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  • 2021/04/26(月) 12:00:37
落ち武者の亡霊を見たとか出現するなんて与太話はデマだと思うが、荒木村重一族の非道極まる処刑をご存知だろうか。
織田信長の三大虐殺の一つと言われるその一部始終が「信長公記」に詳しく残される。

有岡城が落城後、天正7年12月に家臣、召使いの虐殺で始まり、信長は尼崎の七松で見せしめの処刑を命じた。122人を張り付けで引き出し鉄砲で撃ち殺し、槍、長刀で刺し殺し、続いて召使い388人と若党ら514人を4つの家に閉じ込めて草を積み焼き殺した。
それから半月後に場所を京都六条河原に移し、村重家族と重臣の家族36人の処刑。女も子供も姫も容赦はなくじつに酷い。

伊丹シティホテルそばの墨染寺の境内にはその時犠牲になった人たちを慰霊する「女郎塚」が供養塚として残っている。
尼崎市の七松八幡神社には「故六百二十余人之碑」大きな石碑が当時の歴史の悲劇を伝えている。
ざっと長文で書き込んだが、伊丹の歴史の事実としてこのような大事件があったことを憶えてもらえたらと思います。

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