昔の福岡を語っちゃってん!パート17@九州/まちBBS [machi](★0)
-
- 438
- 2015/01/30(金) 19:02:25
-
天神の有名屋台「小金ちゃん」が1985-86年頃だったかな?
屋台開設25周年だか30周年の記念パーティーを
西鉄グランドホテルで大々的に開催したのを覚えてる。
当時福岡一の大宴会場であるNGH2F「鳳凰の間」に
なんと屋台そのものをクレーンエレベーターで上げて運び込み展示、
大将女将さんはタキシード&ドレスで登場!栗の助がMCで洒落た演出。
豪勢なホテル料理ももちろん出たけど、屋台でそのままラーメン作って出してくれたり
ユニークで度肝抜かれる、凄いパーティーだったわ。。
-
- 439
- 2015/01/31(土) 03:15:34
-
≫438
ホテルで盛大な記念パーティーをする程、儲かりました、って事だろ。
そんなパーティーがあった事は知らんけど、庶民を相手にこつこつ商売をやってきた屋台が、ホテルで記念パーティー!?
何か違和感を感じる・・・と言ったら叩かれるかなww
-
- 440
- 2015/01/31(土) 09:39:50
-
コツコツやってウン十年だからこそ、節目に感謝の意を込めておもてなし。。で別にいいんじゃないですか?
時に時代は右肩上がりのバブル最盛直前の好景気の80年代。
逆に派手で当たり前、金掛けたおもてなししないと失礼にあたる時代だったのでは?
そもそもこの手のパーティーは、客の有志が発起人会等を結成して主導するものだし。
ま、客は無料で招待されても、ご祝儀包むし。儲かっておめでとう、これからも儲かって下さいてなもんだね。
今の世知辛いデフレの「不寛容」の時代には私はウンザリですわ。
昔は一億総中流といいながら、総セレブ的な感覚で浮かれてたのは確かだねw
-
- 441
- 2015/01/31(土) 09:55:56
-
>何か違和感を感じる
屋台のおやじ夫婦がタキシード&ドレスで登場するその違和感を
楽しむのがこの会の主眼だったのでは?
-
- 442
- 2015/01/31(土) 10:13:44
-
いや、タキシード&ドレスで登場てのは、現場で「ミスマッチ」感覚を楽しむてことであって、
440氏の言う「違和感」とは違うと思う。
屋台という職業を低く見てることと、今の時代の不寛容感覚から出た「違和感」じゃないかな?
当代切っての屋台、屋台の本場福岡でもNo.1の屋台だったわけだから
それなりに儲かってて当たり前で、ホテルでパーティーぐらい軽くやれるし、
そのことを、とやかく言ったり言われたりする時代じゃなかったよ、当時は。
-
- 443
- 2015/01/31(土) 11:03:04
-
とりあえず、小金ちゃんの焼きラーメンは決して美味しいものではない
今では観光客しか行かない
ということで締めときましょう。
-
- 444
- 2015/01/31(土) 11:25:22
-
焼きラーメンは、小金ちゃん発祥。
美味いと思う人がいたから広まったのでは。
ま、おれももう17-8年行ってないけど。
もう大将、現役じゃないよね?娘さんが継いだのかな?お弟子さんが継いだのかな?
-
- 445
- 2015/02/02(月) 15:14:06
-
四十数程前、
ウチの近所の人が
通勤に馬で一般道を疾走していた。
道交法的には今も大丈夫なんだろ?
交通ルール守れば・・・
-
- 446
- 2015/02/02(月) 19:57:03
-
馬は軽車輌扱いだから別に問題ない。
-
- 447
- 2015/02/03(火) 09:49:58
-
そーいやー
うちの近所に昔「上野乗馬クラブ」ってのがあったなー
筑紫通りに、よく馬糞が落ちてたもんだ
-
- 448
- 2015/02/03(火) 12:36:52
-
40年ぐらい前に乗馬通勤?さすがにそんなの見た記憶はないなあ。
「上野乗馬倶楽部」は聞き覚えある名前だけど。。。
まあでも、その45年ぐらい前まで、春日の須玖辺り、井尻駅から僅かな距離の所で
田圃耕すのにまだ牛が活躍してたのは覚えてる。
通学路の舗装された道で、朝夕、お百姓さんに連れられてる2頭の牛も、
仕事場の田圃に通勤してたなあ。
あの頃、春日が市に昇格したばかりの頃はホントまだド田舎の農村で、
田圃の畦道には湧き水がたくさん湧いてたし、
秋の通学路では、柿はもちろん、枇杷やザクロの実がたくさんぶら下がってて、
それを道すがら採っては食べ採っては食べで行き来、通学してた。
-
- 449
- 2015/02/03(火) 23:58:02
-
すでに今まで何回も出てきたネタだろうけど・・・
冬、小学校の帰り道に 友達とふざけながら帰ってる奴が、雪が積もって隠れてる肥溜め《ドンベンダゴとか云ってた》に、過って落ちてた。
昔の福岡は、結構雪が積もってたので、真冬でカチカチになった肥溜めに積もって判らん事があった。
夏のタンボの人糞肥やしの凄まじい匂い、冬の焚火の煙り・・・・今だったら、異臭や煙りでも出そうものなら、近隣からすぐ通報されて当たり前。
昔とはいえ、おおらかだった。
-
- 450
- 2015/02/04(水) 09:36:57
-
そしてあぜ道や川のなかに犬が死んでいた。
-
- 451
- 2015/02/04(水) 18:23:08
-
小金ちゃんは昭和28年筑紫丘高校卒だとか。
在校中に移転を経験していることになるのかな。
-
- 452
- 2015/02/05(木) 09:23:00
-
「一丁目」の名前の由来は
渡辺通り一丁目交差点かららしいが、
地元の人は違うと言われる。
地元の人は
あの交差点を中心に
渡辺通り、高砂、清川、春吉の
一丁目が集結してるところからだと
言われる。
ちなみに薬院駅に向かっての城南線沿いには
白金、薬院の一丁目もある。
-
- 453
- 2015/02/05(木) 09:43:58
-
>>452
なるほど。けっこう「納得」です。
九電ビルの所在地は中央区渡辺通二丁目ですが業界人の間では
九電に行くことを「一丁目に行く」というそうです(人に聞いたことです)。
九電=一丁目ですね。
-
- 454
- 2015/02/05(木) 11:08:54
-
現行住所では、ニューオータニ、サンセルコが渡辺通り1丁目1番1号です。
オータニと電気ビルの間の渡辺通り上に、というか一丁目交差点の真ん中?に
チンチンの循環線と城南線がクロスする大電停の
「渡辺通り一丁目」電停がデーンとあって、そこから天神に向かうと
「渡辺通り二丁目」、「渡辺通り四丁目」の電停を経るのですが、
まぁ同じ通り名なので、通り名を略してそれらの電停名を呼ぶようになってからが、
あの辺りの地名で本格的に「一丁目」地名が定着した契機ではないでしょうかね?
「電停名起源説」です(笑
-
- 455
- 2015/02/07(土) 13:32:49
-
西新パレスのタカノさんは今何やってるんだろ?
-
- 456
- 2015/02/07(土) 15:32:38
-
バスや電車の車掌さんだった方が
ワンマン化された後の配置転換で
西新パレスのフロント業務などをされていた。
-
- 457
- 2006年から西新在住
- 2015/02/07(土) 16:47:34
-
西新流れだけど、昔は岩田屋やビブレがあったんですよね?
俺が西新知った頃にはプラリバになり、ビブレはなかったんで。
その当時の西新の人通りや繁華街規模はどんな感じだったんだろう
と思って。
-
- 458
- 2015/02/07(土) 17:02:28
-
>>455
戦国焼鳥家康のCMに出てたよ
嘘
-
- 459
- 2015/02/07(土) 17:25:03
-
むしろ、岩田屋やビブレが出来る前の西新が良かった。
-
- 460
- 2015/02/08(日) 09:48:16
-
西新のビブレ、ライブハウスがあったな。
-
- 461
- 2015/02/08(日) 18:52:20
-
あの辺の空を見上げるとユニードとかニチイとかのアドバルーンを思い出す
まだ小さかったんでよく覚えとらんけど
-
- 462
- 2015/02/08(日) 19:28:17
-
>>460
嘉門達夫のお気に入りだったライブハウスのビーベンか・・・。
まだメジャーになる前の椎名林檎もビーベンで何回かライブをやってたな。
-
- 463
- 2015/02/11(水) 13:35:38
-
>>457
ビブレは今のハローディや西日本シティ銀行があるとこにあった
ビルの持ち主が「立て替えたいから出て行って」と言うみたいな感じの
博多井筒屋みたいな閉店だったはず
岩田屋はまぁ久留米の岩田屋を少ししょぼくしたみたいな感じだったような・・・
商店街はリヤカー屋台とかもう少し多くて当時は歩きにくいと感じたけど
今は少しさびしくなった気がする
繁華街規模はそこまで大差ないよ
チェーンが増えて個人店が減ったけど
-
- 464
- 2015/02/11(水) 19:08:11
-
>>463
ビブレ跡地は今のテングットシテイですね。ビブレのビルは
てんぐ布団が持ち主だった訳か。
-
- 465
- 2015/02/11(水) 21:35:27
-
>>464
ニチイ西新店〜西新ビブレのビルの正面(脇山口交差点側)には
天狗のマークと「てんぐ屋ビル」の文字看板が付いてましたな・・・。
現在のてんぐ屋は事実上不動産屋と化してますな・・・。
清川の店舗も西新のテングッドシティと同じデザインのマンションに建て替えてしまった。
-
- 466
- 2015/02/12(木) 01:27:24
-
そう、当時西日本新聞で読んだ感じだとビルの持ち主の「てんぐ屋産業(?)」と
ビブレの折り合いがつかなかったとかなんとか
-
- 467
- 2015/02/14(土) 00:31:15
-
西新ビブレってどの位の規模だったんだろ?
-
- 468
- 2015/02/14(土) 08:40:53
-
「てんぐ綿」の琺瑯看板よく見てたけど、あれは北部九州だけだったのかな?
-
- 469
- 2015/02/14(土) 14:33:55
-
ttp://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/kirby20th/20130604/20130604203659.jpg
ニチイ時代しかないが中学校の頃の記憶ではこれがビブレになって
中の銀行が福岡シティ銀行になってるだけだったはず
敷地規模はテングットシティと同じ
引っ越して二年くらいで閉店で入ったのは閉店セールの時だけだったから
中の記憶はあまりない
-
- 470
- 2015/02/14(土) 21:25:12
-
今、ヤフニューTop見て驚愕。。。
シーナが亡くなった。
鮎川さん、落ち込んでるやろねー。
合掌。
You may dream!!
-
- 471
- 2015/02/15(日) 00:35:29
-
「世界のすべてが違って見える」
シーナがこう感じたのは1971年、高校3年の夏の朝だった。福岡市・春吉の通りを散歩していた。一人ではない。横には結成されたばかりのバンド「サンハウス」のギター、鮎川誠が歩調を合わせていた。
そのギターが運命の赤い糸だった。前夜、市内のダンスホール「ヤング・キラー」に入った。「サンハウス」が演奏していた。
「あれ、この曲は?」
英国のブルース・ロックバンド「ジェスロ・タル」の「ブーレ」。「ブーレ」はバッハの曲で、それをアレンジしたものだった。
シーナは数日前、京都に旅行していた。四条河原町のジャズ喫茶「ブルーノート」でかかっていた曲が「ブーレ」だった。鮎川の荒々しく、そして魂のこもったギター。
「感覚もいいし、かっこいい。素敵な人だ」
予感を感じた。
「ギターの人を呼んで」
「サンハウス」のドラム、浦田賢一に頼んだ。やってきた鮎川に言った。
「友達になって」
その夜、鮎川とシーナは鮎川が下宿していた春吉にある叔母の家で時間を忘れ、語り合った。
春吉を散歩中、シーナは「このあたりに下宿しようかな」と思った。そのとき、目の前に張り紙。「下宿有ります」。3畳一間。二人の生活がスタートした。家主の飼っていた九官鳥の声がシーナにはおかしかった。
〈モシモシ、ソレガデスネ、アレガデスネ…〉
× ×
-
- 472
- 2015/02/15(日) 00:37:53
-
シーナは北九州市・若松生まれ。音楽に関しては超のつくほどおませだった。父が米軍基地に自由に出入りできる仕事をしていた。小学校6年ごろから父の持ち帰る洋楽のレコードを聴き、ときには父の社交ダンスの相手もさせられた。
中学校のときに同市の八幡市民会館に「タイガース」のコンサートに行った。母が「腹がすくから」と会場におにぎりを持ってきた。呼び出しの場内アナウンスが流れ、補導中の先生にばれた。同市の小倉市民会館での「スパイダース」でも学校にばれ、仲間はビンタをもらった。「家を出よう」。約束した集合場所に仲間たちは来なかった。
スーツケースを買い、一人で上京した。新宿のライブハウス「アシベ」に行くと「お前たちは帰れ」とホースで水を浴び、すっかりGS(グループサウンズ)の熱が冷めた。
高校時代になっても小倉のジャズ喫茶「アベベ」やダンスホールにも通った。レコードを大音量で聴き続けるため、ヘッドフォンが数日間で壊れた。筋金入りの音楽少女だった。
鮎川は「男女を超えた最高の話し相手」と言うように友達であり、恋人であり、ロックの同志だった。シーナは鮎川の側で「サンハウス」の進化を目撃する。
「サンハウス」が解散した1978年の11月22日。九州大学の箱崎祭で鮎川とのバンド「シーナ&ロケッツ」としてデビューする。ステージの幕を身にからめてシーナは祈った。
「私はここで生まれ変わる」
-
- 474
- 2015/02/18(水) 17:36:36
-
>>467
今の天神ビブレとほぼ同程度の敷地面積で地上四階、地下一階だったよ
地下はライブハウス兼レストランのビッグベン、一階は化粧品と女子向け雑貨とこざこざ、
二階は女子お洋服、三階はメンズお洋服少しとこざこざ、四階は書籍と文具とおもちゃ
だったような気がする西南1986期♀。
-
- 475
- 2015/02/18(水) 22:39:09
-
西新と言えばパブ芋貴族。
-
- 476
- 2015/02/18(水) 22:46:38
-
芋貴族と言えば飛び抜けた美女、進藤久美子。
狼に喰われてもーたわ。
-
- 477
- 2015/02/19(木) 23:55:52
-
地下はビーベンだったような気がする
-
- 478
- 2015/02/21(土) 14:00:57
-
ビーベン、ニチイの地下にあった「ビッグベン」のこと?
-
- 479
- 2015/02/21(土) 14:03:11
-
ユニードにばかり行っていて、ニチイにはあまり行かなかった。
-
- 480
- 2015/02/25(水) 16:57:01
-
ライヴハウスと言えば今なお続く「照和」。
スポーツセンターがソラリアプラザになっても
NHKが移転しても
教育会館が岩田屋Zサイド→岩田屋本館になっても
-
- 481
- 2015/02/26(木) 16:07:49
-
「照和」は有名になる前によくモーニングを食べに行った。
普通の喫茶店だった。
-
- 482
- 2015/02/26(木) 19:03:22
-
照和が有名になる前って1970年台の前半ですか?私が長渕剛を見に行った77か78年は、もう結構全国的に有名だった記憶があります。
-
- 483
- 2015/02/27(金) 13:50:43
-
70年(前後)頃です。
-
- 484
- 2015/02/28(土) 12:58:22
-
「フォーク喫茶」という言葉があった頃ですね。
-
- 485
- 2015/03/03(火) 19:54:45
-
室見川 白魚漁は行われているのだろうか?
昭和43年頃 火事をおこした室見モーテルは?
-
- 486
- 70年代南区在住
- 2015/03/04(水) 01:14:37
-
今は東京在住の48歳です。
南区の三宅スレと大橋スレを読み、此処にたどり着きました。
このスレは、大橋関連の話もときどきあり、
天神、博多駅、旧筑肥線、そして「よいこの社会科」の話題など。
本当に懐かしくなりました。
70年代に5年ほど在住し、
90年代中ごろに1度博多駅近辺で1泊、
そして今週末にまた20年ぶりに福岡を訪ねる予定なのですが、
良い予習になりました。
ワクワクしております。
-
- 487
- 2015/03/04(水) 02:58:57
-
>>486
ようこそ福岡へ!
忘れずに訪れてくださってありがとうございます!
-
- 488
- 70年代南区在住
- 2015/03/05(木) 01:07:20
-
>>487 さん
もしかして、大橋スレでここを紹介してくださった方でしょうか?
(ドメイン情報からなんとなく・・・)
年も性別も、職業もわからないですが、よろしくお願いします。
20年前は1人でぶらっと、昼は太宰府、夜はバスで福岡ドーム近くをめぐり、
そして旧住所近辺(三宅を中心、大橋・和田の辺りも少し)を
歩き回っていました。
今回は、親孝行をかね、両親と行きます。
太宰府と大濠公園は外せないと思っています。
途中、遠出して門司港にも行く予定です。
そういえば、このスレで社会科見学の話がありましたが
私も5年生のとき、八幡製鉄所を中心に、北九州見学がありました。
天気に恵まれるといいな!
-
- 489
- 2015/03/05(木) 12:48:40
-
「よいこの社会科」について書き込んだ者です
「よいこの社会科」は今でも
一社が福岡県全部を発行しているとか
南区だったと思いますが
一度見学に行きますと言っておきながら
数年経つのに行けていない
このページを共有する
おすすめワード