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  • 1
  • 名無しさん@お腹いっぱい。
  • 2008/09/01(月) 12:48:29
語れ

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  • 441
  • 437
  • 2011/05/11(水) 21:12:48.84
いや、はやたまみたいなのじゃなくて、昼行バリバリで近郊列車扱いのやつだと福知山線くらいじゃないの?
京阪神もかなり昔に80系→153系→113系化してたし

まあ、常磐快速線も仙台行きの長距離普通が残ってるくらいだったかも知れんが

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  • 442
  •  
  • 2011/05/12(木) 00:17:36.11
>>441
中央本線の新宿〜高尾間ならば昼行バリバリの近郊列車扱いの客レと
103系と当時はまだ101系が同じ線路走っていたよ。


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  • 443
  •  
  • 2011/05/12(木) 00:51:16.36
ついでにいえば併走でもいいなら
東北本線の松島付近で
103系と普通客レの併走シーンなんてあたりまえにあった時期あるよ。


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  • 444
  •  
  • 2011/05/12(木) 01:03:45.77
横からスマソが、「近接併走」は今の話題とはやっぱ違うでしょw
同じ路線で、それも1日1本のような特殊な列車ではなく、ってところが、
多分437氏の言いたいキモの部分なんだろうと思うけど。


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  • 445
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  • 2011/05/12(木) 01:21:48.98
>>441
快速は80系から直接113系化された。
新快速は113系→153系(→117系)の順。
朝夕に急行(鷲羽)や新快速な間合い運用で153系の快速は
あったが。

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  • 446
  • 437
  • 2011/05/12(木) 23:51:46.62
みなさん色々情報ありがとう
私もまだまだ知らないことも多かったようで…
旧客や12系の間を縫うように走る黄色の最終増備103系の印象がかなり強烈だったんです

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  • 447
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  • 2011/05/13(金) 18:12:33.33
昔の切り離しはスケールがでかかった。
大阪発客車鈍行米子行き、後ろ2両福知山止まりとか。

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  • 448
  •  
  • 2011/05/13(金) 21:26:40.65
>>434
俺もだw

見○先生元気かなぁ。

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  • 449
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  • 2011/05/14(土) 00:06:59.75
>>448
懐かしい名前ですねぇ…。

うちの担任は古典の先生でした。

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  • 450
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  • 2011/05/15(日) 07:26:56.50
模型で再現したいので
教え下さい
全線電化直前
12系客車とキハ47の編成をご教授下さい
朝ラッシュは何両で走ってましたか?

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  • 451
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  • 2011/05/15(日) 10:41:39.57
その頃の朝ラッシュ時の写真によれば12系(白線入り)は5両。
キハ47は8両、ただし中間の向きはバラバラ。新製直後かどれもピカピカ。

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  • 452
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  • 2011/05/15(日) 12:31:46.64
>>451
そこに1両だけキハ58か28を混ぜるとなお効果的w

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  • 453
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  • 2011/05/16(月) 02:34:42.70
>>450
12系は4〜8連。
長距離のは時々マニ付、8連は大阪口〜線内だけだったと思う。
…ラッシュにキハ47あったっけ。
「丹波」間合いのキハ58系一往復(キロ開放)しか印象にないw
キハ47、昼間は4連、始発・最終の三田発着は2連。

>>452
大阪口と京都口は、急行型とローカルの車両が、
最後まで分けられていたから…。
福知山線だと、キハ58のローカル運用は前述の一往復と、
季節臨の「丹波ハイキング」ぐらいだったような。

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  • 454
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  • 2011/05/16(月) 07:44:44.40
今月のダイヤ情報に、三菱電機伊丹製作所構内で走っていたVVVF試作車の写真が出てますね。
福知山線や阪急神戸線の車窓から壁越しにチラっと見えていた謎の小さな電車って、これだったのか…
と永年の謎が氷解しました。
あの車両は実験終了後に解体されたんでしょうなぁ…

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  • 455
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  • 2011/05/16(月) 15:51:38.51
>>453
アクセントとして、レギュラーで一両だけ混ぜるんだよ。
実際そう言う運用もあったし。

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  • 456
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  • 2011/05/16(月) 22:54:12.47
>>455
福知山線の普通・快速運用のキハ47は、置き換え中の一時期を除いて、
キハ47だけで編成されていたんですよ。

客車のバラエティに富んだ編成に比べ、全く面白みに欠ける編成でした。

まあ、模型的には有りでしょうけど、実際は違います。

>>453
あとは、臨時の「デカンショ祭り」号位でしょうかね。


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  • 457
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  • 2011/05/17(火) 07:47:10.89
そう
おまえらがんばったんだよ。
なんだかんでいわれつつ
だれも人がこないなか
でもあんとき真っ先におまえら
動かしだんだよな
あれから世の中かわった
あれからおまえらにたいする評価がかわった
あれからおまえらただのローカル線じゃなくなった
あの事故でおまえらを非難するマスゴミは
その10年20年前を知っているんだよ
知っていて避難するんだよ
マスゴミって楽でいいよな
他人が失敗したとき騒げ仕事になるらしい

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  • 458
  • 450
  • 2011/05/18(水) 21:59:39.06
皆さんご教授ありがとうございました
朝ラッシュ時は、キハ47の運用は無かったんですか…
最大で8両
10両は山陰線しかなかったのかな?
12系も最大で8両
1000番台も混用されてましたよね
どちらも写真撮ってなくて悔やまれます
塚本を高速で通過してましたよね

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  • 459
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  • 2011/05/24(火) 21:21:05.96
30年近く前消防のころ、篠山口時間調整で長時間停車したとき
弁当売りのオッサンにいきなり又ぐらつかまれて、半泣きなったわ。

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  • 460
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  • 2011/05/24(火) 21:39:28.92
>>459
何悪さした?

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  • 461
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  • 2011/05/25(水) 07:31:49.59
胸ぐらじゃなく、又(股)ぐらだったのか?

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  • 462
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  • 2011/05/27(金) 04:58:12.54
となりのオネーサンの胸ぐらつかんだんじゃないか?

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  • 2011/05/28(土) 16:46:51.53
きれいな淫乱姉さんの股ぐらにぶち込んだんじゃないの?

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  • 464
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  • 2011/05/28(土) 18:10:36.98
鈴木清順の「ツィゴイネルワイゼン」で、盲目の門付けが歌っている
もの凄くヒワイな替え歌を思い出したw

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  • 465
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  • 2011/05/29(日) 02:20:23.54
>>459 昭和の時代はサービス業に向いて無い人が平気でサービス業に就いてな。万札で弁当買おうとすると大概怒られたり、販売拒否されたもんだ。


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  • 466
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  • 2011/05/30(月) 15:10:04.43
>>458
もろ地元(宝塚付近)の私から一言(宝塚電化前)。
キハ26が必ず<><>という編成なのに対し、キハ47は、<<>>(但し快速は3連)という奇妙な編成構造だった。
47の8連は、それを2本連結したもの。何故かラッシュ時ではなく、ラッシュ時過ぎてしばらくした時の大阪方面行きだった。
キハ47になる前は、キハ10、17、20、25で組成されていた。20・25はバス窓車もいた。何故かキハ26が入る事はなかった。
キロ改造のキハ26は遠くからでも良く分かった。
それよりも朝7時台に、急行の間合い普通が入っていた。当初はグリーン車計2両、後に編成短くなり1両になった。時刻表にグリーンマークはなく、無料で座れたが、遠方からの通勤客が占拠してめったに座る事は出来なかった。
早朝深夜の宝塚−大阪区間列車は、キハ28・58だった。新大阪発朝イチ、及び新大阪着最終便のひかりに乗る時にだけ、乗った。

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  • 467
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  • 2011/05/30(月) 15:22:09.90
宝塚駅では、前後の踏切ともに有人踏切だった。
まつかぜ13連、急行の10連以上とか、ホームはみ出て踏切までかかって止まっていた。
今、下り待避線を準備しているところの三田側には、貨物駅があって、何故か二軸のレサが止まっていた。
入れ替えは超小型のアントが行い、貨車を貨物駅から、当時あった中線に貨車を動かしていた。
中線が大阪側で一番線に合流しており、そこのホームだけ、接触しないように内側に削られていた(後に、中線廃止時に埋めた様な記憶有)
大阪側2番線は今の様な島式ではなく、ちょっとした庭園風の池があった。三田駅上りホーム篠山側にもそれがあったが、今はどうなってるやら。
ラッシュ時の改札は、古い駅舎の、手回し式行き先表示板の下以外に、出札専用として、駅舎と便所の間にあった通路のようなところも使用していた。
古い駅舎を入って左側は、後にはTISになった(だっけ?)が、元は荷物用の窓口があり、それにあわせて間仕切机も低かった。

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  • 468
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  • 2011/05/30(月) 15:32:49.85
国鉄宝塚駅前広場は、国道176号線があったので、今よりだいぶ狭かった。
その頃から全但タクシー乗り場はあったが、あまりにも狭いので、多くて2台位しか常駐できなかった。愛想も阪急タクシーより悪かった。今も一緒か(笑)
そのタクシー乗り場、そして阪急バス「おりば」と阪神バスターミナルのあるところは、コンクリート敷だった。
国道176号線、柵、阪急バス「おりば」、通過用車道、阪神バスターミナル、柵、国鉄宝塚駅、の順に並んでいた。
176号線の向こう側には、太陽神戸銀行と、日本生命、エーデルワイス、(阪急今津行ホーム側改札口に直接いける道につながる)交差点、そして本を駄菓子屋の様に平らな木枠ガラスケースに収める古めかしい書店があり、お婆さんと猫が店番をしていた。

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  • 2011/05/30(月) 15:47:51.54
宝塚駅改札の上にあった手回し式行き先表示板は、確か上り下りとも、2本分を表示できたと覚えている。
有人踏切の係員は、ヘルメットを着用していた。色は白だったか、黄色に赤線だったか・・・
篠山側にしばらく行くと、最近取り扱いを停止した惣川貨物駅がある。当時は砕石の他に、武庫川対岸にあったバヤリースオレンヂを積み込む為の、
せいぜいが2軸ワフ2−3両分しかない、行き止まりの専用ホームがあり、工場専用の日野のボンネットトラックが製品を運んできていた。
このボンネットトラックは、1980年頃になっても工場専用車として活躍していたと記憶する。
ちなみに貨物駅付近は、古く阪鶴鉄道敷設作業に従事した朝鮮人の末裔といわれる人も住んでいる(そんな時代に朝鮮人が従事していたのだろうか?これは良く分からない)。
今でも「朝鮮総連○○支部」と殴り書きしたような看板らしきものが、ヤード線の向こう側、古いバラックの辺りに見えるのだろうか。

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  • 2011/05/30(月) 16:04:04.86
武庫川鉄橋は、昔は当然単線だった。橋がカーブしているという面白い構造だった。
作業員通路は川下側にあった。川上側の下を列車から覗き込むと、支柱の所に小さな待避場所が有る以外は、武庫川しか見えなかった。
そこを旧客で通過する際、扉を開けて、手摺をしっかりつかんだ上で、ほぼ全身を外に出す肝試しを何度もした。
カーブの上から、真下遠くに武庫川の急流をアクロバチックに覗き込む。何と危険な、でも何と面白い遊びだったか!
ちなみに、敷設時は生瀬の町を避けて、武庫川北岸を通す計画があったと聞く。実は、北摂中央病院の東側、中国道を隠す岩山の下に、
当時掘られて、中途で掘削を止めた(と言われている。本当かな?)トンネルの跡がしっかりと、あるのだ!
そのまま貫通していれば、惣川貨物駅の砂利投入ホッパーの下の留置線あたりにつながってただろう。
でも私が昔、病院関係者の目を避けて行った時には、そんなに古い時期に掘ったトンネルとは思えなかったが、露天掘りではあった。
乞食らしき人が住んでた形跡があり、ちょっとした物が散乱していた。今はどうなっているやら。

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  • 2011/05/30(月) 16:09:09.77
ちなみに、未成トンネルといえば、武庫川沿いの旧線の、木之元を過ぎて最初の長いトンネルを抜けて左側の、川沿いの細い側道を少し戻ったところにもある。
これは、北摂中央病院東の未成トンネルに比べて、狭苦しいように感じる。昔の朝鮮人従業者が落書きした跡があると聞いたが、まだ確認したことが無い。

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  • 2011/05/30(月) 16:43:14.16
生瀬駅は、ちょっと面白い駅だった。
まず、古い駅舎に駅員が常駐していたが、出札業務は行わなず、運転要員のみであった。
南側の古い駅舎の中は、宝塚駅を簡素にしたような構造になっていて、やはり低い机が設置された荷物用と思しき窓口が残っていた。
但しその時点で荷物取り扱いはしておらず閉鎖されていた。
ベンチは木製で、鋳鉄製の支柱の丸いカーブに沿って板が粗めに貼り付けられていた。
改札口はコンクリート製で、出札業務を行わない為、お宮の賽銭入れの様な切符回収箱があり、その手前の小さな木箱の中に、乗客用の、藁半紙で作られた「連絡乗車票」(だったか?)が無造作に入っていた。
乗客は乗車前にそれを取って、下車駅で精算するのである。他の無人改札の駅も、これがあったと思う。


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  • 2011/05/30(月) 16:48:09.94
面白いのは、駅の構造はどこでも見かける、駅舎-単式ホーム-島式ホーム(+砕石用貨物線)だったのだが、その駅舎側の単式ホームに接する1番線は、何故か全く使われていなかった。
たまに、2番・3番線をつなぐポイントの具合が悪いときだけ使用されていた。
おそらく、篠山口側に保線作業車用の側線(旧貨物駅)があった関係上、有効長が短いままで長く出来なかったのだろう、最期まで、開業当初に近い低い高さで残されていた。
そんな訳だから、生瀬駅で列車交換の時は、2番線と3番線が使用されていた。2番線に篠山口方面行客車列車が到着する時が面白かった。
生瀬駅には跨線橋が無いものだから、そのまま島式ホームに下りてしまうと、列車が出るまで改札口に行けない。列車が出て、駅員が駅舎に向かう横断通路に下りる階段を閉じていた鉄板を手前に動かして、初めて横断通路に下りられる。
それまで待つのはまどろっこしい。列車交換がうまくいかなければ、5分以上も待たされたままである。
ならば、と、篠山口方面行客車列車の乗客で生瀬駅で降りるものは、おおよそ3つの選択肢があった。
?列車が出るまで待つ(少数)、?島式ホーム大阪側スロープを下って線路の道床を渡り、北摂中央病院・花の峯台若しくは生瀬の町の線路側と繋がっている小径を進む(少数)、
そして、?客車から直接1番線の線路上に降り、枕木を踏んで横断通路、改札口まで辿り着く!、これである。

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  • 2011/05/30(月) 16:59:06.04
もともと、福知山線は旧型客車が多く走っていたから、列車が完全に停止する前に、改札口・跨線橋・連絡通路に近づいたところで、ひょいとホームに舞い降りる「粋」なやり方をよく目にした。
生瀬の2番線到着客車ではそれを超えて、まず開けっ放しの出口のステップから更に足を下に進め、金はしごの最下部につけた上で、
連絡通路に近づいた頃合(離れたところでは停止直前の頃合)を見計らって、直接1番線の道床に「飛び降りる」のである。
ホームでやる時ですら、失敗して大きく転んで乗客の冷笑を浴びる程に危険な行為であるのに、それを道床でやってしまうのである。
さすがにご婦人方でそれをする人は見かけなかったが、男性、それに女子高生とかは平気でやっていた。ご婦人方はそれでも、完全に停止してから、ゆっくりと道床に降りていた。
そして時には、列車が発車して島式ホームから渡って来たのは、件の駅員一人のみである事も有った。

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  • 2011/05/30(月) 17:11:45.57
その他生瀬には、島式ホームに申し訳程度にある木造の待合室、これまた少しばかりの庭園に水が勢い良く落ちてくる水路の滝、常に蛆が湧いている汲取式便所、
保線作業車と留置線、篠山口・国道側にコンクリートブロックで作られた保線小屋、そして砂利積込用貨物線があった。
砂利積込の際は、10トントラックが直接ホッパー車に砂利を落としていた。中々豪快な見物であった。
話はそれるが、藤原紀香は大人になる前の一時期、こんな所に住んでいたのだ!(そんな古い時代に居たかどうかは別にして)
あの蛆の湧いた便所で用を足していたとは、到底考えられない。



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  • 2011/05/30(月) 17:19:41.29
そして、駅の篠山口側には、有人踏切があった。用事でそこを通ることが多く、踏切番とも顔見知りになり、実際に列車通過前に手動踏切を降ろさせてくれたことも有る。
そこを、あのDD54が、「ダダン、ダン、ダダン---」という特徴的なジョイント音を発して過ぎていくのである。
末期のDD54は、1日に2−3本しか見かけなくなった。車体も煤で相当に汚れていた。
それでもあのマスク、とりわけ、おでこライトの初期型、銀色の角ばった窓枠が光る中期形は格好良かった。Hゴムの後期型は見栄えがいまひとつだった。
あの踏切で、ほれぼれする様な走行音を聞けたのは良い思い出だ。
あの角刈り眼鏡の温和な駅員は、まだ生きているだろうか?

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  • 2011/05/30(月) 17:30:01.96
宝塚駅にしろ生瀬駅にしろ、変わり過ぎてしまった。昔の名残は全てなくなってしまった。
変わってないのは、途中の惣川貨物駅のホッパーあたりだろうか。
宝塚や中山寺では、ホームの下に残っている旧ホームぐらいだろうか。
生瀬では雑草に埋もれた砂利津積込台の壁面は殆ど分からないし、
電化後に残っていたホーロー製の縦書き青色ひらがな駅名表示も無くなってしまった。
いや、人知れず残っているものがあった!
生瀬駅の上りホームの大阪寄りの外側に生えている楠の木、あれは、旧島式ホーム大阪側の真ん中に頼りなく植わっていた楠の木だ!
生育が余り良くなく、根元に白い「梅寄生」(コフキサルノコシカケ)が生えているのを見て、「ああ、これにまとわり付かれたという事は、この木も相当弱っていると言う事だな」と思っていたところが、
幸運な事に新線切替の為に放っておかれ、おそらく除草剤を周囲に撒かれる事も刈り込まれる事もなくなったのだろう、知らないうちに大きく育っている。
「俺だけがひっそりと生き残った」と言わんばかりに。

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  • 2011/06/03(金) 02:59:16.28
俺も書くか。

長らく福知山駅東方、山陰本線の踏切「内記稲荷踏切」は有人踏切だった。
福知山線踏切の「女学校下踏切」ともども、よく列車を見にいったな。

福知山駅構内、列車が駅を発車すると、駅構内で警報機がなるんだけど、
山陰本線の列車だと「ケーンケーンケーンケーン」と高い音、
福知山潜の列車だと「カーンカーンカーンカーン」と普通の警報音だった。

一日中、福知山客貨車区の入換えはよく眺めてた。
機関車は、DE15だったりDD15だったり。DE15が後やったかな。
とある時期に入換え機関車ノ後ろに控車ヒ600がぶら下がってた事がある。
用途は知ってたけど、係員が乗ってるは見た記憶がないなぁ。

爺さんの家が駅南側にあった。爺さんの家に行くのに「岸本ガード」って言う
名前のガードをくぐって駅南側に出てた。やたら天井の低い湿っぽいガード。
列車が通過したらものすごい音がしたもんだ。当然、垂れ流しの色んなもんも飛んで来た。
爺さんの家の窓からは福知山客貨車区がよく見えた。
夏休みとかに祖父の家に帰ると、よく朝の散歩に付いて廻ったな。
その当時、廃止になって久しいDD54が、福知山機関区の扇形庫の外れに、
道路に向いて置いてあった。雨ざらしで塗装も褪せてたけど、写真撮ったな。
何で放ってあるンかなと思ってたけど、交通科学館に行く事になって結構びっくり。
散歩コースはあまり憶えてないけど、駅の西側、の陸橋あたりで「いなば」を見送るのが常だった。

福知山駅の南側、全然違う町になったね。当然爺さんの家なんか残ってない。
モロ区画整理の波にのまれてしまった。つまらん町になったもんだ。


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  • 2011/06/03(金) 13:16:27.62
9時55分ころだった?
博多行きの13連のまつかぜ1号が福知山駅3番ホームに
入っていくのは今から思えば感動物だった

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  • 2011/06/03(金) 16:12:45.03
昭和49年頃までは急行「丹波」とかに、1〜2両、キハ26が入っていた。
オハ61とかは、昭和55年ごろまでだったかな?
スハフ42の乗り心地は堅実な感じ、10系客車は少し軽やかな感じだった。
背もたれとかは、やはり10系客車が良かった。

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  • 481
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  • 2011/06/03(金) 16:18:04.79
篠山口の弁当売りのおっさん、最期はテレビに出たりして愛想を振りまいていたが、俺が会った時は、おっさんを見ただけで掛け声を無視したら、「何や、買わんのか」みたいな感じで嫌味を言われた。
あのおっさんは性が悪いで。

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  • 482
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  • 2011/06/03(金) 16:20:03.57
そうそう、篠山口のおでんはまだ売ってるかな?
あれは美味しかった。

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  • 483
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  • 2011/06/03(金) 16:25:17.90
>>480
記憶があやしくなりつつあるので、あくまで「間違ってなければ」だが、
56年の夏に61系に乗った事がある(…と思う)。
大阪発の編成の一番後ろにぶら下がってた。
おれは喜んで乗ったが、みんな敬遠したのか、他にだーれも乗ってなかった。

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  • 2011/06/03(金) 16:29:33.73
道床の砂利は、丸い石だった。川原での砂利採取禁止前のものであろう。
それが、適度に土と混ざって、鉄粉とかで茶色くなっていた。
本線は37?レール、側線は30?レール、だったかな?

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  • 2011/06/03(金) 16:33:09.16
>>483
その頃あたりだったかな、荷物取扱が無くなる前に、滅多に見ないオハニ36を連結してた事があって驚いた事がある。
もちろん背もたれは木のみ。それでも天井は白色に塗られていた、と思う。

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  • 2011/06/03(金) 21:29:21.46
中間に空の荷物車を連結していた編成があった。
締め切りされていなく、通り抜けできた。
まだ写真撮影してない頃。

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  • 2011/06/03(金) 22:18:38.85
>>485 61系はS57年夏に乗ったような気がするオハニ36の背もたれって、モケット張り頭持たせ付きだったような、もしかしてオハニ又はオハユニ61?


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  • 2011/06/04(土) 08:47:21.97
皆さん、昔の福知山線について沢山思い出をお持ちなんですね。
私は猪名寺ユーザーですから、あまり昔の事は知りませんが、猪名寺駅の下り始発が出雲市行きだったり、
DD51が12系客車を牽いてゆっくりと猪名寺駅を出て行くシーンなどは鮮明に覚えています。

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  • 2011/06/04(土) 18:04:09.28
オハ35、オハフ33なんか平均以下で、スハ43、スハフ42、ナハ、ナハフ10なんかが良かった。

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  • 2011/06/04(土) 23:14:26.45
山陰筋の10系座席車の末期は床のリノリウムがかなり剥がれてて、鉄板むき出しの車が結構あったし乗る分にはがっかりだった。米子のハコは手入れが悪かったんかな〜窓ガラスは錆色だったし。


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  • 2011/06/04(土) 23:27:16.99
他所に書いたたやつで悪いが、こちらにも書いておく。

昭和50年代中〜後半、宝塚市某界隈に住んでいた頃、
大阪への行き来は福知山線を利用していた。(大抵の人は阪急利用)
当時、さすがに32と鋼体化客車はいなかったが、福知山・米子局の車は
10・35・43、それぞれに様々なタイプがあり、バラエティに富んでいた。
宮原もいくらか運用を持っていたが、43の青色ばかりで、面白みはなかった。
しいていえば、元リラックスカー(背ずり上部がステンレス)が珍しいくらい。
まだまだ贅沢な時代だった。

オハ46 2040 大ミハ 
元リラックスカー(この件記憶違いならごめん)

オハ35 631 福フチ 
戦後製、丸屋根、TR34付きの車両。TR34以外は客扉など戦前製に近い。
ただし、車内の造作はかなり簡略化されている。

スハ42 68・69 福フチ 
スハ42の近代化改造車で、アルミサッシ化、便所窓Hゴム化? 但し客扉はHゴムの大窓、
外観は一見オハ36を思わせる。
車内はポリエステル化粧板、腰掛はオハ35の標準タイプ、頭もたれ無し、背ずりの布団は一枚物。
室内灯は20Wサークライン2列、スハ43等と同じ。蛍光灯改造時に2列になった物か?

ここまで見た
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  • 2011/06/05(日) 10:15:25.66
DF50牽引の旅客・貨物はそこで見た事がある。
さすがに32型客車には乗っていない。
小窓にもかかわらず、たてつけが悪い様である。

砂時計アラームタイマー
フリックゾンビ
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