昔の福岡を語っちゃってん!パート12@九州/まちBBS [machi](★0)
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- 184
- 2008/09/13(土) 07:57:45
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>>181
そういえば昔は小戸公園で野外ライブがあってましたね。
チャゲアスがやったこともあったような。
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- 185
- 2008/09/13(土) 09:34:54
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ここで質問するのが適当かどうか判りませんが、
福岡市内に一業種だけが集中する問屋街的な町はありますでしょうか?
古書店街、仏壇屋街、生花問屋街、駄菓子問屋街、などです。
かつてあった。という情報でも結構です。御教示ください。
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- 186
- 2008/09/13(土) 10:55:03
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>>178
西公園にも幼稚園の遠足で行った。公園から下を見下ろすとすぐ下は海だったな。
唐人町から海へ向かう道路も川で、くねくねした細い路地しかなかったよね。(それは今も残ってる)
>>180
子供心には「すげー!海の真ん中を車で走ってる!コワー!」だったよね。
>>181
海中の昔の姿は最近は知らない人の方が多いよ。あの辺も余所者が多くなったから。
>>182
それは凄いね。田舎の方では昭和40年代までは海岸など集落の外れや墓地に簡単な焼き場があって
地域住民が重油をかけて遺体を焼いていたという話も年配者から聞くから、そういうものかもね。
川端ぜんざいと湖月のカレーと中洲の木造映画館は父の思い出話にいつも登場する。給料1500円の丁稚奉公時代。
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- 187
- 2008/09/13(土) 16:30:55
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>>183
>>本物の湖月のカレーば、食いたか。
今の湖月のカレーは・・・
店をたたんでしまったオーナーが秘伝のレシピを
あちこちに売り歩いている状態だからなぁ・・・
>>185
>>福岡市内に一業種だけが集中する問屋街的な町はありますでしょうか?
福岡は大阪みたいに一業種だけが集中する問屋街的な町は
あんまり無いが実情か・・・
しいて言うと、
古書店街・・・六本松、箱崎の九大のキャンパス周辺
仏壇屋街・・・川端の商店街界隈(と言っても数店だが)
生花問屋街・・・福岡は近隣の農家が花・野菜等を持ち込んで
商売するような土地柄。
西新のリヤカー部隊等を見ていただければ分かるかも。
駄菓子問屋街・・・綱場(現在の須崎町・古門戸町辺り)の問屋街に
幾つか店が有った。
(現在も営業している店も有るが・・・)
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- 188
- 2008/09/13(土) 19:25:39
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須崎問屋街といあ呼称があるぐらいだからね。
古書は上記の通り、九大周辺になるワケだけど
大名紺屋町辺りにも数軒あったよね。
今も大きなのが1件残ってなかったっけ?上久醤油の前辺りに。。。
仏壇は、すぐ近くに一大生産地の八女広川を抱えてる大消費地だから
全国的に有名な、はせがわ や 老舗の梅田仏壇店、新興のみどりや などなど
数店だけど多士済々な店舗を揃える川端は、仏壇商界に於いてのポテンシャルがかなり高いはずw
駄菓子は、綱場の 玩具問屋-遠藤商会に尽きると思う。
生花は、流通センター付近の、福岡花卉市場 に行けば、卸も小売りもしてくれるはず。
かつては、下川端や清川に大型老舗が存在してたけど。
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- 189
- 2008/09/13(土) 21:05:18
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タモリは中学生の友達と百道の海岸を走ってた時
転んで片目を怪我した。それ以来 黒メガネ
これ豆知識な
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- 190
- 2008/09/14(日) 07:04:28
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>189
斜視やけんサングラスかけとうて言う話聞いたことがあったばって、
そりゃガセやったっちゃね。
それとも、その怪我がもとで斜視になったとかいな?
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- 191
- 2008/09/14(日) 08:46:41
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片目は見えないはず
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- 192
- 2008/09/16(火) 10:58:52
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昨日、15年振りぐらいに 放生会 行ってきました・・・
サザエさん症侯群が著しい連休最終日の夜というのに、凄い賑わいでした。
見世物小屋も健在・・昭和の時代にトリップした感覚になった。
学生の頃、友達に良いバイトがあると連れられて行ったら、
その事務所が箱崎の大鳥居の前。平●総業というテキ屋さんの元締めの組ww
放生会で甘栗売る仕事・・お金箱にしてた洗面器の中に次から次に千円札が溜まった。
甘栗だけで1日三桁万円になることもあった・・
一日終えて片付けしてると、組の若い人が廻って来て洗面器を受け取り、
その洗面器の中にガバーと手を入れて、札をワシづかみ、
「お疲れ〜」と行って、日当をくれた。
一掴み千円札だけで20-30枚ぐらい有り、時には、その中に1万円札がまじってることもあるから
実に、割のいいバイトだった。
でも堅気な私らとしては、さすがに次の年からは遠慮したけど・・・
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- 193
- 2008/09/16(火) 22:44:51
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放生会は9月12日〜18日の7日間という長いスパンで行われる全国的にも数少ないお祭りです。
参道一帯には約700軒もの露店が並び、今では珍しくなった「お化け屋敷」「見世物小屋」なども楽しめるのが
放生会ならではの醍醐味です。
今のように娯楽がなかった時代は、子供にとっても一大イベントでした。
学校から帰ったら露店の地球ごまやブリキのポンポン船、射的などで遊ぶ子供達の姿がありました。
筥崎宮の放生会は「万物の生命を慈しみ、殺生を戒める」神事。
食べ物を含め、生きものすべてに感謝するというもので、同時に実りの秋に感謝し、商売繁盛や家内安全を祈る神事でもあります。
その始まりは、建仁寺(京都府)の記録に残っているように「延喜19年(919年)筥崎宮放生始」。
これは、筥崎宮が現在の場所に移る4年前のことです。
当時、筥崎宮は嘉穂の大分(だいぶ)という山の中にあり、海や川にも遠く、放生(生きものを放つ)に
便利が悪いということもあって、延長元年(923年)箱崎に移されたのです。
明治の神仏分離で、放生会は「仲秋祭」と改められましたが、地元の人々は以前通り「ほうじょうや」と呼んでいたことから
戦後「放生会」の名で復活しました。昭和31年の大祭から、鯉や鳩の放生神事が執り行われるようになり
博多の三大祭として親しまれています。
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- 194
- 2008/09/16(火) 22:45:36
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放生会の期間中、祭り好きの博多の人は、家族や店、町内などで寄り合って、がめ煮、なますなどの料理や
食器などを長持ちに詰め、筥崎宮へ参詣し、「幕出し」を楽しんでいたそうです。
「幕出し」とは、筥崎宮一帯に広がっていた松原に、家族・町内単位で幕を張り出し、宴を楽しんで過ごすこと。
明治・大正時代には期間中200組が行ったともいわれています。
戦前の放生会には、山笠を陰で支えてくれた“ごりょんさん”(博多の商家のおかみさん)たちの労をねぎらい
着物を新調するという風習がありました。
「人を見るなら宰府(太宰府)の祭、着物を見るなら放生会」ということわざもあるように、放生会はちょうど衣替えの季節。
女性達は、新調した着物(放生会ぎもんと呼ぶ)を披露し、祭りを楽しんでいたそうです。
女性はなかなか外に出かける機会がなかった時代にあって、女性の貴重な楽しみであったことがうかがえます。
秋の味覚も出回りだすという博多ならではのことわざで「梨も柿も放生会」という言葉があります。
忙しい時を表す言葉としても使われていました。
このように、秋の訪れを告げる祭りなので、着物は「薄物」から「単衣物」に替えるのが博多の習わしで
浴衣や絽で放生会へ出かけるのは本来はNGです。
昔は、この辺りの特産品として生姜が栽培されていました。
秋とはいえ、暑さが残る時期、滋養強壮のためにと、ごりょんさんらが、放生会詣での手土産として
新生姜を必ず買って帰ったということです。
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- 195
- 2008/09/16(火) 22:46:41
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博多に伝わる玩具など、伝統の技に触れ合えるのも放生会の魅力の一つです。
名物の「放生会チャンポン」は江戸末期、小川宇平という人がビードロ細工を真似て作り
放生会に出したのが始まり。高度な技術を必要とするガラス製品だけに、貴重な玩具だったそうです。
粗悪品が出回るなどして、大正時代に姿を消しましたが、「復活させたい」との先代宮司の想いに共感した
小川勝男さんが、昭和46年に復活させ、再び放生夜の名物になりました。
粗悪品が出回った時期にはブリキで出来た珍しいチャンポンも登場したそうです。
近年人気なのが「放生会おはじき」。直径2cmの素朴な土のおはじきで、博多人形師団体「白彫会」(はくちょうかい)が
毎年のテーマに合わせて、博多人形の作り方同様に一つ一つ丁寧に仕上げたもの。
昭和54年の作品展で発表したところ、好評のため翌年から放生会に合わせて製作するようになりました。
当時はチャンポンが主流だったので、売れ残っていたのですが、平成6年から限定販売(初日午前8時から)になり
以来、徹夜組もでるほどの人気になりました。
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- 196
- 2008/09/17(水) 07:29:39
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放生会と言えばチンチン電車に乗って行きよった頃が懐かしい・・・・
参道を横切る当時の軌道跡のバス専用道を見るたびに思い出す。
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- 197
- 2008/09/17(水) 13:43:27
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路面電車が7円とか13円、往復で25円だった。
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- 198
- 2008/09/18(木) 00:21:10
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うそ?w
ハガキの切手代が、そんくらいやった時代は覚えとりますが
電車代がそんくらいとは・・・・
大先輩ですなw
戦前生まれの方だとお見受けいたしまする・・・>>197
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- 200
- 2008/09/18(木) 07:19:19
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オイルショックで電車賃が60円になったとき、大人60円 小人30円になった。
35円の時代は大人も子どもも一回35円だった。
その当時、小学校の担任の先生が「若い頃は片道1銭五厘だった」と回顧されていた。
タクシーの初乗りが140円で30円刻みだったころだったが
その後、タクシーも値上がりした。
メーターの金額を見て運転手さんが換算表を照合して値上げ後の金額を請求していた。
びっくりしたのは「サッポロ一番」が35円から80円(60円?)になってしまったこと。
国鉄の初乗りが倍になったのにはびっくりしたが、オイルショックより少し後の出来事だったと思う。
ココアの缶が紙容器になったりもした。
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- 201
- 2008/09/18(木) 12:27:08
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西鉄電車も私が小学生の頃は最短区間で大人20円子供10円でした。
高学年の頃大人30円、子供15円になった。当時は自動改札もなし、切符の
発売機もないので、窓口で福岡まで子供1枚、と言って15円払い、
改札でおじちゃんにハサミを入れてもらって電車に乗ってました。
西鉄バスもボンネットバスがまだまだ走ってたような気がします。
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- 202
- 2008/09/18(木) 18:02:00
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>198さん
1943年(昭和18年)生まれです。
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- 203
- 2008/09/18(木) 18:42:01
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西鉄バスの草創期のワンマンカーには車掌さんが乗っとって、
中ドア横で整理券を手渡ししよった記憶のある。
今思うとテスト運行やったっちゃろうね。
降車ボタンも「ピンポ〜ン」やなくて、愛想なく「チン」てだけ鳴りよったなあ。
肌色と緑のボディー色だった昭和40年代初頭ころの話。
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- 204
- 198
- 2008/09/18(木) 19:48:42
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>>202
ご丁寧にご回答頂き、ありがとうございます。
私の一世代上の大先輩でいらっしゃいますね・・・
また、昔話、懐かし話、福博豆知識・・等々、
ここで御披露頂ければ幸いでございます。
何卒、よろしくお願いします。
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- 205
- 2008/09/18(木) 23:41:57
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西鉄バスじゃなく「西テツ」バスねw
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- 206
- 2008/09/18(木) 23:47:10
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>>203
>>今思うとテスト運行やったっちゃろうね。
福岡市内でワンマンバスが最初に入ったのは
5番(現在の68番・当時は給油センター止まり)と市内循環の6番。
本当のテスト運行で現行の前降り中乗り制に加えて
前降り後乗りのバスも有った。
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- 207
- 2008/09/18(木) 23:58:40
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追記で、
今日、仕事の合間に、にしてつの100年展に行ってきた。
http://www.nishitetsu.co.jp/100th/event/event004.htm
会場の中心にデンと据えられた昭和36年ごろの天神のジオラマ
(チンチン電車も走っている芸の細かさ!)は或る意味圧巻だった。
落成当初の福ビルの屋上に有った幻のヘリポート※も再現されていたな。
※福ビルと福岡空港との間を西日本空輸の
ヘリコプターで結ぶ計画(実現せず)が有った。
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- 208
- 2008/09/19(金) 07:50:29
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にしてつの100年は、門司折尾間から始まっているんだ。
本社も、前半は小倉、後半は福岡、色々考えさせられます。
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- 209
- 2008/09/19(金) 10:52:29
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昭和30年中ごろ
西鉄市内電車の料金は片道キップ13円、往復キップは25円
往復キップは右側1/4あたりにミシン目が入っていて往路で
その1/4を車掌に渡し、復路で残りを使った。
最後部の車掌が頭上のヒモを引っ張れば運転手の上で鐘が
チンチン鳴ってた。
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- 210
- 2008/09/19(金) 12:47:30
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戦後しばらくは西鉄バスは白色でした。
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- 211
- 2008/09/19(金) 15:46:37
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>>209
そういえば吊り革の竿の中に紐が通っていましたね。
車掌さんで思い出した。
乗降口の戸を固定する鉄製の回転式カンヌキがドアの継ぎ目についていて
停留所の直前で車掌さんサッとが外すとドアがパッと開いて安全地帯が見えた。
運転席脇の窓枠に宗像大社のとても大きなお札が掛かっている車両があった。
「大きなお札の電車」は音がうるさく、ブレーキの振動と音が「ガガガガ」と伝わって車内も振動するので
あんまり乗りたくなかった。
照明は蛍光灯むき出しのよりも
電球を大きな丸いガラスカバーで覆っている車両の方が好きだった。
電球のほの明るい照明が「電車に乗っている」という雰囲気を醸し出していた。
吊り革の輪は白いものよりも黒いものの方が車内にマッチしていたように思う。
>>210
貴重な情報をありがとうございます。
カラー写真を見たことがなかったので資料では色までは分かりませんでした。
「乗合自動車」とか「円太郎」とか呼ばれていた頃でしょうか?
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- 212
- 2008/09/21(日) 14:53:49
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天神ビルのキリンビヤガーデン 今年はありませんでした。
福ビルのは9月20日が最終日でした。
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- 213
- 2008/09/22(月) 16:58:02
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>207 にしてつの100年展
天神のジオラマ、マジで超感動モンです。
この掲示板を見ているような方々には間違いなくお勧め!
数週間前の第一弾のときは現在の天神・博多駅界隈のジオラマが展示してあり
その芸の細かさに圧倒されましたが、
今回のものはそれよりも縮尺が大きい分、それをはるかに上回る臨場感です。
スポーツセンターや西鉄街もほぼ忠実に再現され、当時を知る者にとっては涙が出そうになります。
西鉄の昔のTVCM(福岡市内線ワンマン化のCM等)も流れていたりで、
とにかく一見の価値あり!!
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- 214
- 2008/09/22(月) 18:52:42
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あのジオラマの時代には 東洋ショーが無かったのかな?と思ってしまい・・・。
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- 215
- 2008/09/22(月) 19:59:14
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>>213
>>西鉄の昔のTVCM(福岡市内線ワンマン化のCM等)も流れていたりで
あぁ、放映していたね。
香椎花園のジェットコースターのとか、西鉄航空で行く海外ツアー
(メキシコオリンピック云々と言ってたので1968年頃か)のCMは
同じ場所で10年前にやっていたチンチン電車の回顧展でも流していたね。
しかし、100年展が終わったら、あのジオラマを壊すのはもったいないな。
唐人町の社員用の共済会館を使ってなかったら、
西鉄資料館でも作れば良かったが、自社のマンションになったからね。
あそこはライオンズ選手の大円寺寮が有った所だった。
あと、BSデジタルやJCOM等のデジタル対応のケーブルテレビが
見られる人は10月5日の夜10時から↓の番組を放送するようだね。
http://www.bs-asahi.co.jp/nishitetsu/
旅の途中で、懐かしの西鉄のチンチン電車秘蔵映像などを紹介。
そして、西鉄の100年の歴史を秘蔵写真&映像で振り返ります。
伝説の西鉄ライオンズ・花電車など懐かしい時代が蘇ります。
(番組サイトより)
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- 216
- 2008/09/22(月) 21:41:14
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>>214
端っこの国体道路のあたりにソレを探したのは俺だけじゃなかったわけねw
(あったとしても再現するわけにはいかんよな)
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- 217
- 2008/09/22(月) 21:45:26
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あのジオラマは昭和30年代後半ころがモデルになっとうごたあばってん、
東洋ショーはそげな昔からあったとかいな?
筆者は昭和50年代後半ころの高校生ん時に数回お世話になった世代ばってんが。
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- 218
- 2008/09/22(月) 22:17:44
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質問です
うちの祖父が今のマリノアシティ(当時は海)の向かい側にある結婚式場
が昔処刑場だったと言っているのですが、本当でしょうか?
炭坑の廃墟があったことは、かすかに憶えているのですが・・・
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- 219
- 2008/09/22(月) 22:50:37
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あのジオラマ、写真撮らしてくれたらいいといね。
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- 220
- 2008/09/22(月) 22:55:11
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>>218
マリノアシティの対岸に結婚式場なんかありましたかね?あるのは能古渡船場ぐらいでは。
地元民の間では、小戸公園は墓場+焼き場+処刑場だったと知られていますが。
ついでにボタ山もあったらしい。
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- 221
- 2008/09/22(月) 23:13:22
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ボタ山は百道海水浴場から見えていたかも知れんな。
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- 222
- 2008/09/23(火) 00:34:55
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>>217
>>東洋ショーはそげな昔からあったとかいな?
昭和40年代の初め頃には既にあった>東洋ショー
まぁ、俺は興味は無かったがw
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- 223
- 2008/09/23(火) 04:35:37
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>>220
>墓場+焼き場+処刑場
戦前の百道には墓場と焼き場があったそうですね。
処刑場はなくても刑務所があったので、あそこで亡くなられた人、多いと思います。
戦後の百道、焼き場は中学校になりましたが
墓場と処刑場は今でもありますね。
処刑場は戦後長崎から移転したそうです。
最初は今の早良警察署の場所に監房、その南側の公園になっている場所に刑場が設置されて
刑務所が宇美に移転した後は福岡拘置所の中に監房も刑場も移設され
これは現在も使用されているそうです。
話を「昔の福岡」に戻します。
死刑囚監房および刑場の場所は後から建設したので刑務所から独立していて
道一本で隔てられていたのでみんな知っていたそうです。
執行があるとあの辺りの道や建物玄関などの砂がきれいに掃かれていて
「ああ、あったんだ」と分かったそうです。
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- 224
- 2008/09/23(火) 15:36:14
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やまかさ
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- 225
- 2008/09/23(火) 16:25:40
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218です。
>>220さん有り難うございます。書き方が悪くて、マリノアシティの道を挟んで
反対側、日産?の隣の結婚式場ですが。。潰れました?
小戸公園と百道にそんなところがあったとは。。ある意味、知らないって恐い
ですね 処刑場跡地に結婚式場?ってビックリしたもので。。少し場所が違っ
たみたいで、納得しました。
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- 226
- 2008/09/24(水) 00:52:44
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昔、学校の先生から授業中に聞いた話ですが、
その先生は中学校(旧制)のころ勤労奉仕で路面電車の運転をされていらしたそうです。
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- 227
- 2008/09/24(水) 01:13:20
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私は、地下鉄博多駅を作りました。
学生時代、土方で築港に拾われに行ってましたから、その時代に。
あと雁ノ巣あたりの下水路も私が作りました。
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- 228
- 2008/09/26(金) 17:25:29
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朝鮮戦争のころ、大濠公園に米軍兵舎が何棟も建ってましたね。黒人兵が銃を持って、見張りして。
今の保険局?(正式には何?)の屋上に星条旗がはためいて、あの旗は色彩がよいから、青空に映えて
妙にきれいに見えた。米軍の病院として使われていたらしいが、半島から負傷兵や死体を運ぶ、ヘリが
毎日、裏の空き地(今の遊園地)に轟音を発して発着してたなー。死体は寝袋に入れて、ドライアイス
を詰めて運んできてたけど、米軍撤収後、米軍払い下げの寝袋が安価で売ってたよ。羽毛入りの最高級品
だ、と友達の兄貴が買ってうれしそうに自慢してたけど、俺は何も言えなかったなー。
病院に出入りする、米国人のナースさん達が、みんなマリリンモンローに見えたよ。当時の日本人に比べたら、
巨乳ばかりだったからね。
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- 229
- 2008/09/26(金) 20:43:10
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>>227
地下鉄一号線は難工事だったと聞く。深い所ばっかりだし、川の下も多いし。
海ノ中道海浜公園にも兵舎があったのを最近の者は知るまいて。父親が仕事で出入りしてた。
どんぶりみたいなコップにコーラを注いで出すから「そんなに飲めねえよw」と思ってたとか。
ていうか・・死体袋を払い下げて怖すぎ・・・
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- 230
- 2008/09/28(日) 23:22:30
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>>228
その死体洗いのバイトの話を高校の時の先生に聞いた。
きれいにしてから本国へ送っていたらしい。
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- 231
- 2008/10/01(水) 13:14:04
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昔は天神のことを「てんじんのちょう」といっていたよ。今でもお年寄りで
そう言う人が時々います。
西鉄大牟田線は「急行電車」と言っていました。特急でも普通でも関係なく。
そういえば「準急」もありました。
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- 233
- 2008/10/01(水) 14:25:19
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そうだね。天神町。
路面電車(チンチン電車)も銀行の支店名とかもそうだったね。
「天神(てんじん)」となってからも天神様(道真)のことを呼び捨てにできん
やらいって、市民はそのままの呼称のままだったりだとか。
急行電車は現在の西鉄が「国鉄(当時)よりはやい急行電車」とかっていうキャッチ
フレーズだったから、そういわれるようになっただか、西鉄の広報誌かなんかで
みたことあるな。
>>226
それ聞いたことがある。広島だと当時の女学校の生徒が車掌だったそう。
勤労奉仕としては、楽な部類だ。軍需工場なんかよりはね。
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- 234
- 2008/10/01(水) 16:51:45
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戦時中の電車運転士の学生さんの臨時登用については、
最近発行された「筑紫れくいえむ」という本に詳しい。
もっともこの本は路面電車ではなくて大牟田線についての記述が主だが。
この本の主題は筑紫駅付近で実際にあった西鉄電車への米軍による機銃掃射を
探求・発掘し記録したもの。多くの犠牲者が出たらしい。
この掲示板を覗きに来ているような方々なら興味深く読めることと思う。
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