【歴史と伝統】☆埼玉県ときがわ町★ Part7 [machi](★0)
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- 2013/10/27(日) 11:47:14
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市町村数の変遷と明治の大合併の特徴
年月市町村計備考
明治21年−(71,314)71,314
「明治の大合併」
近代的地方自治制度である「市制町村制」の施行に伴い、行政上の目的(教育、徴税、土木、救済、戸籍の事務処理)に合った規模と自治体としての町村の単位(江戸時代から引き継がれた自然集落)との隔たりをなくすために、町村合併標準提示(明治21年 6月13日 内務大臣訓令第352号)に基づき、約300〜500戸を標準規模として全国的に行われた町村合併。結果として、町村数は約5分の1に。
■ 71,314もあったんだなあ
七人の侍の村もどっかにあったんかなあ。
もともと、ここは鎌倉武士の落人の土地と聞いたなあ。
今でも気位だけは、高いものが多いなあ。
ここの良いのが「名家」のないところ。
山林地主が崩壊してしまった。
昭和30年代は山林地主の天下だったらしい。
木工所経営者は、良くてその次。
今では、山林地主も木工所経営者も苦しい状況だ。
■ 昭和30年代の山林地主は小川の駅近くに家を持ち、子どもを東京方面の学校へ通わせた。当然、女中も雇った。今で言うメイドかな。当時は松山高校はブランドだった。ときがわのお嬢様と言えば、川越女子高校へ行くのが習わしだった。
■ 時代が変わって、名家は壊滅してしまった。今、ときがわを満喫しているのは、ニュー世代だ。年収500万円程度でも、かなりの余裕の生活ができることを知っている世代だ。
■ 昭和40年代のときがわの高校進学率は約50%だったらしい。当時は大学というと埼玉大学教育学部で教員への道だったらしい。S町長は大東文化大学中退だから、ある意味ニュー世代かもしれない。
松山高校から六大学へ行ったものは、よその土地で暮らしているようだ。
■ ときがわ町は文化不毛の地だ。本屋が成り立たない。図書館のレベルも低い。いちおう、図書館法では認められない二つの図書館がある。小川町立図書館と比較できない。
■ でも、慈光寺がある。天台宗関東別院であった寺である。栄華はここにもあった。静かに歴史の変遷を眺めている。川の流れのように。
■ 関東大震災の影響もほとんどなかった「村」。台風も地震も天災から孤立している村。まあ、秘密基地だな。
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