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  • 1
  • 名無しさん@おーぷん
  • 2014/06/01(日) 23:02:29
大東亜戦争はこれだよな!!
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  • 208
  • 名無しさん@おーぷん
  • 2014/06/16(月) 19:50:16
拝読させていただきました
とりあえず話の腰を折るのも悪いので、ご報告だけ
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書き留めが遅れてます。
すいません。

地理的表現で少し迷ってますが、今しばらくお待ちを…
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  • 210
  • 名無しさん@おーぷん
  • 2014/06/18(水) 02:24:55
>>209
お暇な時、ゆっくりでいいですよ
こちらは「読ませていただいている」立場でしかありませんので
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  • 211
  •  
  • 2014/06/18(水) 18:37:53
いっちさん、問題ないですよ
自分は読むのにものすごく時間がかかってます
無知すぎて、
勉強しながら読まなくてはいけないのでw
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お久しぶりです。
この休みで書き留めて一週間で小出しにします。

※少し地理的な説明を挟みます。
このあと汽車でラングーン(現在のヤンゴン)からサジを経て第二野戦病院があるカローに到達します。
カローからはインパール手前まで徒歩での行軍になります。
Yahoo地図を参照すると解りやすいかも。

サジはラングーンより東のシッタン河沿いに北上500kmくらいのところでビルマのほぼ中心マンダレーより南に100km、すぐ西側にメイクテーラがあります。
このサジより東側100km弱にインレ湖があり、北東部にタウンギー、西側にカローの街があります。
このカローの地に第二野戦病院が設営されます。

作戦命令の後、カローからメイクテーラを北上、ミッタ、マンダレーまで北上。
ここから西にイラワジ河を渡り、サガイン、モンユワ、イエウまで鉄道路沿いに北へ、
また西に陸路をとり、ピンギャン、チンドウィン河を渡りカレーミョまで、更にティディムから北上し、インド領に入りチュラチャンプール、モイランの西側にあるライナマイまでが往路です。
500km以上の行軍です。
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  • 213
  • 名無しさん@おーぷん
  • 2014/06/21(土) 20:20:23
スレを上げてくれないとわかんないよw

おじいさん、輜重部隊みたいだったから、ラングーンとかマンダレーなどの後方の安全地帯の辺りに居たのかと漠然と考えていたんだが、
ちゃんと前線にまで行ったんだなぁ・・・

前線で輸送を司る輜重隊って事は、それはそれで大変な労力だったんだろうね
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>>213
ネットの地図でも出てこない地名があるので、予備知識として
>>212を活用ください。

では続けます。
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ここで二ー三日を過ごして、ラングーンから汽車でサジ経由カローへ行くこの汽車はマキを焚いて走る蒸気機関車、飛び降りて又飛び乗れる位の速力で、駅へ着くと出発迄が又長い。サジからカローへは山間で、橋も鉄ではなく木橋だったのも、当時は物珍しかった。カローは英国人の避暑地だったそうで、高原地帯は松林、それも大きいのは目通り五尺がらみのもあり、その中に、煉瓦造りの元イギリス人の家屋、学校等が点在して居り、家の周囲にはバラがよく植えられてあり、年間殆ど花が絶えることがない、桜もあり春には桜の花も見られ、秋にはコスモスの花も咲き乱れ、内地とあまり変るところがなかった。
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我が第二野戦病院の病院は元学校の跡で、その周囲のイギリス人の家屋へ衛生兵が班単位に入り、我々行李(輜重)の者は柱も床も竹の材料で、周りをアンペラで囲い、床は竹を並べた上へアンペラを敷いて、屋根はテッケといって椰子(主にサトー椰子)の葉チークの葉等を竹のヒゴへ編みつけたものを並べて、葺いたものである。班の編成は三十名位で、班長の他最古参兵が各班に八ー九名位居て、この人達は支那の徐州で(※中国の南京あたり)内地帰還に洩れた人達で、班長以上に巾をきかせて居たものである。そんなヤケ気味のところもあったのか、我々初年兵にも当りが凄く、同年の田辺(※仮名)なんかは食事当番の時、班長へ持って行く(班長は別室)飯や汁へ古参兵がツバを吐きかけ、田辺が躊躇して居ると、何を愚図々々して居るとビンタをはられた事もある。そんな嫌な思いが、今だに戦友会へ顔を見せない田辺を、そうさせて居るのかも知れない。
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八月になって持病の痔がとうとう駄目で、入院手術。この手術が小林軍医の執刀で、一時間四十分かかって、手術が終わると同時に麻酔がきれて痛みに堪えかね、パピ(麻酔薬)を打って貰って、眠ってから楽になった。二十日程入院したが手術後、最初の便通の時には全く苦しく、これが死ぬ苦しみというのかと思った、と同時に二度と痔の手術はご免だと思った。この入院中に次女が疫痢(赤痢菌)で、死亡したとの便りがあった。(※この5ヶ月まえに私の母親が生まれている)子供の病気が心配で、具合の悪い時は直ぐ医者にかかるように、くれぐれも言い置いて来たのにと残念だった。が今思うと身代わりになって呉たのか、と思うと尚更可哀想である。
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九月になって愈々(※いよいよ 本文では漢字の「リ」の部分が「くく」)ウ号作戦開始カローを後にイラワジ河(ビルマ中央を流れる重要河川)も無事に渡河して、アラカン山脈(※ビルマーインド国境間の山脈)の上り口シーン(※カレーミョより数キロ西側)迄行くのであるが、その途中、一晩ビルマ人の牛車で行動したが、夜なので牛車へ仰向けに寝て、腹の上に毛布をかけて、寝冷えを防いだのであるが、ビルマの夜は冷えるので、防ぎきれなかったのか、翌日になって下痢をし、しかも栗田さんと廐(※うまや)当番、もう一時間に何回という便所通い、とうとう大腸炎で入室、朝晩エメチンを尻へ打たれ、梅干とお粥でやっと恢(※かい)復、入室から二十日、シーンから愈々山道、アラカン山脈を越えインパールへ通じるのであるが、所々に英印軍が建てたのであろう道標がある。インパール南道道標○○○哩地点とあったと思う。シーンの近くで、二百八○哩地点とあったような気がするので、インパールシーンから三○○哩の距離かと思う。一番高い所がケネディピーク(※シーンより若干北)で、ここで一夜を過ごしたが、雨で敵が残して行った天幕へ入り、馬の鞍へよりかかって仮眠したが、とても寒かった。
翌朝富士山の八合目の高さと聞いて寒い筈だと思った。
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あちこちの壕に敵の残して行ったタバコ等が未だあり、喜んだものである。ミルク等は歩兵が帯剣で、穴をあけて飲んで行って了うので無いが、ガロン缶大のコンビーフの缶詰などは、英軍が穴をあけて放置して居たものである。乾燥玉葱、石ケン等もあって大いに助かった。途中道端に二十センチ位の長さの棒状の紙包が沢山積み重ねてあり、馬をひき乍ら、何だろうと皮をむいてなめてみたが、甘酸っぱい味の羊羮のようなものであった。あとでこれがダイナマイトであると知って驚いたものである。
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インパールより十二、三マイル手前のライマナイへ着いたのが、五月七日(七月十三日の撤退迄、六十八日間の居つくばかりであるから)着いて先づ付近の屋根(内地のカヤ葺きのようであったと思う。住民は逃げてしまって居ない)をはがして来て、片屋根式にして屋根を葺き、地面には同じカヤ類を敷き、其の上に毛布を敷いて三、四名宛分散して陣取った。ここは大きな木(楠、椎等のような)が天を覆いその下に小さい木が立って居り、二重遮蔽となって、飛行機からは絶対見えなかった。小兵は先輩の栗田さん、池田さんと三人で、このお二人にはよく面倒を見て貰った。何しろ年は上だが動作は至って緩慢、お二人にすれば、年が上だから怒鳴りつけるわけにもゆかず、随分厄介者だったに違いない。こちらにすれば良い先輩にめぐりあって、命拾いをしたと思っている。
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ライナマイに着いてから三、四日過ぎてからは毎日々々の雨、ビルマの雨季である。内地の入梅と同じであるが、内地より雨が激しく、時折は日の射す時もあるという、この雨季が半年続くというのだからたまらない、この雨季をねらってわざわざ作戦を強行したのだから、無謀も甚だしい。マラリアにかかると脚気(※かっけ)になる。これに下痢が伴うと皆参いってしまった。それにアメーバ赤痢。何しろ野戦であるから便所もない、赤黒い粘液便がその辺到る所に雨にさらされて居る。よくも感染しなかったと不思議な位である。ここでの行李の仕事は患者の輸送である。夜になると馬へ毛布をのせロープで、鐙(※あぶみ)とシリガイ(※どちらも馬具)を作り、患者をのせて山を下り、一○キロ位の自動車道路の部落モイラン迄、一晩かかって行くのであるが、支那で押収したチャン馬で、キコー(背中の部分)が上っていないから、(※チャン馬は調べたけど解りませんでした)患者がつかまる所がなく、皆急坂を下るのに落ちて了う。戦傷の見習士官など、兵卒に怒鳴られ、泣きながら馬にしがみついて居た。
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※ちょくちょく「部落」という言葉が出てきますが、我々の地方では「部落」=「地区・集落」という意味で他意はありません。今の行政区みたいな使い方かな。関西の方々などは最初驚かれるようです。我々は普通に使う言葉なので、差別問題の授業で初めて聞いた時などは???先生何言ってんの???的な感じで全く想像も出来なかったし、むしろここ最近になってから意味が解った感じです。
なので部落という言葉に他意は無いです。念のため…
すみません話しを戻します。
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それに毎日の雨であるから、膝迄も入る程のドロンコ道、馬を曳く方も尻もちをつきながら、泥だらけである。患者を下した夜は、附近の住民が逃げて了って居ない部落の家へ馬ごと入り、ここで仮眠するのであるが、小さいブユのような虫が居て、防蚊面をかぶっても、その網を通して入って来てカユくて、とても眠れるものではなかった。翌日、日中は飛行機があぶなくて動けないから、家の中に潜って居て、夜になるのを待って山へ帰るのであるが、部落民が隠して置く籾(主に穴を掘って地中へ)を袋に入れて持ち帰り、それを鉄兜で搗いて(※ついて)食べるのであるが、搗いても籾ガラをあおって、籾拾いをしないと炊くまでにはならない。(※脱穀のことを書いています。普通の脱穀方法と変わらないのですが、日本米などは籾ガラと米を風で煽って分離させますが、おそらく実が小さく軽かったのか実と籾ガラの分離に苦労したと思われます)
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ライナマイに着いた初めの頃は、銃声も砲声もよくしたが、日がたつにつれ、段々下火というか、友軍の方はもう弾薬も尽きたらしく、砲声も一日に一回か二回、それも一発打つとそのお返しが五発も六発もある。谷間の向いの山がビシェンプール(※インパールの南20kmくらいか)とかで、この要塞が明日落ちる、明後日が総攻撃だと言って、とう落ちず六十八日居つくばって了うのであるが、よく向いの山から東京音頭、さくら音頭がレコード放送だろうがよく聞こえて来て、日本軍の降伏をすすめる放送がされて居た。
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同年の村田(※仮名)などよく小まめに動いた。そのせいかどうか、復員してから肺浸潤(※肺結核)で清瀬の療養所へ入り、不幸な人生を閉じた。又同じ同年の鯨井(※仮名)は、このライナマイで夜靴下のまま飛び出し、銃口を咽喉元にあて足で銃の引金を引いたのだろうか、それが額にそれて頭半分をえぐって自決した。我が幕舎の直ぐ近くで、夜中に銃声がし、つないで置く馬があばれたので、ローソクをつけて栗田さんと出て見たら、目の前に仰向けに倒れて居たのには驚いた。
(※鯨井は)カローで入院して居る時、酒保へ行って居たので、二回程カステラを持って来て呉れた記憶がある。(※祖父は晩年もカステラが好物でよく土産に持っていったものです)身体中入れ墨で、背中と腹にはヒョットコとオカメの入れ墨だったと思う。入れ墨なんかしている割には至って気が小さかったと見えて可哀想であった。部隊の演芸会には「ドヂョウすくい」が得意で、部隊の人気者であった。原因はマラリアか、何か熱を出して寝て居たかどうかはわからないが、なんでも班長におこられたのが、原因だといった記憶がある。(※この本で鯨井さんは不明者リストに入っています。御遺族が最期をご存知なのかが気になります)
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満州事変も今度の召集も一緒だった、隣り部落の杉田君(>>184)も七月初め頃か、入院して来た。マラリアから脚気になり、足がむくんで歩行も思うようでない、病院と云っても、野戦であるから、何もない、その辺の草を集めて、その上へ毛布を敷き携帯天幕を斜に木の枝から吊って、雨をしのいで寝ているほかない。食事と云えば飯盒の蓋へ米粒が、二、三十粒浮いている水粥である。マラリアの薬、キニーネは無く、脚気の薬は我々が鉄兜で籾搗をした時の米糠である。ここにはジャングル野菜もないので、患者達は我々が下の部落から持って来た籾を飯盒の蓋で炒って、一粒づつむきながら食べて居たのである。薬はなし、食糧はなし、病気になったらもう万事休す、杉田君も一週間位居たと思うが、状況(※戦況?)も悪くなって来、足のむくみもよくなって靴も穿けるから、モイランへ下るとの事で下ったが、あとで聞くとここで死亡したらしい。何しろ初年兵のこと、自分の事で精一杯米を分けてやる事も何も出来ない。二、三度見廻ったに過ぎない。このライナマイから下ってからと思うが、杉田君と同じ
輜重の(同郷の)出身と思ったが、小原(※仮名)は一人で馬を数珠つなぎにして、四、五頭曳いて居たのを覚えている。この小原も何処で倒れたか帰って来ない。
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  • 227
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  • 2014/06/27(金) 22:26:36
過酷だなあ......
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みんなROMってるでOK?
今のペースであと7~8日で終わります。
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昭和十九年七月十三日(内地のお盆の日である)とうとうインパールを目の前にして前進出来なくて、撤退ということのなって(勿論日中の行動は出来ないから)夕方、馬(愛馬南征(※という名前)、灰色のチャンバ)へ鞍下毛布(二つ折り二枚だったと思う)をのせ、ロープを廻したところへはじめて空襲(爆撃と機銃掃射)を食う。(六十八日間一度もない)、防空壕として巾三尺深さ三ー四尺位の覆いのない穴は掘って置いたが、水を払ってないから、膝位迄の水の中へ仕方なしに入って腰をかがめて、敵機の去るのを待って居る、幸い身は安泰だったので、堀から出て馬(南征)へ鞍を乗せようとして気がついた、毛布に穴があいて居る、毛布を二、三枚通して二センチ大と一センチ位の爆撃の破片が入って居た、毛布がないと馬のワキ腹に入ったにちがいない、毛布で食い止めたのである。毛布の強さをはじめて知ったのである。大きい方を記念に持ち帰ろうとして、栗田さんにそんな物持ってゆくんではないと、怒鳴られて棄ててしまう。

ここまで見た
鞍をのせて近くの広場へ集合(夕方で小雨)患者を乗せ、いざ出発という時になって、今度は砲撃、馬は驚いて馳け出す、患者は落ちる。タヅナを一生懸命握って馬を抑えようとしたが、何しろ小雨は降って居る地面は濡れて、しかも青苔か生えてツルツルである。転んでするびかれたが、とうとう逃げられる。飯盒も何処かへ吹っ飛んで了う、この時は全く生きた心地がしなかった。そこへ行李長が来て、これも頭へ来て居たのであろう。何を愚図々々してるんだとすごい剣幕で、鞘に入った軍刀で頭をぶんなぐられる。あたりは暗くなる雨は降る、砲撃は続く、ようやく馬と患者を見付けたが飯盒は見付からないので諦め、頭の上を砲撃が異様な音を立て乍ら飛んでゆく下をかろうじて脱出した。これから約一年終戦となる泰緬国境のアナクインに至る迄、退却の行軍が始まるのである(逃げる言葉の方が適切かも知れない)。次の日当たりであったろうか、インディアン部落へ行って(インディアン達は特有の水タバコなどを吸って居た)二、三の者が銃を構へ、他の者は食糧をかっ払って来たのを覚えている。手を合せて拝む姿が今でも目に写って可哀想であったが、こちらも生きる為には止むを得なかった。
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  • 231
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  • 2014/06/28(土) 21:20:49
はい、見てますよ
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インパール南道七十一マイル地点に、森田軍医の開設して居た患者収容所があり、はじめてマラリアの発熱する、ここで四、五日休養して馬の草刈などしたところ、又発熱をし、森田軍医が馬を置いてれとの事で、ここで南征と別れ、名前は忘れたが三名で徒歩でシーンに向っての行軍がはじまったのである。若干の米は持って居たが、これは最悪の時の為にとって置かねばならず、その場、その場で食糧は調達せねばならず、何もない時はジャングル野菜をゆでて、塩(岩塩)をつけて食べるほかはない。所によってジャングル野菜もちがうが、山こんにゃくの茎を随分食べた。アラカン山脈の中であるから部落は殆どない、たまに山の中腹に数戸の家があり、その部落民がトウモロコシを作って居り、これを盗みに入ると、死んだ日本兵の銃をとったのであろう、銃で狙撃されたこともある。仕方がないから生のトウモロコシを噛じったが、甘くてうまかった。それでも腹をこわさず、気の張って居る時は身体も違って了うものと見える。
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谷間の道を下るのであるが、平地と違って曲がりくねった谷間のこと、飛行機の音がしたと思ったら逃げる暇もない、見付かったら最後徹底して機銃掃射を喰う、自動車は見付かったら最後、燃え上る迄は去らないから、もうその頃は自動車は一台もない。夜行軍して明け方になって道端の草むらなどへ入って、日中を過すのであるが、草がなびいて道がついて居るので入ろうとすると、死臭がして入れない、死臭がしないで入ったと思うと虫の息の兵隊が必ず居たものである。道端の下水に兵隊が眠って居るのかと思い「オイ」と声をかけると、今死んだ者だったり、早い者は白骨化し文字通りの白骨街道であった。同僚の金本君も(※仮名)自分の靴が破れてしまい、道路で死んだ兵隊の靴を剥いで穿き換えて来たのを覚えている。
ここまで見た
※今更ですが、当時のことなので酷い描写があったり目を覆いたくなる内容があるので、ご注意ください。
私は原爆ものの本などは途中で気分が悪くなり完読したことがないので…

ここで退却の行軍です。
祖父の残した地図には敗走路と書いてあります。
基本的に最初の宿泊地のカローまでは同じ行路であり、
カローからはインレー湖の南から真南にタイ国境沿いを流れるサルウィン河に沿った街に野戦病院を開設しながら、泰緬鉄道の走っているタイ国境近くのアナクインまで向かいます。
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テイデム(※インドービルマ国境を越えて南進50kmくらいか)に来た時は、患者達が、松林の中にあちこちに居て、馬鈴薯程もある大きな松露を飯盒に入れて、歩いて居たのには驚いた。それでも食べる物のあったのはよい方で、馬糧だった大麦のザラ引いたのを人間の糧株に貰ったがこれを飯盒の蓋で炒って噛んで見たが、こればかりは飲みこめなかった。愈愈食糧のない時は馬を殺して、馬の肉をよく食べたものである。ガロン缶に下げるように手をつけてトロ火で一日も煮て居ると、コンビーフのようにやわらかくなり、それに塩をつけて食べたのである。
ここまで見た
曙村(※チンドウィン河を渡ってすぐ)の患者集合所へ着いた時は名前は忘れて了ったが部隊の者七名程で、ここで一週間に三人担いだのを覚えている。患者集合所といってもテッケ葺きの小屋があちこちに点在して居るだけで、衛生兵も一、二名は居たかも知れないが、相棒の戦友が具合が悪いからと云っても、薬がないからだろうが、誰も来るわけではなし、隣りの戦友が息を引き取っても、誰も葬って呉れる人もない。仕方がないから同僚か隣りの戦友がかついで、行くほかはない。
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同年で親しくして居た細田(※仮名)も、夜、便所へ起きて小屋の入口で○○と云って、小兵の名前を呼びうずくまって了った。マラリアで脚気を併発して居たと思うので、脚気衡心(※脚気による心不全)か(今でいう心臓麻痺か)脈拍を見て居たら次第に細くなり消えて了った、この細田も誰だったか名前は忘れたが、二人で穴の掘ってある所へ担いで行ったが、人間が縦に二人並ぶ位の大きさだから二間位か巾が六ー七尺位あったと思うが、その穴が 死体で山盛り、しかも蠅が真黒になってたかって居る、ここではあんまり可哀想だからと何もない、竹山(竹山といっても日本の竹山と違い竹が密生して株になって居りその株が点在して居る)の何もない所へ転がし、携帯天幕をかけて来た。自分も患者の身である、当時としてはそれが精一杯であった。この細田とは宇都宮へ上った時から気が合って、カロー駐屯中は細田は酒保に行って居たので、夜になると饅頭を持って来て、二人で班の外の暗がりでよく御馳走になった。宇都宮市内の出身である。(※茨城県)石岡出身の中川(※仮名)さんは向いに寝て居たが、もう意識もないのに心臓が丈夫だったのかなかなか死ななかった記憶がある。
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  • 238
  • 1 インパール31
  • 2014/07/03(木) 20:24:51
やっとシーンに到着して、本隊の来るのを待ったが、ここも食糧がなく、小屋の中から犬も射殺して食べた。ビルマは皆野犬であり、特に赤犬の方が美味いと云ったものである。漸く本隊が到着した時は、行李の馬が四、五頭、(※ライマナイ)出発時は約三十頭位と思う。日本馬は一番早く病気で倒れ、チャン馬(※中国の馬)は丈夫で粗食に堪え肉も落ちず一番戦争には適したと思うが皆途中で食べて了ったのである。
ここまで見た
  • 239
  • 1 インパール32
  • 2014/07/03(木) 21:01:11
テイデム(※インドービルマ国境を越えて南進50kmくらいか)に来た時は、患者達が、松林の中にあちこちに居て、馬鈴薯程もある大きな松露を飯盒に入れて、歩いて居たのには驚いた。それでも食べる物のあったのはよい方で、馬糧だった大麦のザラ引いたのを人間の糧株に貰ったがこれを飯盒の蓋で炒って噛んで見たが、こればかりは飲みこめなかった。愈愈食糧のない時は馬を殺して、馬の肉をよく食べたものである。ガロン缶に下げるように手をつけてトロ火で一日も煮て居ると、コンビーフのようにやわらかくなり、それに塩をつけて食べたのである。
ここまで見た
  • 240
  • 1 インパール32
  • 2014/07/03(木) 21:03:31
※間違い

敗退はカローを経て泰緬国境のアナクイン迄、ここで終戦の報を聞くのであるが、途中タウンタ(※メイクテーラ北西のチンドウィン河付近)近くのアヤドウでは敵戦車の襲撃に会い、行方不明者が大分出たが、おそらく戦死したであろう。小兵は幸い前の晩、本部の書類輸送で出発したので無事だった。この前日だったか敵のジープを分捕り、大西隊長と地図があった、タバコがあったとやっているうちに、敵の偵察機が飛んで来て、間もなく迫撃砲を打ち込まれ、伏せて居る囲りに破片の散る砂煙り、とうとうそれ迄大事にして居た、妻子の写真も入って居た背嚢を棄てて、銃と帯剣だけでやっと逃げ延びたのである。やっと夜になって咽喉が渇いて仕方がないので、近くの溜り水を汲んで、飯盒で沸かして飲もうとしたが、沸騰すると皆吹き出して了って、全く飲めなかった。翌日夜が明けて見たら牛糞まじりの泥水であった。
ここまで見た
  • 241
  • 1 インパール33
  • 2014/07/04(金) 21:28:39
次はメークテイラ会戦である。(※イラワジ会戦で検索)メークテイラ湖の辺に一晩中砲撃を喰い、この時も生きた心地がしなかった、幸い砲弾は伏せて居る後の湖の中へ落ちて、我々一同無事であった。漸く砲撃の下火になった明け方、縄田准尉の指揮下、メークテイラの飛行場でガソリンのドラム缶か、ボーン、ボーンと破裂する明りを頼りに脱出したのであった。
ここまで見た
  • 242
  • 1 インパール34
  • 2014/07/04(金) 21:46:49
カローを十八年の九月に出て、アナクインでの終戦迄、約二年、六十八日間のライマナイを除いては、殆ど毎日々々行軍である。一斗の米を背嚢に入れて山を登って下ると、一日という事もよくあった。登るよりも下りが足に来てよく杖をついて歩いたものである。部落を見付けて部落へ入ると、補充に寝ずの籾搗である。籾を搗いて丸い箕であおって、籾と米の選別が又大変であった。後からビルマ人にダー(※不明)でやられて死んだ者もあったと聞いて居る。
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  • 243
  • 1 インパール35
  • 2014/07/04(金) 21:47:57
行軍して居て鶏の鳴き声を聞いて、部落が近いと思って喜んだ事もあったが、それは野鶏(※=キジ)であって、道路へ出て牛糞馬糞の中の食べられるものをあさって居り、だまされたものである。よく飛んで普通の民家の屋根などへ飛び上り、樹上で夜を過すのである。又部落民の小屋へ入って休もうとしたら、無数のノミの襲撃ゲートル(※脛に巻く布)へ真黒になってハイ上って来たのには、驚いて逃げだした事もある。
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  • 244
  • 1 インパール36
  • 2014/07/05(土) 20:31:02
三十二才で召集され、三十六歳の復員迄、あとの補充がないから初年兵である。しかも輜重兵、作戦間は馬を一頭づつ当てがわれ、行軍中、小休止と号令が下っても、身体一つならその場で尻をついて休めるが、馬を持って居ると人間よりも馬優先、水飼いをしなくてはならず、山間の場合など一粁(※キロメートル)もあろう谷間へ下って行って、水囊へ水を汲んで来て飲ませなくてはならず、やっと水を飲ませ終るともう出発であるから、自分ら休む暇がない、馬では随分苦労もしたが、助けられたりもした。ライマナイに居る時など、下の部落から籾を持って来るにしても、馬がなくては到底運ぶことなど不可能な事であった、馬と云えば落下傘部隊に後方遮断された時などその後方に出るため一晩中馬の尻尾につかまり乍ら密林の中を、しかも急坂の上り下り「ヒヨドリ越え」とはこんな事かと思った事もある。途中馬を二頭位落したが、その転落する音が今でも耳の奥に残って居る。
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  • 245
  • 1 インパール37
  • 2014/07/05(土) 20:48:15
病気では一番苦しかったのが、泰緬国境のアナクインでのテング熱(※蚊を媒介とした感染症)である。薬はなし唯寝て居るより他にない、戦友に粥を炊いて貰って口まで持ってゆくのであるが、つき返して来てどうしても口に入れる事が出来ない。一週間そんな状態で居たら、日本が負けたとの報が入り、タイ国へ移動する事になったが、フラフラの状態でやっと汽車に乗りこんで、ナコンパトン(※タイ国・バンコクの西)に着いたのであった。
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  • 246
  • 1 インパール38
  • 2014/07/07(月) 19:38:18
いろいろ思い出はあるが、マラリア患者であろうか、川へあと一歩というところで、飯盒を手に持って息絶えて居た兵もあった。飢と病気でやっと水のありかに近づいて、いま一歩というところで力を尽きた兵隊、妻子もあったろうにと思うと不憫であった。
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  • 247
  • 1 インパール39
  • 2014/07/07(月) 20:00:53
カローを出てから約二年間、ライマナイの六十八日間を除いては、殆ど毎日毎日の行軍であるから、風呂(とは云ってもドラム缶の風呂であるが)は勿論水浴すら出来ない。だから肌着はシラミの巣であって、時折、飯盒で襦袢袴下等を煮沸して卵を殺したものであるが、何しろ飯盒であるから襦袢袴下別々でないと出来ない。
後方から何の補給もないから、トイレ(勿論野大)へ行ってもちり紙一枚、新聞一枚すら無い事も屡屡、止むなく木の葉で済ますのが普通である。
ここまで見た
  • 248
  • 1 インパール40
  • 2014/07/07(月) 21:12:51
※ラストスパートですたい。

敗退の途中衛生兵の菅井(※仮名)とは気が合って、よく行動を共にした。何処であったか場所は忘れたか、夜になると二人で近くにあった野戦倉庫へ忍び込んで、野菜類をかっ払って来て食べたこともある。復員して知ったが、その野戦倉庫には義理の兄が居たとの事だった。菅井とは死ぬ時はせめて畳の上で死に度いと、よく話し合ったものである。幸い二人とも復員したが、菅井は間もなく死んだそうである。畳の上で死ねたのだから、思い残す事はないかも知れないが、二人で語り合う機会もなく残念である。
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  • 249
  • 1 インパール41
  • 2014/07/07(月) 21:14:18
インパール作戦の犠牲者は十五万といわれるが、その殆どが病死であり、実際の戦闘で死亡したというのはその一割か二割ではないだろうか。雨季を目がけての作戦の強行、人間の生命の尊さを知って居たであろうか。軍部のうぬぼれが、遂に悲惨な結果になったと言わざる得ない。ビルマに居るうちに一度も友軍機と(思われる飛行機を)確認出来た事はなく、完全に制空権を握られても尚、戦争を強行しようとしたあたり、うぬぼれが如何に危険であり、恐ろしいかを実証したものといえよう。もう二度とあの悲惨な戦争はあってはならない。我々だけの経験で沢山である。
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  • 1 インパール※補足
  • 2014/07/07(月) 21:17:27
※手記は以上で終わりです。

以下は、タイ国国境付近のアナクインに至るまでの年表です。

昭和20年6月15日 泰緬鉄道によりアナクイン到着。宿舎建設と病院開設。

昭和20年6月15日 竹の家と筍の食事。マラリア、脚気、下痢患者多発。現在地死守の命、刺突爆雷訓練。(※戦車への特攻)

昭和20年8月15日 終戦。

昭和20年8月22日 アナクイン出発準備。

昭和20年8月25日 泰緬鉄道にて泰国ナコンパトン着。

昭和20年8月31日 兵器の引渡作業開始。

昭和20年8月31日 ニッパヤシの小屋にて収容所生活。初め野戦病院開設。約1ヶ月後兵站(※へいたん)病院に申送り、使役に出る。

昭和20年10月 日 演芸会、コックリさん隆盛。(※意味不明)

昭和21年1月1日 新年を祝す。

昭和21年2月 日 部隊全員健康診断。

昭和21年4月 日 帰国命令。マンゴーの青い頃。

昭和21年5月1日 バンコック港出帆。L.S.T.27(米軍上陸用舟艇)。

昭和21年5月14日 佐世保港上陸。

昭和21年5月14日 部隊解散。
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  • 名無しさん@おーぷん
  • 2014/07/07(月) 21:47:04
長々と書いてくださりありがとうございました
大変面白く拝読させていただきました
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  • 2014/07/07(月) 23:03:57
>>251
素直にありがとうございます。
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  • 2014/07/08(火) 07:52:07
いっちさん、お疲れさまでした
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  • 2014/07/08(火) 20:28:39
出来れば皆様の感想を聞きたいです。

3回目を読んだ私は、じいさんはやっぱりお茶目だなーです。
ダイナマイト舐めちゃうとかね~
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  • 2014/07/10(木) 22:48:32
インパールはいろいろと過酷だったとぼんやり聞いていたけど、
こうやってそこに実際にいた人の手記をみる事が出来てよかったです
戦闘以外のリアルな過酷な状況を少し知ることができました
食糧もなく、水もなく、衛生状態も悪く、命を狙われながら、援軍もない行軍が
いかに苦しいものであったか想像しかできませんが
今まで以上に先人たちを敬わずにはいられません
(適切な日本語がわかりません)
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  • 2014/07/10(木) 23:03:35
と、自分はインドと南米を旅行したことがあって
シラミ、ダニ、南京虫、蚊には随分苦しめられたので
それを思い出しながらお祖父様の手記に書かれていることを
重ね合わせて読んでいました
げっそりしました、気がふれそうでした。
自分は好きで行った旅行ですが、彼らは誰一人として
行きたくはなかったのだろうと思うと泣けてきました
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  • 名無しさん@おーぷん
  • 2014/07/13(日) 21:37:43
>>はっち
ありがとう

当時の過酷な状況下でも任務を遂行した先人を誇りに思って下さい。
かつ、一般人が任務遂行できたことを誇りに思って下さい。
むしろ、知らなかったもしくは知らな今の我々の無知を嘆いて下さい。

現在の東南アジアや欧米の日本の評価一つ取っても、現代社会に於いて日本を過小評価することはないと考えます。
教育や報道の問題が有りつつも、日本が平和な国家を作り上げてきたのは事実なのですから。

日本が本当の意味での大東亜戦争を集結させるのはこれからです!!

泣くのは今日だけ!!

日本が東南アジアと共にアジア開放で戦った事実は変わらないのですから。
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