facebook twitter hatena line google mixi email
★お気に入り追加


  • 190
  •  
  • 2008/09/14(日) 07:04:28
>189
斜視やけんサングラスかけとうて言う話聞いたことがあったばって、
そりゃガセやったっちゃね。
それとも、その怪我がもとで斜視になったとかいな?

ここまで見た
  • 191
  •  
  • 2008/09/14(日) 08:46:41
片目は見えないはず

ここまで見た
  • 192
  •  
  • 2008/09/16(火) 10:58:52
昨日、15年振りぐらいに 放生会 行ってきました・・・
サザエさん症侯群が著しい連休最終日の夜というのに、凄い賑わいでした。
見世物小屋も健在・・昭和の時代にトリップした感覚になった。
学生の頃、友達に良いバイトがあると連れられて行ったら、
その事務所が箱崎の大鳥居の前。平●総業というテキ屋さんの元締めの組ww
放生会で甘栗売る仕事・・お金箱にしてた洗面器の中に次から次に千円札が溜まった。
甘栗だけで1日三桁万円になることもあった・・
一日終えて片付けしてると、組の若い人が廻って来て洗面器を受け取り、
その洗面器の中にガバーと手を入れて、札をワシづかみ、
「お疲れ〜」と行って、日当をくれた。
一掴み千円札だけで20-30枚ぐらい有り、時には、その中に1万円札がまじってることもあるから
実に、割のいいバイトだった。
でも堅気な私らとしては、さすがに次の年からは遠慮したけど・・・

ここまで見た
  • 193
  •  
  • 2008/09/16(火) 22:44:51
放生会は9月12日〜18日の7日間という長いスパンで行われる全国的にも数少ないお祭りです。
参道一帯には約700軒もの露店が並び、今では珍しくなった「お化け屋敷」「見世物小屋」なども楽しめるのが
放生会ならではの醍醐味です。
今のように娯楽がなかった時代は、子供にとっても一大イベントでした。
学校から帰ったら露店の地球ごまやブリキのポンポン船、射的などで遊ぶ子供達の姿がありました。

筥崎宮の放生会は「万物の生命を慈しみ、殺生を戒める」神事。
食べ物を含め、生きものすべてに感謝するというもので、同時に実りの秋に感謝し、商売繁盛や家内安全を祈る神事でもあります。

その始まりは、建仁寺(京都府)の記録に残っているように「延喜19年(919年)筥崎宮放生始」。
これは、筥崎宮が現在の場所に移る4年前のことです。
当時、筥崎宮は嘉穂の大分(だいぶ)という山の中にあり、海や川にも遠く、放生(生きものを放つ)に
便利が悪いということもあって、延長元年(923年)箱崎に移されたのです。

明治の神仏分離で、放生会は「仲秋祭」と改められましたが、地元の人々は以前通り「ほうじょうや」と呼んでいたことから
戦後「放生会」の名で復活しました。昭和31年の大祭から、鯉や鳩の放生神事が執り行われるようになり
博多の三大祭として親しまれています。

ここまで見た
  • 194
  •  
  • 2008/09/16(火) 22:45:36
放生会の期間中、祭り好きの博多の人は、家族や店、町内などで寄り合って、がめ煮、なますなどの料理や
食器などを長持ちに詰め、筥崎宮へ参詣し、「幕出し」を楽しんでいたそうです。
「幕出し」とは、筥崎宮一帯に広がっていた松原に、家族・町内単位で幕を張り出し、宴を楽しんで過ごすこと。
明治・大正時代には期間中200組が行ったともいわれています。

戦前の放生会には、山笠を陰で支えてくれた“ごりょんさん”(博多の商家のおかみさん)たちの労をねぎらい
着物を新調するという風習がありました。
「人を見るなら宰府(太宰府)の祭、着物を見るなら放生会」ということわざもあるように、放生会はちょうど衣替えの季節。
女性達は、新調した着物(放生会ぎもんと呼ぶ)を披露し、祭りを楽しんでいたそうです。
女性はなかなか外に出かける機会がなかった時代にあって、女性の貴重な楽しみであったことがうかがえます。

秋の味覚も出回りだすという博多ならではのことわざで「梨も柿も放生会」という言葉があります。
忙しい時を表す言葉としても使われていました。
このように、秋の訪れを告げる祭りなので、着物は「薄物」から「単衣物」に替えるのが博多の習わしで
浴衣や絽で放生会へ出かけるのは本来はNGです。

昔は、この辺りの特産品として生姜が栽培されていました。
秋とはいえ、暑さが残る時期、滋養強壮のためにと、ごりょんさんらが、放生会詣での手土産として
新生姜を必ず買って帰ったということです。

ここまで見た
  • 195
  •  
  • 2008/09/16(火) 22:46:41
博多に伝わる玩具など、伝統の技に触れ合えるのも放生会の魅力の一つです。
名物の「放生会チャンポン」は江戸末期、小川宇平という人がビードロ細工を真似て作り
放生会に出したのが始まり。高度な技術を必要とするガラス製品だけに、貴重な玩具だったそうです。
粗悪品が出回るなどして、大正時代に姿を消しましたが、「復活させたい」との先代宮司の想いに共感した
小川勝男さんが、昭和46年に復活させ、再び放生夜の名物になりました。
粗悪品が出回った時期にはブリキで出来た珍しいチャンポンも登場したそうです。

近年人気なのが「放生会おはじき」。直径2cmの素朴な土のおはじきで、博多人形師団体「白彫会」(はくちょうかい)が
毎年のテーマに合わせて、博多人形の作り方同様に一つ一つ丁寧に仕上げたもの。
昭和54年の作品展で発表したところ、好評のため翌年から放生会に合わせて製作するようになりました。
当時はチャンポンが主流だったので、売れ残っていたのですが、平成6年から限定販売(初日午前8時から)になり
以来、徹夜組もでるほどの人気になりました。

ここまで見た
  • 196
  •  
  • 2008/09/17(水) 07:29:39
放生会と言えばチンチン電車に乗って行きよった頃が懐かしい・・・・
参道を横切る当時の軌道跡のバス専用道を見るたびに思い出す。

ここまで見た
  • 197
  •  
  • 2008/09/17(水) 13:43:27
路面電車が7円とか13円、往復で25円だった。

ここまで見た
  • 198
  •  
  • 2008/09/18(木) 00:21:10
うそ?w
ハガキの切手代が、そんくらいやった時代は覚えとりますが
電車代がそんくらいとは・・・・
大先輩ですなw
戦前生まれの方だとお見受けいたしまする・・・>>197

ここまで見た
  • 199
  •  
  • 2008/09/18(木) 01:19:30
>>197
>>路面電車が7円とか13円、往復で25円だった。

>>198
>>電車代がそんくらいとは・・・・

俺もあまり覚えていないが、
チンチン電車の運賃が片道13円、往復25円は
1961(昭和36)から1964(昭和39)年頃だったと思う。

その後に1回乗り切り制になって往復運賃がなくなり、
15円→20円・・・35円(1972年頃)→オイルショックで60円に
1975年の貫線・城南線廃止後は80円に上がった。

(※運賃の金額は、すべて大人の分)

ここまで見た
  • 200
  •  
  • 2008/09/18(木) 07:19:19
オイルショックで電車賃が60円になったとき、大人60円 小人30円になった。
35円の時代は大人も子どもも一回35円だった。
その当時、小学校の担任の先生が「若い頃は片道1銭五厘だった」と回顧されていた。
タクシーの初乗りが140円で30円刻みだったころだったが
その後、タクシーも値上がりした。
メーターの金額を見て運転手さんが換算表を照合して値上げ後の金額を請求していた。

びっくりしたのは「サッポロ一番」が35円から80円(60円?)になってしまったこと。

国鉄の初乗りが倍になったのにはびっくりしたが、オイルショックより少し後の出来事だったと思う。

ココアの缶が紙容器になったりもした。

ここまで見た
  • 201
  •  
  • 2008/09/18(木) 12:27:08
西鉄電車も私が小学生の頃は最短区間で大人20円子供10円でした。
高学年の頃大人30円、子供15円になった。当時は自動改札もなし、切符の
発売機もないので、窓口で福岡まで子供1枚、と言って15円払い、
改札でおじちゃんにハサミを入れてもらって電車に乗ってました。
西鉄バスもボンネットバスがまだまだ走ってたような気がします。

ここまで見た
  • 202
  •  
  • 2008/09/18(木) 18:02:00
>198さん
1943年(昭和18年)生まれです。

ここまで見た
  • 203
  •  
  • 2008/09/18(木) 18:42:01
西鉄バスの草創期のワンマンカーには車掌さんが乗っとって、
中ドア横で整理券を手渡ししよった記憶のある。
今思うとテスト運行やったっちゃろうね。
降車ボタンも「ピンポ〜ン」やなくて、愛想なく「チン」てだけ鳴りよったなあ。

肌色と緑のボディー色だった昭和40年代初頭ころの話。

ここまで見た
  • 204
  • 198
  • 2008/09/18(木) 19:48:42
>>202
ご丁寧にご回答頂き、ありがとうございます。
私の一世代上の大先輩でいらっしゃいますね・・・
また、昔話、懐かし話、福博豆知識・・等々、
ここで御披露頂ければ幸いでございます。
何卒、よろしくお願いします。

ここまで見た
  • 205
  •  
  • 2008/09/18(木) 23:41:57
西鉄バスじゃなく「西テツ」バスねw

ここまで見た
  • 206
  •  
  • 2008/09/18(木) 23:47:10
>>203
>>今思うとテスト運行やったっちゃろうね。

福岡市内でワンマンバスが最初に入ったのは
5番(現在の68番・当時は給油センター止まり)と市内循環の6番。
本当のテスト運行で現行の前降り中乗り制に加えて
前降り後乗りのバスも有った。

ここまで見た
  • 207
  •  
  • 2008/09/18(木) 23:58:40
追記で、
今日、仕事の合間に、にしてつの100年展に行ってきた。
http://www.nishitetsu.co.jp/100th/event/event004.htm

会場の中心にデンと据えられた昭和36年ごろの天神のジオラマ
(チンチン電車も走っている芸の細かさ!)は或る意味圧巻だった。
落成当初の福ビルの屋上に有った幻のヘリポート※も再現されていたな。

※福ビルと福岡空港との間を西日本空輸の
 ヘリコプターで結ぶ計画(実現せず)が有った。

ここまで見た
  • 208
  •  
  • 2008/09/19(金) 07:50:29
にしてつの100年は、門司折尾間から始まっているんだ。
本社も、前半は小倉、後半は福岡、色々考えさせられます。

ここまで見た
  • 209
  •  
  • 2008/09/19(金) 10:52:29
昭和30年中ごろ
西鉄市内電車の料金は片道キップ13円、往復キップは25円
往復キップは右側1/4あたりにミシン目が入っていて往路で
その1/4を車掌に渡し、復路で残りを使った。
最後部の車掌が頭上のヒモを引っ張れば運転手の上で鐘が
チンチン鳴ってた。

ここまで見た
  • 210
  •  
  • 2008/09/19(金) 12:47:30
戦後しばらくは西鉄バスは白色でした。

ここまで見た
  • 211
  •  
  • 2008/09/19(金) 15:46:37
>>209
そういえば吊り革の竿の中に紐が通っていましたね。

車掌さんで思い出した。
乗降口の戸を固定する鉄製の回転式カンヌキがドアの継ぎ目についていて
停留所の直前で車掌さんサッとが外すとドアがパッと開いて安全地帯が見えた。

運転席脇の窓枠に宗像大社のとても大きなお札が掛かっている車両があった。
「大きなお札の電車」は音がうるさく、ブレーキの振動と音が「ガガガガ」と伝わって車内も振動するので
あんまり乗りたくなかった。

照明は蛍光灯むき出しのよりも
電球を大きな丸いガラスカバーで覆っている車両の方が好きだった。
電球のほの明るい照明が「電車に乗っている」という雰囲気を醸し出していた。

吊り革の輪は白いものよりも黒いものの方が車内にマッチしていたように思う。

>>210
貴重な情報をありがとうございます。
カラー写真を見たことがなかったので資料では色までは分かりませんでした。
「乗合自動車」とか「円太郎」とか呼ばれていた頃でしょうか?

ここまで見た
  • 212
  •  
  • 2008/09/21(日) 14:53:49
天神ビルのキリンビヤガーデン 今年はありませんでした。
福ビルのは9月20日が最終日でした。

ここまで見た
  • 213
  •  
  • 2008/09/22(月) 16:58:02
>207 にしてつの100年展
天神のジオラマ、マジで超感動モンです。
この掲示板を見ているような方々には間違いなくお勧め!
数週間前の第一弾のときは現在の天神・博多駅界隈のジオラマが展示してあり
その芸の細かさに圧倒されましたが、
今回のものはそれよりも縮尺が大きい分、それをはるかに上回る臨場感です。
スポーツセンターや西鉄街もほぼ忠実に再現され、当時を知る者にとっては涙が出そうになります。
西鉄の昔のTVCM(福岡市内線ワンマン化のCM等)も流れていたりで、
とにかく一見の価値あり!!

ここまで見た
  • 214
  •  
  • 2008/09/22(月) 18:52:42
あのジオラマの時代には 東洋ショーが無かったのかな?と思ってしまい・・・。

ここまで見た
  • 215
  •  
  • 2008/09/22(月) 19:59:14
>>213
>>西鉄の昔のTVCM(福岡市内線ワンマン化のCM等)も流れていたりで

あぁ、放映していたね。

香椎花園のジェットコースターのとか、西鉄航空で行く海外ツアー
(メキシコオリンピック云々と言ってたので1968年頃か)のCMは
同じ場所で10年前にやっていたチンチン電車の回顧展でも流していたね。

しかし、100年展が終わったら、あのジオラマを壊すのはもったいないな。
唐人町の社員用の共済会館を使ってなかったら、
西鉄資料館でも作れば良かったが、自社のマンションになったからね。
あそこはライオンズ選手の大円寺寮が有った所だった。

あと、BSデジタルやJCOM等のデジタル対応のケーブルテレビが
見られる人は10月5日の夜10時から↓の番組を放送するようだね。

http://www.bs-asahi.co.jp/nishitetsu/

旅の途中で、懐かしの西鉄のチンチン電車秘蔵映像などを紹介。
そして、西鉄の100年の歴史を秘蔵写真&映像で振り返ります。
伝説の西鉄ライオンズ・花電車など懐かしい時代が蘇ります。
(番組サイトより)

ここまで見た
  • 216
  •  
  • 2008/09/22(月) 21:41:14
>>214
端っこの国体道路のあたりにソレを探したのは俺だけじゃなかったわけねw
(あったとしても再現するわけにはいかんよな)

ここまで見た
  • 217
  •  
  • 2008/09/22(月) 21:45:26
あのジオラマは昭和30年代後半ころがモデルになっとうごたあばってん、
東洋ショーはそげな昔からあったとかいな?
筆者は昭和50年代後半ころの高校生ん時に数回お世話になった世代ばってんが。

ここまで見た
  • 218
  •  
  • 2008/09/22(月) 22:17:44
質問です

うちの祖父が今のマリノアシティ(当時は海)の向かい側にある結婚式場
が昔処刑場だったと言っているのですが、本当でしょうか?
炭坑の廃墟があったことは、かすかに憶えているのですが・・・

ここまで見た
  • 219
  •  
  • 2008/09/22(月) 22:50:37
あのジオラマ、写真撮らしてくれたらいいといね。

ここまで見た
  • 220
  •  
  • 2008/09/22(月) 22:55:11
>>218
マリノアシティの対岸に結婚式場なんかありましたかね?あるのは能古渡船場ぐらいでは。
地元民の間では、小戸公園は墓場+焼き場+処刑場だったと知られていますが。
ついでにボタ山もあったらしい。

ここまで見た
  • 221
  •  
  • 2008/09/22(月) 23:13:22
ボタ山は百道海水浴場から見えていたかも知れんな。

ここまで見た
  • 222
  •  
  • 2008/09/23(火) 00:34:55
>>217
>>東洋ショーはそげな昔からあったとかいな?

昭和40年代の初め頃には既にあった>東洋ショー

まぁ、俺は興味は無かったがw

ここまで見た
  • 223
  •  
  • 2008/09/23(火) 04:35:37
>>220
>墓場+焼き場+処刑場
戦前の百道には墓場と焼き場があったそうですね。
処刑場はなくても刑務所があったので、あそこで亡くなられた人、多いと思います。

戦後の百道、焼き場は中学校になりましたが
墓場と処刑場は今でもありますね。
処刑場は戦後長崎から移転したそうです。

最初は今の早良警察署の場所に監房、その南側の公園になっている場所に刑場が設置されて
刑務所が宇美に移転した後は福岡拘置所の中に監房も刑場も移設され
これは現在も使用されているそうです。

話を「昔の福岡」に戻します。
死刑囚監房および刑場の場所は後から建設したので刑務所から独立していて
道一本で隔てられていたのでみんな知っていたそうです。

執行があるとあの辺りの道や建物玄関などの砂がきれいに掃かれていて
「ああ、あったんだ」と分かったそうです。

ここまで見た
  • 224
  •  
  • 2008/09/23(火) 15:36:14
やまかさ

ここまで見た
  • 225
  •  
  • 2008/09/23(火) 16:25:40
218です。

>>220さん有り難うございます。書き方が悪くて、マリノアシティの道を挟んで
反対側、日産?の隣の結婚式場ですが。。潰れました?
小戸公園と百道にそんなところがあったとは。。ある意味、知らないって恐い
ですね 処刑場跡地に結婚式場?ってビックリしたもので。。少し場所が違っ
たみたいで、納得しました。

ここまで見た
  • 226
  •  
  • 2008/09/24(水) 00:52:44
昔、学校の先生から授業中に聞いた話ですが、
その先生は中学校(旧制)のころ勤労奉仕で路面電車の運転をされていらしたそうです。

ここまで見た
  • 227
  •  
  • 2008/09/24(水) 01:13:20
私は、地下鉄博多駅を作りました。
学生時代、土方で築港に拾われに行ってましたから、その時代に。
あと雁ノ巣あたりの下水路も私が作りました。

ここまで見た
  • 228
  •  
  • 2008/09/26(金) 17:25:29
朝鮮戦争のころ、大濠公園に米軍兵舎が何棟も建ってましたね。黒人兵が銃を持って、見張りして。
今の保険局?(正式には何?)の屋上に星条旗がはためいて、あの旗は色彩がよいから、青空に映えて
妙にきれいに見えた。米軍の病院として使われていたらしいが、半島から負傷兵や死体を運ぶ、ヘリが
毎日、裏の空き地(今の遊園地)に轟音を発して発着してたなー。死体は寝袋に入れて、ドライアイス
を詰めて運んできてたけど、米軍撤収後、米軍払い下げの寝袋が安価で売ってたよ。羽毛入りの最高級品
だ、と友達の兄貴が買ってうれしそうに自慢してたけど、俺は何も言えなかったなー。
病院に出入りする、米国人のナースさん達が、みんなマリリンモンローに見えたよ。当時の日本人に比べたら、
巨乳ばかりだったからね。

ここまで見た
  • 229
  •  
  • 2008/09/26(金) 20:43:10
>>227
地下鉄一号線は難工事だったと聞く。深い所ばっかりだし、川の下も多いし。


海ノ中道海浜公園にも兵舎があったのを最近の者は知るまいて。父親が仕事で出入りしてた。
どんぶりみたいなコップにコーラを注いで出すから「そんなに飲めねえよw」と思ってたとか。

ていうか・・死体袋を払い下げて怖すぎ・・・

ここまで見た
  • 230
  •  
  • 2008/09/28(日) 23:22:30
>>228
その死体洗いのバイトの話を高校の時の先生に聞いた。
きれいにしてから本国へ送っていたらしい。

ここまで見た
  • 231
  •  
  • 2008/10/01(水) 13:14:04
昔は天神のことを「てんじんのちょう」といっていたよ。今でもお年寄りで
そう言う人が時々います。
西鉄大牟田線は「急行電車」と言っていました。特急でも普通でも関係なく。
そういえば「準急」もありました。

ここまで見た
  • 232
  •  
  • 2008/10/01(水) 14:11:43
>>215で紹介した番組がKBCでも放送決定。

西日本鉄道創立100周年記念特別番組 
財津和夫の西鉄沿線・福岡再発見の旅!

KBC 10月25日(土) 16時00分〜16時55分

>>228
>>米軍の病院として使われていたらしいが
米陸軍の病院として使用されていた。

>>毎日、裏の空き地(今の遊園地)に轟音を発して発着してたなー

通称「くじら公園」だな・・・
最近、森永のミルクキャラメルのCMで出ているね。

ここまで見た
  • 233
  •  
  • 2008/10/01(水) 14:25:19
そうだね。天神町。
路面電車(チンチン電車)も銀行の支店名とかもそうだったね。
「天神(てんじん)」となってからも天神様(道真)のことを呼び捨てにできん
やらいって、市民はそのままの呼称のままだったりだとか。
急行電車は現在の西鉄が「国鉄(当時)よりはやい急行電車」とかっていうキャッチ
フレーズだったから、そういわれるようになっただか、西鉄の広報誌かなんかで
みたことあるな。
>>226
それ聞いたことがある。広島だと当時の女学校の生徒が車掌だったそう。
勤労奉仕としては、楽な部類だ。軍需工場なんかよりはね。

ここまで見た
  • 234
  •  
  • 2008/10/01(水) 16:51:45
戦時中の電車運転士の学生さんの臨時登用については、
最近発行された「筑紫れくいえむ」という本に詳しい。
もっともこの本は路面電車ではなくて大牟田線についての記述が主だが。
この本の主題は筑紫駅付近で実際にあった西鉄電車への米軍による機銃掃射を
探求・発掘し記録したもの。多くの犠牲者が出たらしい。

この掲示板を覗きに来ているような方々なら興味深く読めることと思う。

ここまで見た
  • 235
  •  
  • 2008/10/01(水) 19:56:08
筑紫野市スレで話題になってたね。
自分も聞いたことがなかったからびっくりしたよ。
あれだけの大事件なのに何故風化してしまっていたのか。
福岡大空襲と併せて語り継ぐべきことだと思う。

ここまで見た
  • 236
  •  
  • 2008/10/01(水) 21:53:00
>>234,235
自分はあった事だけは知っていたけれど、あまり詳しくは知らなかった。
筑紫野スレで紹介されてたスレ

―戦中戦後の鉄道の惨状を語るスレ―
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/train/1191814165/

の741以降で、あの筑紫電車空襲、単独の鉄道被災としては、
被害が多い全国ワースト3に入るような大きな事件らしい。

鉄道は戦時中は軍事的に重要な施設だったこともあり
都市空襲に比べて、被害を隠したせいもあるかもね・・・

ここまで見た
  • 237
  •  
  • 2008/10/02(木) 01:43:51
電車空襲と言えば、映画「ひまわり」を思い出す。
ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニ。
劇中でそいいうシーン(汽車に飛行機から機銃掃射)があった。
俺が中2の頃、男3人女3人でグループデートで見に行った。
グループでとはいえ、男女6人、みーんなドキドキの初デートw
井尻駅待ち合わせで中洲のスカラ座まで。
ひまわりはリバイバルだが2本立ての併映はロードショー封切りの「個人教授」。
ナタリー・ドロンが若い男を誘惑し、Hシーンも豊富な映画。
1本目の「個人教授」では男は腰を引き、女は顔を赤らめていた。
2本目の「ひまわり」では女は感動で号泣してたが、男は1本目の刺激に疲れ、みんな居眠りしてたw
女の子ら軽蔑の目で見られながら、天神へ戻り味のタウンで昼食。
女の子たちはお好み焼き「甲子園」を切望したが、
俺等が強引に牛丼の「牛心」に引っ張り込んだ。
その日の帰りの電車から、仲いいはずだった女の子3人組は俺等に口をきかなくなり、
それは、同じ学級内に居ながら、以後、学年が変わるまで俺等3人を無視し続けるというトホホに発展した・・・
あーあ、酸っぱい思い出〜w

ここまで見た
  • 238
  •  
  • 2008/10/02(木) 15:15:32
天神交差点の真ん中で警察が箱の上に乗って手信号で交通整理していた。
戦後しばらくは信号機がなかったのだ。

ここまで見た
  • 239
  •  
  • 2008/10/05(日) 10:34:34
先週丸善でやっていたバーゲンブックフェァ(?)で昭和30年代の
福岡の写真集を安く買ってきました。
結構面白かったけど定価ではかなり高価だったので
沢山売れ残ったのも仕方ないかなぁと思いました。

ここまで見た
  • 240
  •  
  • 2008/10/10(金) 17:57:48
>>189
おまえだけの豆知識にしといた方がいいぞ。
よそで恥かくぞ。

福岡市とその周辺人がウソを覚えたらいけないので・・・
タモリさんは、小学4年生の時に電柱の針金が右目に突き刺さり失明。
ウィキペディアに詳細が記載されていたが今はない。
定期的に失明してるしてないの誤記があるたびに訂正してます。

ちょっとぐぐるだけでも
小学4年生と電柱の針金と失明のキーワードが出てくる。
>>189は、何を見たのだ?

私は、オンタイムで「今夜は最高」でタモリさんがトランペットを
吹いているシーンを見た。アイパッチでたまに出てた。

ここまで見た
  • 241
  •  
  • 2008/10/11(土) 20:09:11
私はリアルタイムで、タモリ倶楽部内のドラマで
タモリが「昔よく行った一丁目の八っちゃんラーメン」というセリフを吐いたのを見た。
週に2回は八っちゃんに通ってた頃なので驚いたw
その後、全国で本格的なトンコツブームが起こったので
東京から来る人来る人、ことごとく八っちゃんに連れて行った。
「あのタモリも通ってたラーメン屋さんなんですよ」と。
しかし、今でもギドギドなスープはトンコツ初心者の東京モンにはキツかったらしく、
評価はあまり芳しくなかったw

もう四半世紀ぐらい昔の話だわ。。。。

砂時計アラームタイマー
フリック回転寿司
ここまで見た

★お気に入り追加

このページを共有する
facebook twitter hatena line google mixi email
おすすめワード