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  • 2014/04/10(木) 08:15:21.74
911 名前:もぐもぐ名無しさん :2014/04/08(火) 15:43:33.73
「天丼」の進化は屋台系とお座敷系の2系統
“黒天丼”と“白天丼”はどちらが先に生まれたのか

「長崎てんぷら」が登場したのは16世紀とされるが、現在のようなてんぷらの味が完成するのは、江戸中期の18世紀になってからのことだ。

 「長崎てんぷら」のルーツは南蛮料理で、衣が厚く、味がついているのが特徴だ。小麦粉に卵(卵黄の場合も)、砂糖、酒、塩、水を加えて衣をつくり、タネにつけてラードで揚げる。
衣に味があるので、天つゆなどにつけず、そのまま食べる。ぼってりした重めの衣で、てんぷらというよりもフリッターに似た料理である。

 「長崎てんぷら」が17世紀に入って関西に伝わり、「上方てんぷら」となる。「上方てんぷら」は衣に「長崎てんぷら」と同じく卵、砂糖、塩を用いるが、味つけはそれほど濃くなかったようだ。
タネは野菜が中心で、油はラードに代わってゴマ油、大豆油、綿実油など植物性のものが使われるようになり、より淡白な味わいとなった。
ちなみに、関西ではてんぷらは「つけ揚げ」と呼ばれ、はんぺん(魚のすり身)を揚げたものが「てんぷら」と呼ばれていた。

 この「上方てんぷら」が江戸に伝わったのは17世紀の初め、江戸幕府が開府して間もない頃だと言われている。
江戸時代初期に日本橋川沿いに魚河岸ができると、近くの露店で魚介類を衣につけて揚げる立ち食いの店が登場する。
だが、当時は「てんぷら」とは呼ばれず、「ゴマ揚げ」と称されていた。なぜなら、江戸のてんぷらはゴマ油を使って揚げられていたからである。
(略)

 また、江戸時代には、油は貴重な材料だった。そのため、揚げ油を入れ替えることなく、少なくなったら注ぎ足して使うのが通例だった。
同じ油を使い続けていると、当然のことながら衣は黒っぽく重くなる。
そこへ江戸前の濃いタレをかけたのが、屋台から生まれた天丼だったのである。

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