな」
と思って自転車で家に帰宅。
その途中で窓ガラス割れてるは小学生らしき子供は泣いてるはで、
「ただごとじゃない」と揺れの大きさに気づく。
帰宅した家は案の定物が散乱してたが家族は外出していた弟を除き家にいて無事だった。
家の片付けがある程度終わると非番であったがバイト先のコンビニへ制服と
小型ラジオを持って自転車をこきだした。
道路は信号が点灯しておらず渋滞してる旧四号線を渡りガラス破片に注意して、
30分程かけてバイト先に着いた。
着いた時には既に人だかりの山。
平日午後で人数がいないところに店の買い物カゴが無くなるほど人が入ってるのだから、
当番の人はレジ打ちに専念していてカゴを戻す時間もなかった。
そこでレジの対応をしてたオーナーに「制服持ってきたんで手伝いましょうか?」
と声をかけたら「頼む。商品補充が追いついてないからそれから」
とひたすら補充に専念してた。
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- 2012/04/07(土) 03:18:26
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補充は水をまとめ買いする客が多かったが、在庫が切れた順に、
2L、1.5L、..500mlと大容量から無くなったのを覚えてる。
ペットボトルの水を卸してる最中に本部のマネージャーと他のバイトのメンバーが着て、
カップ?やホッカイロを手分けして補充していった。
日没になり一旦閉めて私とマネージャー、オーナーが夜通し店で
待機することになり一旦家に帰って両親にその旨を伝えに行ったら、
唯一連絡の取れなかった弟が帰ってきていた。
懐中電灯持って又戻りラジオを聴きながら晩をしてると、次々と震災の規模が伝わり、
「これは阪神を越えるかもしれない」とオーナーが漏らした。
私の生家は石巻の門脇にあり、父の仕事の都合で名取の海岸から離れた場所に移り住んでいたのだが、
津波の怖さは石巻時代に叩き込まれていたので、生家と近所の知人の安否が心配になった。
その晩は仙台市街やもっと北から歩いてきた人へ「おにぎりやパンはありませんか?」
と声を「申し訳ございません。もう既に売り切れて何時入るか分からないんです。」
と一度断ることを何度もした。
ただ市街から岩沼の家まで帰ると言った年配の男性は「ずっと歩き通しで、食べ物では無く、
何でも良いから飲み物を」と言われ「どうします?飲み物なら水以外ならいくつか残ってますが・・」
と残る2人にお伺いを立てたら何とかジュースを売る許可を得れた。
次の日から残った品を日中売り、日没と共に一旦閉店するのを3日目まで続けた。
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- 2012/04/07(土) 10:18:29
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@気仙沼
誰も書きこんでないか?
停電して真っ暗のときに、海があったところが真っ赤だった。
あの時は知らなかったが、油が漏れてずっと燃えてたんだな…。
全く写真をとってなかったことに後悔してる。
今あの日に戻ったら、写真とりまくると思う。
あと、お母さんを絶対仕事に行かせない。
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- 2012/04/07(土) 10:41:26
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A県北部
停電のことしか頭になかった。
ラジオは電池切れで情報なし。
車のラジオを聞くことは考えもしなかった。
やっと思い出して聞いたラジオで「津波が・・・」
「2〜300人が海岸に・・・」って聞いても
山生まれの山育ちなもんでピンとこなかった。スマン。
翌日はプロパンガスでメシ炊いて食ったよ。
水道が無事で助かった。
電気復旧は翌日土曜22時ごろ。
津波の映像に愕然とした。
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- 2012/04/08(日) 08:28:27
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>>483
×割れてるは 泣いてるは
○割れてるわ 泣いてるわ
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- 2012/04/08(日) 10:02:16
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今、まさに目の前で津波が襲って屋根ごと家が流されてるというのに
ラジオでは「津波の来る恐れがあります。」とか連呼してた。
首都直下で起きてもこのくらいの時差というか
距離感があるかもしれません。
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- 2012/04/08(日) 10:13:31
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F空港で被災!
3Fにいたが、揺れが収まるまで柱につかまっていました。
空港職員は、誰も誘導しなかった。
それどころか、職員は外に避難。
それを、3Fからみていた。
危機管理能力0と、談判したが効果なし!
さすが、原発許可した知事が社長つとめるF空港w
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- 2012/04/08(日) 11:19:13
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去年の今頃は福島第一原発での復旧作業をしていた。
現在とは状況も違うので孫請け作業員でも金額は良かったけど正直行きたくはなかったな・・・。
会津若松から向かったが、磐越道はガタガタで途中の風景も地震の爪痕が生々しく残ってる
前線基地のJヴィレッジで装備を整え、検問の先は文字通りゴーストタウン
ガレキの山や見る度に緊張感が高まり、フクイチに到着した時にはもうお腹一杯w
フクイチ構内はゴジラの襲撃の後の様な容赦無い破壊だらけ
第一印象は「これ、本当に収束させられるの?無理だろ」だったな
免震重要棟に入り先発隊と会うが、みんな顔が疲労と悲壮が入り混じった顔で廊下に所狭しと座り込んでいる
現場の人間の表情で大方の進捗予測が付くが「こりゃダメだな」マジでそう思ってたが
先発隊と作業の打ち合わせをすると、意外にみんな元気で目が死んでない
「とにかくスピード勝負だからな」「車から降りたら移動は全部走るぞ」「コケたら置いてくからなw」
軽い笑いや冗談も出てるし先ほどの予測が間違いだったと思い直す。
ただ、連絡体制やら統率やらがメタメタで無駄に間誤付く事が多く
並みの突貫工事ではない事がわかる。
いよいよ個人線量計を渡され先発隊と東電の放射線管理員と一緒に作業箇所に向かう
車が原子炉建屋に近づくにつれ警告音の鳴る間隔が早まる
やることは理解してるし、シミュレーションもしてきた。
車を降りると全員小走りで走り出したw我々も雰囲気にのまれ走り出す
シミュレーションよりもかなり早いペースで資材を運び作業に取り掛かる
放管員がサーベィメータを片手に「ここは15分以内です」
作業箇所事にタイムリミットを告げられる
見たことも無い長いブームのコンクリート圧送車で放水されモクモクと蒸気を上げる建屋を尻目に
異常なハイペースで作業を進め、無我夢中過ぎて体を動かしている実感が無い不思議な感覚
作業を終え免震棟に帰り付いた時には先ほどの先発隊と同じ様に疲れきった表情で狭い廊下に座り込んでいたw
私自身は会社独自の放射線規定量を超えたのでもう行くことはないが、今でもあの頃の感覚は憶えている
何か化け物の元にでも向かうような何とも言い難い感覚と纏わり付くような恐怖感
こんな事は二度と体験したくないし、誰にも体験させたくないね。
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