facebook twitter hatena line google mixi email
★お気に入り追加


  • 89
  •  
  • 2018/04/30(月) 20:45:58
長文すみません、地名の由来を更新しました。ご意見をお願い致します。よく企業名からと誤解される日立ですが、企業名ではありません!日立は地名です。昔々の話ですが、日立青年会議所の例会で地名の由来の講座があり。講師の教授の説では宮田と滑川が合併するとき県からの指示は宮川村だったが、宮川の名に反発した村民は黄門様が神峰山山頂より海から登る美しい朝日を見て言った「日の立ち昇るところ領内一」という故事を理由に、ここは日立なんだから日立村にすると言い張った!明治の頃は県の権限は絶大で一寒村が県に反発するなどありえない話だが、水戸光圀候の故事を出されては、さすがの県のお役人様も反論できず日立村になったということです。本当に言ったかどうかは別として黄門様の故事を理由として日立になったのは本当の話みたいです。のちに地名をとった日立鉱山、日立製作所がその名の通り日の出の如く発展して行きました。
日立市の誕生。日立町と助川町が合併し日立市にする話は明治後半から大正時代にありましたが、宮田と助川は数沢川(市役所脇の小さい川)の水利権をめぐり非常に仲が悪かったそうです。また当時は日立鉱山による急激な人口増で一気に都市となった日立町と事実上日立町の衛星都市である助川町では格差も大きく何度も合併話が流れていました。大正時代後半から昭和初期にかけて鉄道の駅があり、日立製作所海岸工場(日立工場)のある助川町は、5年以上人口増加率日本一を記録し日立町と同程度の町となり昭和14年日立町と助川町が対等合併となり日立市が誕生しました。地名は日立市となりましたが市役所は、境界線上の旧助川町に置かれました。ちなみに旧日立町の町役場は、現在の郷土博物館のあたりです。
おまけ 日立市民にとって日立とは、極めて狭い範囲の地名を指し、日立市民なのに平気で日立に行くとか言う。だいたいの範囲は、北は、かみね公園から南は日立二高までです。境界線は、北は滑川で、南は会瀬、城南です。日立鉱山(JX)は日鉱、日立製作所は日製なのが当たり前。

ここまで見た

★お気に入り追加

このページを共有する
facebook twitter hatena line google mixi email
おすすめワード