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  • 2016/12/08(木) 05:04:06
道内(当時名称は蝦夷地)開拓時の道路の多くが囚人が開削で、
過酷な労働で多くの死者を出し、囚人道路と呼ばれた。
囚人の二重刑罰が国会で追求され1894年(明治27)の廃止まで続く。

しかし、その後は民間会社が内地から騙して連れてきた者や外国人に
“同様”な労働を課し、大正昭和と引き継がれ、労働者をタコと呼び
“監禁”した部屋を「タコ部屋」と呼んだ。
タコ部屋とは戦前の道内から生まれた言葉なのである。

なぜタコと呼んだかも諸説あり、海の蛸(タコ)なのかも不明。
戦後の1946年CHQ命令で禁止し、1890年から続いたタコは消えた(表向き)
同年8月に起きた「真駒内事件」を機にであった。

開設時は明治維新後の内乱罪人が主で懲役12年〜無期の者を収監。
現在の主な収容は犯罪傾向が進む累犯で懲役8年以下の者。

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