■旭川市民集合Part119 [machi](★0)
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- 2011/04/06(水) 19:33:13
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サムライ部落と呼ばれていた場所には,戦前から住み着いていた人もいたが,
戦後に住み着いた人たちが多く,最大で60戸ほどにもなった。
その後,行政の立ち退き要請により,引揚者住宅や市営住宅等に転居し,
昭和48年には居住者はいなくなった。
だが,自動車解体を業とする2戸は旧住所を作業場・河川敷を廃車置き場として利用していた。
昭和49年から開建が業者に原状回復をもとめるも難航。
昭和58年,忠別橋拡幅工事と忠別川河川改修工事が日程に上り,移転を強く働きかけた結果,
業者は移転。
それから,忠別橋の工事はサムライ部落の所為で遅れたわけではなく,
工事開始に間に合わせてサムライ部落が撤去されたというのが本当。
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