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  • 89
  •  
  • 2024/05/16(木) 17:21:23.94
>>38
春秋時代の呉が越に滅ぼされたとき、王族の一部や難民が東海(日本方面)へ逃げたとされる
呉の王族の先祖を太伯、虞仲の兄弟といい、彼らは周王室がまだ諸侯の頃に後継争いを避けるため、現代の江蘇省付近に出奔した
その土地にいた蛮族の風習は黥面(顔にも入れ墨を彫る)で髪は短く、兄弟は同じ姿で彼らと暮らしやがてその土地の王となり呉として封ぜられた
時代は移って後漢の光武帝の時に倭人の使者が来た際、彼らは黥面であったという
そして彼らは自らを「太伯の子孫」と名乗ったという
この辺が根拠ね、まぁ他にも色々ある
中華王朝から日本はたまに姫氏国と言われることがあった(姫氏は周王室や呉の王姓)

この話は鎌倉時代、南北朝時代から知られており、もしかしたら倭国、天皇は呉の末裔なのかもね、いやそんなわけないでしょって議論はされていた
特に儒教大好きおじさん林羅山はこの説を推していた
神儒一致思想のもと、天皇を儒教の理想国家である周王室の祖である古公亶父(太伯の父)に連なる血筋とすることで、天皇の権威が高まると考えた
もちろん反対意見はそれより多くあったので林羅山は個人の考えに留めたが

ここまで見た

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