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  • 634
  •  
  • 2021/05/27(木) 09:32:07
>>633
なるほど。
道祖神や石仏はそういう目印になるんですね。
そう考えると、一里塚というのも随分と役に立ったんでしょうね。
1時間ごとに一里塚があるというのも絶妙ですね。
なかったら迷ってるという判断基準になりますし、1時間程度なら引き返しても取り返しがつかないほどのタイムロスにはならなさそうです。
平地なら、ちょっと歩けば次の一里塚が見えそうだし。

調べてみたら、神奈川で現存している一里塚は、畑宿(箱根)と茅ヶ崎と品濃(東戸塚)の3つしかないようです。
3つと言っても、箱根は最近復元したもの、茅ヶ崎は片側だけなので、両側とも残っているのは品濃だけみたいですね。
品濃一里塚は両側とも残っていて、なおかつ塚の周りが公園になっているので、往時を偲ぶには中々良さげです。
一里塚があるような主要街道沿いは目まぐるしく開発が行われるので、このように残ってるのは貴重ですね。
400年もの年月、色んな人が通り色んなドラマがあったんでしょうねぇ。

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  • 635
  •  
  • 2021/05/27(木) 21:13:12
>>634
街道筋の石仏は道標になっているものが少なくないです。
道標ばかり調べているサイトもあります。
道標になっていない石造物でも、建立者の所属する村名が彫られていることが多いので
それも現在地を知る上で重要な情報になったでしょう。

残っている一里塚ってそんなに少ないのですか。
多分全部見てます(笑)。
小田原で石仏資料に載っていない石仏の情報が郷土史料にあって捜しに行ったのですが
一里塚から脇道へ入って、という紹介の仕方でした。
ところがその一里塚が平成になる前後あたりに道路拡張工事で無くなったらしく
場所を特定するのに一苦労したことがあります。

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  • 636
  •  
  • 2021/05/28(金) 05:25:24
藤沢、茅ヶ崎市境の国道1号付近に住んでいます。
犬の散歩で近くをうろつくと東海道からちょっと入った何でもない路地角等に古い石仏や道祖神を沢山見ることができます。
見通しの良かった昔は街道沿いからも見えたのかもしれませんね。

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  • 637
  •  
  • 2021/05/28(金) 11:36:31
>>635
一見すると一里塚はこんもりしたただの雑木林ですし、一里ごとにあるとなるとレア度も低いですから、バンバン整地されてしまったんでしょうね。
昭和の中頃の地図を見ると、一里塚の辺りは荒れ地記号があるのみなので、あの地図を見て開発計画をたてたら躊躇なく整地対象になっちゃいますね。
むしろ整地せにゃいかんという気にすらw

茅ヶ崎の一里塚から烏帽子岩が見えたそうですが、あそこからあの高さで見えるんですかねぇ。
無くなってしまった反対側が高かったのか、違う一里塚の事なのか。

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  • 638
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  • 2021/05/28(金) 12:19:36
>>635
なるほど、石仏に彫られている文字からも情報を得られたんですね。
ひと気のない場所で人工物を見つけるだけでもホッとしそうです。

>>636
その細い道も、昔は村と村をつなぐ街道だったのかもしれませんね。
江戸時代半ば頃の資料に、芹沢の辺りから中原往環(平塚-江戸)につながる御江戸道という新道の事が書かれており、東海道だと14里のところ12里でつくとか。
当時、片瀬から茅ヶ崎の海岸辺りは幕府の鉄砲演習場になっていたようなので、最短距離で江戸に帰るために、お住いの辺りの道は御江戸道に出るためにそこそこ往来のある道だったのかもしれません。
あ、その辺りは大山街道(田村道)もありますよね!

そういえば、その辺りには小和田の熊野神社、辻堂の諏訪神社と鐘楼のある神社が2つもあるんですよね。

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  • 639
  •  
  • 2021/05/28(金) 12:52:25
>>636
今調べたら、その辺りは厚木道という藤沢から大庭経由で用田に抜ける道もあったようです。
もう一つ、鵠沼から八王子道へ抜ける道もあったようで、はっきりルートが記載されているものは見つけられなかったのですが、ルート的にはその辺りを通ったのではないかと思います。

国道1号線沿いの藤沢茅ヶ崎の市境い辺りは、主要街道だけでも東海道、大山道、厚木道とあり、他の脇道も沢山あったみたいですね。

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  • 640
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  • 2021/05/28(金) 17:59:35
>>639
色々とお教え頂きありがとうございます。
樹齢数百年はあるという樹木の傍らに小さな祠があったり、古い大きなお屋敷もあるので、昔から往来が多かったのでしょうね。
今度からは、ぼんやり歩いていないで少し気にして見るようにしてみます。
熊野、諏訪の両神社共に凛とした雰囲気が素敵な場所です。

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  • 641
  •  
  • 2021/05/29(土) 06:27:47
>>636
二ツ谷稲荷から水道道〜大山道はよく使います。
お盆になると砂盛りが出るエリアで好きなルートです。

路傍の石仏は、江戸時代の街道絵図だと、村への入口あたりに高い確率で置かれていたようです。
悪いものが村へ入らないように防ぐという説明はなされていますが、単純に村への目印の意味もあったでしょう。
ところが村の中にも石仏は置かれていて、そうなると置かれた場所の意味は色々になります。
そこを想像するのが面白い所ではあります。

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  • 642
  •  
  • 2021/05/29(土) 07:19:08
>>637
茅ヶ崎の一里塚から烏帽子岩...
一里塚の上に登れば見えたのかもしれませんね。
あるいは道自体の標高が今より若干高かったのかもしれません。

車道はできるだけ平坦にしますから、高い所は低く、低いところは高く変わってます。
東海道筋だと上に出ている藤沢茅ヶ崎の境目あたりには歩道が車道より1mくらい高い場所も。
あの高さが江戸時代の東海道の高さだったのかも。

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  • 643
  •  
  • 2021/05/29(土) 13:50:59
>>641
石仏にも色々な意味があるのですね、勉強になりました、ありがとうございます。
お盆砂盛りを出す家も近年は減ってきましたが、20〜30年前は50cm四方位の華やかなのでご先祖をお迎えしている御家庭もいくつか見られました。
素敵な風習ですよね。

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  • 644
  •  
  • 2021/05/29(土) 18:26:09
石仏やお地蔵さんにいつ通っても花を生けてあったり周辺をキレイにお世話されてる方がいらっしゃいますが感服します
それは全体の極少数ではありますが、頭が上がらないですな

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  • 645
  •  
  • 2021/05/29(土) 18:43:24
昭和7年5月の新聞記事から要約

大磯駅裏手の山へ松露採りに行った地元民が、若い男女の遺体を発見。
男は慶応大学の学生服だったが身許不明だったので、とりあえず大磯の寺に仮埋葬した。
ところが翌朝、女の遺体だけ埋葬地から無くなっていた。
翌日、海岸で全裸の遺体が発見され、謎の事件として当時のマスコミが大騒ぎ。
坂田山心中事件、純潔の悲恋として全国に知られ、映画「天国に結ぶ恋」にまでなった。

後日、町で比翼塚を建てる計画が持ち上がり、実際に建てられたが、有名になりすぎて
自殺の名所のようになってしまったため、色々な経緯を経て現在は鴫立庵に移設。
男の墓は多摩霊園に造られたが、二人を夫婦として供養。
そして今年、その墓は消えるかもしれないようです。
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/S/zusho_go.html

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  • 646
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  • 2021/06/01(火) 23:51:51
>>632
旅行用心集、私もパラパラと読んでみました。
内心、宿場のしつこい飯盛旅籠の客引きを断る方法とかを期待していたのですが
基本的に真面目な旅行入門ガイドで、その手のことはほぼ触れられておらず。
でも、ほほーと読めました。

ご指摘の男娼に人気のある湯の所だけやけにくだけた感じで私も印象に残りました(笑)

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  • 647
  •  
  • 2021/06/04(金) 06:42:13
>>646
箱根の底倉温泉は江戸時代には賑わっていたようですね。
今も昔も、箱根は江戸からの行楽に適度の距離なようでw

今調べたら、底倉温泉は秀吉の小田原攻めの時の野営地だったようですね。
その時の落ち武者7人が現在の上溝辺りまで逃げ、田畑を耕し村を作ったのが田名村みたいですよ。
たまたまこのスレで話題に出た地名が、偶然にも繋がってびっくり。

片方は花街、片方は男娼に人気w
勝った方と負けた方。
その対比もまた面白いですね。

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  • 648
  •  
  • 2021/06/04(金) 20:57:55
>>647
底倉、男娼でググってみたら、それを歌った江戸川柳のサイトがありました。
〜底倉へ菊の療治に痔童来る〜
この手の川柳がずらずらとw
江戸っ子の一般常識だったようですね。

底倉は秀吉の湯とかありますものね。
石垣山城の他にも千利休が茶室を構えた江之浦とか、広範囲に遊んでいて
小田原攻めは秀吉にとってはかなり余裕があったのでしょう。
後北条が勝てるわけなかったんだなと思います。

上溝に後北条の落ち武者ということですか。
県内で武田関係の移民伝承はかなり見聞していますが、後北条は初めてです。

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  • 649
  •  
  • 2021/06/05(土) 12:37:08
>>648
仰っしゃる通り(記憶が曖昧なので間違っているかもしれませんが)秀吉軍15万に対し北条3万5千では力の差がありすぎですよね。
そう言えば、その3万5千は裏打ちする資料があるようなので、実際にそれだけいたのは事実のようですが、不思議な事に後北条の戦力は1万程度だったという資料もあるのです。
2万5千人はどこから湧いたのでしょうかw

落ち武者関係の話は、どこの地域でも眉にツバつけて聞いた方がいいものばかりですよねw
性質的に口頭で伝承されるものなので、どこまでが真実なのか全くわからないです。

ただ、田名の7人の落ち武者に関しては少し興味深い話がありまして、中村(だったかな?)の7人の有姓百姓が北条家のためにずいぶん頑張っていたという話をどこかで読んだ記憶があります。(これまた記憶が曖昧なので色々間違っているかもw)
今の中井町にも久所という地名がありますし、その中村の7人が田名に移住し落ち武者伝承の元になったのかなぁと想像しております。

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  • 650
  •  
  • 2021/06/05(土) 19:19:12
>>649
私もほとんど知識はありませんが、たしか騎馬武者1に郎党2(従者と使い走りとか)の3人ワンセットが最小単位で、あとは禄に応じてそのセットが増えるという説明を受けた事が。
これだと実際の戦闘員は1人だが軍勢としては3倍でカウントされますので、3万5千の軍勢も戦力は1万1千ほどになる計算です。
案外これなのでは。

武田の移民に関しては、真実も多いのではないかと思っています。
八王子の千人同心に代表されますが、徳川の施策で移住させられた旧武田領民というか家臣団ではないかなと。
ほとんどが帰農していますが、寺も移って来たようで、その伝承を持つ寺も複数あります。
それを調べている人もいるようなのですが、具体的な情報はもらえていません。

田名に関してもありそうな話しだと思います。
似たようなネタもありますが、長いので次に。

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  • 651
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  • 2021/06/05(土) 19:46:28
子孫が現存しているので具体的な名字や地名は控えます。
お寺さんの名前は複数資料に出ているので問題ないようです。

子孫とお寺さんの話しをざっくりまとめると以下。
三浦氏に加勢した一族がいたが、後北条に負け、一族の主立った者も3人死んでしまった。
その結果、檀那寺から檀家を外れてくれろと言われてしまった。
これは、そういう一族が檀家だと朱印をもらえなくなるとかの理由でしょう。
困った一族は近隣の複数の寺に檀那になってくれと頼み込んだがことごとく断られた。
宗派を変える覚悟も示したがダメだったので、元の寺から直線で7kmほど離れた能永寺にも頼み、やっと受け入れてもらえた。
喜んだ一族は能永寺に対して、子々孫々檀家でありつづけるとの証文を出した(1516年)。

この一族が最初に檀家だった寺の近くに住んでいたと仮定すると、今は6kmほど離れた土地に住んでいるので、旧所領から落延びたのでしょう。

という事例がありますので、後北条に加勢していた一族が落延びることはありそうです。

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  • 652
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  • 2021/06/06(日) 09:45:38
>>650
3人セット!そうでした!
軍役は馬で出陣する事と槍持ちと指物持ちを随行させる事は義務でしたね!

じゃあその分がカウントされて3倍なのかと納得しながら、つらつら資料を見ていたら、そうとも言えないのかもしれないという物を発見してしまいました。

ちょっと長くなりますが、順を追って説明いたしますね。
当時の豪農達は、農家をやりながら時には戦争にも行くものだと、私は思っていたのですが、年貢を納めるものと年貢の代わりに軍役を行う者は台帳でキッチリ別れていたようです。
そして、軍役で奉仕している豪農達は百姓軍というという部隊に配属され、手柄次第によっては侍に昇格。
つまり、年貢を払う立場から禄を貰う立場に。
とはいえ、この百姓軍が手柄を立てることは珍しいようで、北条五代記には、二人の百姓が敵の首をとった事を珍事だの前代未聞の働きだの書かれています。(ちなみにこの百姓、一人は相打ち、一人は侍に昇格)

で、ここからが本題。
後北条は、秀吉の小田原攻めを迎えるにあたり、兵力増強をはかり、軍役負担ではない豪農達も半ば強制的に軍事動員したようです。
かなり切羽詰まってたんでしょうね。
でもまあ、元々あまり役にたたない百姓軍に、何の経験もない人達を増員しても兵力増強になる訳もなく...
なので、秀吉vs後北条は、目に見える数字以上に戦力差があったようです。
どうもこれが3倍のからくりであり、「百姓は戦争があったら戦争に行く」という兵農未分離のイメージの元であるようです。

ちなみに、トップが代わると、侍に昇格した百姓も「お前やっぱ百姓ね」と百姓に戻されてしまう事も多かったようです。
そうなると、大抵の場合は、百姓上がりの侍の所領は自分の土地(つまり年貢として納めていたものがその侍の禄になる)なので、場合によっては、領地取り上げ=自分の土地取り上げられる、になるので他所に流れるしかなくなるみたいです。
もちろん、それが全てではないので、仰るように檀家の問題などもありそうですね。

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  • 653
  •  
  • 2021/06/06(日) 09:57:08
>>644
服や帽子を着せてあったりもしますね。
でももう、そういうお地蔵さんもあまりみなくなってきました。

お地蔵さんと言えば、私の実家の辺りでは、どんど焼きは道祖神を祀るためのもので、その近くの空き地などでやっていたのですが、周りが住宅地にばかりになってしまった今は、いったいどこでやっているのやら...
どこかの空き地を借りてやっているのか、それとももうやっていないのか。
どちらにしても道祖神を祀る意味合いは消滅してそうです。

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  • 654
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  • 2021/06/06(日) 10:05:43
>>645
こんな事件があったとは全く知らず、興味深く読ませていただきました。
どちらもしっかりした家系なので、親戚筋は簡単にわかりそうですけどね。
私がチョロっと検索しただけでも沢山出てきましたがw
まあ、ビジネスライクに処理をするとなると、わざわざ調べて連絡取ってなんて事はしないんでしょうねぇ。

それよりも、1ヶ月で映画化配給が一番驚きました。
はやっ!

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  • 655
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  • 2021/06/06(日) 11:01:39
>>651
ふーむ
江戸時代の寺請制度以前にも、「どこかのお寺に所属しなくちゃ!」と言う同調圧みたいなものはあったんですかね
そこまで

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  • 656
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  • 2021/06/06(日) 15:49:40
>>655
同調圧というより、それだけ信心が濃い時代だったのだと思います。
先祖を供養できなくなるとか、自分達以降の一族も供養してもらえないのは恐怖に近い部分もあったのではと。
特に戦をする階層にとっては切実で、戦国武将はだから寺社へ領地などを寄進して自身の供養を願ったのでしょう。

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  • 657
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  • 2021/06/06(日) 15:51:59
>>652
なぜか返信文中にNGワードがあるみたいで、長文を2回NGくらったのでシンプルにお礼を。

軍勢の数だけでなく質も大差があったのですね。
ちょっと農兵というか雑兵に興味が出てきました。
雑兵物語をちゃんと読んでみます。

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  • 658
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  • 2021/06/06(日) 18:02:40
>>654
天国に結ぶ〜を調べたのは、大磯の鴫立庵に比翼塚があったからです。
おや、何か世間に知られた心中でもあったのかと。

今迄にも2、3見たことはあって、特に由来が無いケースもあったのですが、たぶん、と思っていました。
ところが比翼塚は仲の良い夫婦を一緒に供養する時にも建てるようで、むしろ今はそちらの方が多いみたいです。

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  • 659
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  • 2021/06/11(金) 12:10:22
>>658
大磯といえば、澤田美喜記念館には行かれましたか?
エリザベスサンダースホームの設立者の小さな記念館なのですが、彼女は隠れキリシタングッズの蒐集家だったようで、記念館はそれらのもので溢れています。
というか、どちらかといえばご本人の偉業よりもそっちがメインw
光を当てて反射させるとキリストが現れる魔鏡やマリア観音、初めて目にするものも沢山ありました。
キリスト教弾圧下において信仰を守り抜いたのは、ほとんどが貧しい農民だったそうで、どのような思いでそれらの物を持っていたのか。
これもまた江戸時代の隠れた側面だなと色々考えさせられました。

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  • 660
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  • 2021/06/13(日) 07:06:14
>>659
サンダースホーム行きました。
あそこは凄いですね。
1600年頃の切支丹図を所蔵しているので観に行きました。
石仏に十字のアイコンがあると、これは隠れ切支丹のものだと指摘する人もいますが
サンダースホームの展示物を見ると、絶対にバレないように隠していたことが判って
十字アイコンを堂々と表に出すなんてありえないと痛感しました。
ちょっとでも疑われたら、すぐ通報される時代でしたし。
ただ、澤田氏は業者が持ち込むものを買っていたそうで、中には怪しいものもあるそうです。
実際、今はほとんど否定されている織部灯籠とかもありました。

隠れにならずに済んでいた時代だと江戸にもいて、東京駅で切支丹墓が発掘されているはずです。

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  • 661
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  • 2021/06/13(日) 18:45:22
あ、例外を思い出しました。
石造物の十字アイコンですが、能勢氏の矢筈十字家門はもう十字架そのもの。
都内、池上本門寺の墓地で見ました。
元キリシタン大名で、禁教後に法華へ改宗したから問題は無いみたいですが、よく使い続けたものです。

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  • 662
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  • 2021/06/15(火) 07:04:44
水郷田名の花街を教えて頂いてから、花街の信仰に興味を持ちました。
軽い気持ちで県内の花街・色街を調べ出したのですが
江戸時代の宿場と遊廓以降、
明治5年の娼妓解放令以降の三業地、二業地
昭和21年の公娼制廃止
昭和33年の赤線廃止
大雑把に見てもこれだけのエポックがあって、そのたびに業態や場所が変わっており
加えて、非公式の場所まであると判り、いったい何ヶ所あったのかすら把握できなくなってしまいました.

ネットには色々出ていますが、知っている場所がいくつか載っていなかったりして
こういうのを調べてまとめている人は大変なんだなと痛感している最中です(笑)

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  • 663
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  • 2021/06/20(日) 12:58:35
浦賀の花街が面白かったのでちょっとだけ
狭い町ですが、江戸時代は干鰯問屋と浦賀奉行所から許可を得た廻船問屋で潤っていた土地です。
明治以降は浦賀ドッグができました。
軍事施設でもあったのに、空襲は焼夷弾が1つ落ちただけで町並みの変化は宅地開発だけ。
鏝絵(こて・え)がある土蔵とかもあちらこちらに。
ちなみに金持ちが多かった土地なので、江戸の高名な書家に揮毫してもらった石仏や、狛犬彫刻で有名な鶴見の石工に造らせた庚申塔などもあります。

江戸時代は他で言う所の飯盛旅籠を洗濯屋と呼んでいたようです。
浦賀の歴史は東西に分かれますが、洗濯屋があったのは西。
花街の史料に2つ歴史があって、どちらが正確なのかは判りませんでしたが
元禄時代には鎮守神社の祭礼への参加を許否されていたものの、その後、正式に参加できるようになったようです。

かなり驚きましたが、その鎮守の神社に洗濯屋6軒が奉納した銅製の灯籠が残っていました。
安永8年(1779)には洗濯屋の主人が出家してしまい、店は他の人に譲り、なんと徳本上人の弟子となって浦賀へ戻って来たとか。
銅製灯籠に名があったのは、その譲られた人物のものでした。
鋳造は江戸小伝馬町。よく戦時供出されなかったものです。
それと別の稲荷にも貸座敷時代の店名が入った石造物がありました。

なお、浦賀ドッグが無くなってしまい、郷土資料館で企画展が行われていました。

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  • 664
  •  
  • 2021/06/27(日) 12:17:32
古文書集を読んでいたら、面白いものがありました。

大祝殿 晴信
就于今度出陣、於于神前、被抽精誠、御玉会・守符令頂戴畢、抑北條氏政居住之地撃砕、
武相両国悉放火、剰至于相州見増坂逐一戦、北條新太郎・助五郎已下之兇徒二千余人討捕、如存分達本意條、
併當社之神力故候、八州令静謐者、諏方一郡不貽卓錐之土、
可寄附両社候、以此旨、無油断精誠可為肝要候、恐々謹言
永禄12年10月16日 
信玄花押 諏訪大祝殿

武田信玄が小田原攻めの後、三増峠で後北条と戦い、帰国後に諏訪神社へ送った感謝状のようなもの。
武相両国にことごとく火を放ち、見増坂(三増峠)で氏邦と氏規の軍勢2000人余を討取り本意を遂げられた。
これは当社(諏訪社)の神力のおかげであり、八州(関東)は静かになった。諏訪は狭くない優れた土地である。
両社(上下諏訪社か)に寄附するので、(これからも)油断無く精誠してくれ。

これが諏訪神社にだけ出された書状なのか、類似の内容で他の寺社にも出されたのかなどは不明ですが
裏を返せば、戦国期の寺社は祈祷に効果が出ないと大変だっただろうなと。

なお、信玄は後北条へ嫁いだ娘の出産だと浅間神社に祈祷を依頼してたりします。
この娘は黄梅院ですが、同じ永禄12年に甲斐へ返されました。

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  • 665
  •  
  • 2021/07/02(金) 12:10:36
黄梅院ですが、甲斐には戻されていなかったようです。
小田原で27才で没したと考えられるようで。
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2021/05/post-c7cdbe.html

それにしても古文書の一文字の判読次第で変わるとは恐ろしい。
もっとも、古文書にある「要害」がどこかで論争にもなることもあるようですが...

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  • 666
  •  
  • 2021/07/03(土) 17:34:59
熱海、伊豆山神社近くの土石流。
亡くなられた方のご冥福と、他地点でも同様の災害が起きない事を祈ります。

急峻な地形が多い伊豆半島の東側は過去にも台風や地震で幾度となく土砂災害がありました。
県内だと米神のお寺さんは流されて現在地へ移転。
根府川の釈迦堂は山津波で埋もれたまま。
地下への階段を作って拝観はできますが、今回の映像を見てどれほどすさまじかったのか痛感しました。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kabataf/kantoujisin_ishibumi/kanagawa_odawara/odawara1.htm

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  • 667
  •  
  • 2021/07/08(木) 09:09:58
来週は旧暦のお盆。
県内で最も凝ったスナモリを作る秦野の多くは7月盆です。

今年こそは見たいと思っていましたが、梅雨明けしてなさそう...

ここまで見た
  • 668
  •  
  • 2021/07/08(木) 15:29:26
>>667
7月盆は新暦でない?
https://www.eflora.co.jp/f_obon/colum/02/

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  • 669
  •  
  • 2021/07/08(木) 23:15:05
>>668
あ〜。。いつも間違うんですw
旧暦7月は新暦だと8月になる。
つまり新暦で7月にやるお盆は旧盆と呼ぶが旧暦盆ではない。

ってことですよね。これも間違ってるかもしれませんが。

沖縄は9月にずれこむこともあるんですね。閏月がある年ってことか。

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  • 670
  •  
  • 2021/07/08(木) 23:22:24
余談ですが、神奈川は新暦7月盆と上記サイトに書いてありますけど、
県内の農村部の大勢は8月盆です。
7月盆だと養蚕の収穫期と重なってしまい大変だったから8月盆にしたそうですが、
秦野は煙草栽培がメインで、養蚕をほとんどやらなかったため農村部は7月盆。
しかし商家が多いエリアは8月盆と分かれてると、昨年行って知りました。

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  • 671
  •  
  • 2021/07/09(金) 00:30:12
>>669
新暦旧暦と旧盆は使い方が逆なんですね。
あと、新盆だと不幸のあった家の最初のお盆という意味だから、新盆旧盆は意味が違うことに気づきました。

>>670
藤沢の円行、善行、石川辺りの砂盛りも、だいたい8月に登場するので、このあたりも8月盆なんでしょうね。
夏休みの兼ね合いもあるのでしょうけれど、お盆の行事やお祭りは8月が多いように感じます。

私の実家は七夕もお盆も8月だったので、7月にスーパーでお盆セットが出てくると、一気に夏も終わりなような錯覚に陥ります。

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  • 672
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  • 2021/07/09(金) 20:50:45
>>671
おっしゃる通り、現代では、8月盆が多いのは夏休みとの兼ね合いが大きな理由になっているでしょうね。

ところで七夕も8月にやっている所があるのですか。初めて知りました。
考えてみれば7月だと梅雨ですし、8月の方がいいかも(笑)

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  • 673
  •  
  • 2021/07/10(土) 10:17:15
>>672
仙台の七夕も有名ですが、あれは8月7日です。東北・北海道は大きな節句以外は旧暦ってところは多いようです。

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  • 674
  •  
  • 2021/07/10(土) 19:23:27
平塚の七夕祭りなんて毎年のように雨の中だしな

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  • 675
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  • 2021/07/12(月) 11:30:39
>>673
旧暦で行事をやっている所って意外にあるんですよね。
季節に関連してると、旧暦の方が理に叶ってるし。

でも、夏の暑さがこんなに厳しくなると見直す土地が出て来るかも。
うちの寺は8月盆の直前に施餓鬼ですが、檀家衆は炎天下でヒーヒー言ってますw
雨が多くても7月の盂蘭盆会とかに切替えた方が…と思わないでもないです。

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  • 676
  •  
  • 2021/07/18(日) 15:39:00
秦野の7月盆でつくられるスナモリ(地元ではツジ)を見るため
1日遅れで行ってみましたが、13日に作り、16日にきっちり壊すそうで、
何人かに訊いてみたものの、捜すだけ無駄と言われてしまいました。

しかし、数年前にツジを調査した方に出会えて情報をもらえました。
堀山下地区を調査され、147基のツジを確認したそうです。
砂だけで盛ったツジ12基、竹で組んだツジ30基、木枠のツジ95基、その他10基だそうです。
木枠はホームセンターなどで売っている簡易バージョンらしく、2年前から木枠にした方は、
材料を揃えるのが大変なのと、作るのも面倒なので木枠を買ったそうです。
ただ、中には木枠を手作りする人もいるようです。

調査した方は旧盆(8月盆)の地域も廻り、大根や鶴巻は竹組が無いことを確認したそうです。
本町地区は大掛かりな竹組のツジがあると言っていました。
これは昨年見ていますが、見事なものでした。

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  • 677
  •  
  • 2021/07/18(日) 18:27:15
>>676
13日に作って16日にこわすんですか
藤沢石川、善行、円行あたりはいつまでもある

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  • 678
  •  
  • 2021/07/20(火) 17:43:56
>>677
そうなんですよねぇ。。。
8月盆で廻った土地は、お盆過ぎても結構残っているので、
秦野も同じだろうと思ったのですが、今回は1基しか見れませんでした。

16日に壊して、昔なら川に流していた残り物達を廃棄物として出すことを
町内会できっちり決めているみたいです。

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  • 679
  •  
  • 2021/07/21(水) 03:43:49
>>678
ああ、町内会で決まっているのは厳しいですね。
円行あたりは、川に流すのは今は灯籠みたいですが、昔はどうだったのでしょうね。
砂盛りは、以前円行で実施しているお宅の方にうかがったら、8月いっぱいくらい適当にしているとおっしゃっていたので、円行はもしかしたらもともと砂盛りを川に流すことはしていなかったのかもしれないですね。

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  • 680
  •  
  • 2021/07/21(水) 07:18:48
>>679
資料によると、川に流すのは精霊棚とかスナモリに供えた牛馬とか花をコモで巻いて、とかだったようです。
秦野の場合はそこに竹組が入っているかもしれませんが、今回見られた捨場にはありませんでした(写真)。
富士砂を使っている所によっては、もう採れなくなっているので毎年使い回しているという家もありました。
秦野以外の川砂や畑の土を使っている所は、飾りだけ捨ててスナモリは自然に風化させている家も多いですよね。

なお、写真の場所は谷川の上の畑の端っこで、道祖神が近くにありました。

https://i.imgur.com/r48X3yi.jpg


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  • 681
  •  
  • 2021/07/25(日) 09:19:15
分類神奈川県保元辞典 1 自然・動物・植物(2003)というのを
安く買えて読んでいるのですが、
初めての方言だらけでビックリしています。

色々ありますが、カマキリの方言は古語がそのまま残っていたようです。
カマキリの古語は「イボムシリ(イボジリ)」だそうで、それの変化形が
旧相模国では昭和50年前後でも使われていたようです。
イボジリ=足柄平野、愛甲郡、旧津久井郡
エボジリ=高座郡
イボッタ=三浦半島
もちろんカマキリが最多で、トウロウ(旧津久井郡)なんてのもありますが
なんでそうなると不思議なのも
トカゲ=海老名、座間、相模原南部など
この地域でのトカゲ(爬虫類)はカガミッチョとか呼ばれていたようです。

今はこういう言い方も無くなっているでしょうねぇ...

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  • 682
  •  
  • 2021/07/25(日) 23:43:39
トウロウは蟷螂でカマキリとも読むんですね
カマキリでイボ(疣)をさするととれるからイボムシリって説があるらしいけど、面白いですね

https://plaza.rakuten.co.jp/yk1430/diary/201510210000/?scid=wi_blg_amp_diary_next

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  • 683
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  • 2021/07/28(水) 07:00:43
>>681訂正
分類神奈川県方言辞典1

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  • 684
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  • 2021/07/28(水) 07:26:08
>>682
>カマキリでイボ(疣)をさするととれる

ちょっとうろ覚えなのですが、三浦半島でこれをやっていたという
明治生まれの方々による証言集を読んだ事があります。びっくりですね。

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  • 685
  •  
  • 2021/07/28(水) 09:37:59
ところで、民俗・歴史スレには厳しいNGワードが見つかりました
「古・老」
なにゆえNGなのかw

砂時計アラームタイマー
フリック回転寿司
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