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  • 名無しさん
  • 2014/03/30(日) 18:54:33
凸山凹吉さんは、ある都市の中堅バス会社の運転手さんで
勤続9年目の中堅社員で32才、優しくて料理上手の奥さん
と2人の男の子(6才と4才)がいます。
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  • 2017/07/21(金) 11:09:50
そして同日、国鉄の第一次整理が発表されたのである。
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  • 2017/07/21(金) 11:10:09
下山事件はその直後に発生した。総裁の死を誰もが他殺と考えたのは当然のことだった。
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  • 2017/07/21(金) 15:38:12
7月6日、午後1時すぎから東大法医学教室で総裁遺体の司法解剖が行なわれた。執刀は桑島博士、立会いは日本法医学界の第一人者と言われた古畑博士だった。
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  • 2017/07/21(金) 15:39:21
鑑定の結果、生きている人間が列車に接触した際に生じる「生活反応」がほとんどないことから「死後轢断」という結論が出された。いわゆる「古畑鑑定」である。
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  • 2017/07/21(金) 15:40:22
「死因は不明だが、死んだ後に轢かれた」...微妙な言い回しであったが、これは他殺を意味するものだった。
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  • 2017/07/21(金) 15:41:44
他殺説の根拠になりそうな謎の数々は、その後も次々と登場する。唯一の生活反応が局部に見られたこと(局部に生前に何らかの衝撃が加えられたことを意味する)、
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  • 2017/07/21(金) 15:43:08
遺体の下着に付着した大量の植物油の出所、靴に付着していた色素の出所、轢断現場の手前180mに点々と続いていた血痕の謎、総裁の遺体には殆ど血液がなかったこと、そして総裁が常に肌身放さなかったメガネは現場からついに発見されなかった。
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  • 2017/07/21(金) 15:43:36
遺体の下着に付着した大量の植物油の出所、靴に付着していた色素の出所、轢断現場の手前180mに点々と続いていた血痕の謎、総裁の遺体には殆ど血液がなかったこと、そして総裁が常に肌身放さなかったメガネは現場からついに発見されなかった。
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  • 2017/07/21(金) 15:44:38
警視庁特別捜査本部は頭を抱えていた。三越から現場に至るあちこちで、下山総裁らしい人物の目撃者が23人も出てきたのだ。その人物は五反野の旅館で3時間ほど休憩もしていた。また、総裁がGHQと労働組合との板ばさみの中で苦悩していた事実も浮かび上がってきた。
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  • 2017/07/21(金) 15:45:59
当初他殺説が圧倒的であった捜査本部は次第に「初老期躁鬱症による自殺説」へと傾いてゆくことになる。
自殺か他殺かという論争は、社会もまた巻き込んだ。マスコミでは朝日新聞を筆頭に各紙が他殺説を主張する中で、毎日新聞だけは自殺説を主張した。
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  • 2017/07/21(金) 15:46:59
東大の「古畑鑑定」に関しては、慶應大学の中館教授や元名古屋大学の小宮教授などから疑問視する声が出され、いわゆる「法医学論争」が巻きおこった。この論争は衆議院法務委員会にまで持ち込まれている。
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  • 2017/07/21(金) 15:48:12
また、しばしば言われるのが警視庁内で捜査一課が自殺、捜査二課と検察庁が他殺だったという図式である。
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  • 2017/07/21(金) 15:48:46
8月3日、目黒の刑事部長公舎で東京地検、警視庁各課、東大による最後の合同捜査会議が行なわれた。これは捜査本部が自殺の方向で結論づけようとした会議だった。だが世間を納得させるだけの材料もなく、東大の鑑定結果と異なる判断が、公式発表されることは決してなかった。
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  • 2017/07/21(金) 15:50:22
また、自殺の公表に関しては吉田内閣の増田官房長官から坂本智元刑事部長にクレームが入ったことが近年判明している。政府にとっては総裁の死が他殺であることは好都合だった。
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  • 2017/07/21(金) 15:51:12
というのも、総裁の死が日本共産党あるいは系列の労働組合の犯罪を匂わせることが、当時の労働運動の気勢をそぐためには大変有効な手段だったからだ。
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  • 2017/07/21(金) 15:52:40
日本共産党は自らにふりかかる火の粉を払うかのように自殺説を主張した(のちアメリカによる謀略説に変わる)。結果として労働運動は後退し人員整理は強行された。日本経済は安定基調にのり出し、翌年の朝鮮戦争特需により不死鳥のように甦ることになる。
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  • 2017/07/21(金) 15:53:31
そうした意味で下山総裁の死は戦後の歴史を語る上でも重要な役割を果たしたといえる。
合同会議後も「継続捜査」の形をとった事件捜査は、植物油や色素といった遺体への付着物に関する調査が中心となっていった。
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  • 2017/07/21(金) 15:54:52
他殺説には有力な根拠になるるかもしれない捜査であったが、12月をもって捜査本部は解散、その後の捜査もあいつぐ捜査員の転勤により自然消滅していった。
昭和25年、捜査本部から漏洩した「下山事件捜査報告書(下山白書)」が雑誌に掲載される。
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  • 2017/07/21(金) 15:55:48
警視庁捜査一課を中心とした捜査内容を記したこの報告書は、捜査本部の何者かが公式発表の代わりとして意図的に「漏洩」させたものともいわれている。
その内容は当然ながら自殺を印象づけるものだった。しかし後に朝日新聞の矢田喜美雄が「自殺に都合のいいことばかりをデッチあげたフィクション」と非難したように、この内容に懐疑的な者も多く、逆に自他殺論争に火をつける結果となった。
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  • 2017/07/21(金) 15:56:33
占領の時代が終わると、フタが外れたかのように様々な謀殺情報が入り乱れた。そうした中で最もセンセーショナルを巻き起こしたのが、松本清張の「日本の黒い霧(昭和35年)」に収録された「下山国鉄総裁謀殺論」だった。
清張は総裁の死を「行過ぎた進歩勢力を後退させるためのアメリカ軍によるの謀殺」とし、遺体の現場への運搬に占領軍専用列車が使用されたという大胆な「推理」を行なっている。
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  • 2017/07/21(金) 15:57:29
昭和39年、公訴の時効を目前にして、政府は日本共産党の要求に応じて東大の死体鑑定書の要約を公表する。その内容は「死後轢断」という周知のものであり、目新しいものはなかったが、他殺を裏付ける資料が公的に出されるという結果となった。
そして7月の時効成立を機に松本清張らによる「下山事件研究会」が発足する。会は下山事件を「現代史の中で歴史的な役割を果たした事件」と位置付け、東京地検に対する情報公開、事件に関する情報収集を訴えた。
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  • 2017/07/21(金) 16:00:10
その一定の成果として捜査報告書など事件に関する資料を集成した「資料・下山事件(昭和44年)」が出版された。出版直前の7月5日(失踪から20年目)会は日比谷において記者会見を行い「いまだ他殺であるという疑惑を払拭できない」という内容の声明を発表する。
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  • 2017/07/21(金) 16:00:55
自殺説を主張した書籍は、数少ないながらも毎日新聞記者の平正一「生体れき断(昭和39)」があった。時期は逆になるが井上靖は昭和25年に下山事件をモデルとした「黯い潮」を発表している。ここには自殺説を主張するいち新聞記者が登場するが、
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  • 2017/07/21(金) 16:01:19
これは平がモデルではないかと思う。
昭和45年には元警視庁捜査一課刑事の関口由三が「真実を追う」を発表した。実際に捜査を担当した人間が知りうる生々しい記録と自殺への確信が含まれているだけに、第二の「下山白書」ともいえる内容だった。
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  • 2017/07/21(金) 16:07:43
東京の蒲田駅と五反田駅とを結ぶ東急池上線に「洗足池」という駅がある。駅の前には都内でも屈指の広さを持つ洗足池が広がっている。江戸時代から風光明媚な名勝地として知られていたところだ。
こじんまりとした駅を降りて、池とは逆に商店街を進んでゆく。途中を左に折れて坂道を登る。閑静な住宅街をゆるやかに抜けて行く坂の中ほどに、その家はあった。
住所は大田区上池上町1081番地。家の主は下山定則。6月に日本国有鉄道の初代総裁に就任したばかりで、まもなく48歳の誕生日を迎えようとしていた。
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  • 2017/07/21(金) 16:08:51
昭和初期に作られたと思われる英国風住宅、彼はこれを昭和17年の春に購入した。購入の資金にあてられたのは裁判官であった父下山英五郎の遺産である。官舎暮らしが長かった下山にとっては初めての持ち家だった。
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  • 2017/07/21(金) 16:10:59
彼は自分の家が持てたことが余程うれしかったようで「俺の家には2階に風呂がある」と言って、いつも自慢をしていたという。
昭和24年7月5日火曜日、その日の朝、総裁はいつものように午前7時(当時はサマータイム制)に起床した。芳子夫人の話によれば、洗面所でヒゲをそった総裁は、起きてきた次男の俊次に「ヤアヤア」と朝のあいさつをしている。
総裁は居間で朝食をとる。味噌汁、半熟卵、お新香、そして2杯のご飯。その平凡な朝のメニューがおそらく生涯最後の食事となった。空にはどんよりと重い雲がたちこめていたが、久しぶりに朝から気温は20度を越え、むし暑い1日の予感があった。
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  • 2017/07/21(金) 16:12:33
もしこの日の朝、総裁が新聞に目を通していたとするならば、こんな記事が目に入ったはずだ。
朝日新聞はトップ記事で「第1次分に3万7百 国鉄、整理を通告」と、国鉄の人員整理が始まったことを報じていた。毎日新聞は人員整理のトップ記事に関連して「福島の空気不穏」と報じていた。
しかし総裁にとってとくに目新しいニュースなどなかった。人員を整理するという目的のために初代国鉄総裁職を引き受けたのは当の本人だった。そして昨晩遅く国鉄本社からかかってきた電話で、整理対象者による福島管理部での騒乱についても報告を受けていた。
目新しいニュースというものは、意外な場所にあるようだ。佐藤一「1949年謀略の夏」によれば、この日の共産党機関紙「アカハタ」には「吉田内閣などの挑発に乗ってストライキを行なうべきではない」という論説があるという。
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  • 2017/07/21(金) 16:13:57
人員整理に対抗しようとしていた国鉄労働組合左派にとっては、肩透かしを喰らうような論説だった。
これは「共産党の非合法化もありうる」という前日のマッカーサー声明に呼応したものだった。国労の急進派が強行策をとった場合、その巻き添えで党が非合法化されてしまうことを恐れたのだ。
きっと総裁がこれを読んだら小躍りして喜んだに違いない。
しかし、残念ながら総裁は「アカハタ」を定期購読していなかった。おそらく表紙さえ見るのも嫌だっただろう。
そして、この日は名古屋大学法学部に通う長男の定彦が夜、帰省する予定だった。朝の家族の話題はもっぱらそれだったという。いっぽう総裁自身に関しては、9時から国鉄本社において局長会議、11時からはGHQを訪問する予定があった。
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  • 2017/07/21(金) 16:15:12
9時からの会議は前日に連絡を受けたものであったが、GHQ訪問のほうは総裁自身がアレンジしたものだった。
さらに総裁にはもうひとつの予定があった。整理通告に関する国鉄労組からの交渉申し入れに対して、みずから回答をしなければならなかったのである。
同じころ、近所に住む歌手の淡谷のり子は営業に出るための身支度に余念がなかった。
この日は浅草国際劇場で行われる「テイチクショウ 歌う王座」の初日だった。ディック・ミネ、ベティ稲田、菊池章子、菅原都々子などテイチク専属歌手との競演による豪華ショーは、入場料120円、1週間の連続プログラムだった。
さらに夜8時30分からはNHKの人気ラジオ番組「陽気な喫茶店」に出演する予定となっていた。
前年発売の「君忘れじのブルース」が大ヒットした彼女にとって、昭和24年は久しぶりに忙しい年だったのである。
彼女がこの場所に住み始めたのは昭和11年のことだ。奔放なアバンチュール、フランスの名車シトロエン、洗足池の美しい風景、新築の洒落た洋館、そのどれもが彼女のお気に入りだった。
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  • 2017/07/21(金) 16:16:32
昭和20年5月25日の空襲は、この閑静な住宅街にも焼夷弾の雨を降らせた。淡谷の家も全焼した。愛する衣装、ピアノ、車、そして藤田嗣治、東郷青児、竹久夢路などに描いてもらった肖像画の数々、そのすべてが灰となった。
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  • 2017/07/21(金) 16:17:54
それでも彼女がこの地を離れることはなかったのである。
この日、全国に先駆けて浅草国際劇場で公開された映画がある。木下恵介監督の「新釈四谷怪談・前編」だ。田中絹代がお岩を、上原謙が民谷伊右衛門を演じた。
この映画は、幽霊を幽霊として扱わず、良心の呵責を持った人間のもたらす幻覚として描いた点で画期的だった。単に納涼が目的の観客に、とこまでそれが通じたのかはわからない。
だが、その後数日間の間、彼らが新聞やラジヲで見聞したことは、納涼の幽霊話より奇怪で衝撃的だったに違いない。
午前8時15分、大西政雄運転手の運転する黒塗りのビュイック41年型総裁専用車が自宅前の路上に横付けされる。ナンバーは41173。
平常であれば大西運転手も国鉄職員として制服を着用しているのだが、整理が始まる数日前に総裁から「制服では目立って危険だから、私服で出勤してくれ」と言われていた。背広を持っていなかった大西は、仕方がないのでジャンパー姿でハンドルを握っていた。
総裁はいつものように玄関に両足を投げ出して時間をかけて靴を履く。紐を解いて靴べらを使わずに靴を履き、そして紐を結ぶのだ。そしてその靴は同居人の仲村量平の手で「コロンブス靴クリーム」によって磨かれていた。
カバンと弁当の包みを抱えた総裁は、車に乗り込む。8時20分、車はゆっくりと発進し、自宅前の長い坂道を登っていった。
それが家人の見た総裁の最後の姿だった。
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  • 2017/07/21(金) 16:27:38
8時20分に自邸を出発した総裁専用車ビュイックが皇居前の和田倉門ロータリーにさしかかったのは8時45分ごろといわれている。所要時間25分。現在の中原街道の朝の大渋滞からは信じられない速さだ。
昭和24年当時、信号機はまだ少なく、主要交差点では必ず巡査が交通整理をしていた。これは余談だが、当時の巡査は官公庁の車(ナンバーの頭に41がつく)を発見すると、優先的に誘導してくれた。この妙な風習は昭和30年代前半まで続いたのだという。
当然ながら当時の道に渋滞というものはまったくなかった。むしろ走行の障害になったのは、電車の踏切や路上軌道を走るチンチン電車、そして自転車などの通行者ではなかったかと思う。
この日ビュイックが辿ったルートは文献によってまちまちだ。どうもこの日は「ぢゃ、和田倉門へ8時45分ってことで」といって、何台ものビュイックが下山総裁を乗せて洗足池から出発したようだ。この状況は和田倉門以降も変わらない。
8時20分:自宅出発
8時21分:中原街道へ合流(400m)
8時30分:五反田駅ガード下(3.5km)
8時32分:八ツ山橋(1.4km)
8時33分:第一京浜国道で品川駅前(0.4km)
8時36分:三田停留所交差点を左折(2.1km)
8時38分:日比谷通りで増上寺前(1.2km)
8時39分:御成門交差点(0.2)
8時45分:和田倉門ロータリー(2.8km)
参考資料
●捜査報告書より7月5日の行動
●捜査報告書より大西運転手の証言
●7月22日付け朝日新聞より大西運転手への独占インタビュー
8時21分 中原街道へ合流
下山邸前の坂を登りきったビュイックは左折して、池上線を月見橋で越える。そして現洗足坂上交差点で中原街道へと出る。当時進駐軍によって「Bアベニュー」と呼ばれていた通りだ。これを五反田方面へと右折する。
当時の中原街道は、片側2車線、都電の軌道もない広びろとした道路に出たビュイックは俄然スピードを上げ、砂埃を巻き上げながら疾走する。まだ植樹して間もない街路樹が頼りなさげに夏の朝日を照り返している。
間もなく南千束の交差点を通過する。「環状7号線(50thストリート)」とは名ばかりの片側1車線の砂利道が、交差点の南を真っ直ぐ平和島の国道1号線(現15号線)まで伸びていた。
この道が今のような形で開通するには、東京オリンピックまであと15年は待たなければならない。続いて東急大井町線の踏切を越える。時間によっては、例え日本国有鉄道総裁であろうとGHQであろうと容赦なく待ちぼうけを喰らわせた踏切だ。
中原街道はここだけ1車線になるため、ビュイックは減速する。踏切の右手に東洗足駅が見える。空襲による焼失後はバラック仕立てだったこの駅も2年後には旗ノ台駅設置にともない消滅してしまう。
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  • 2017/07/21(金) 16:28:36
当時の車にしては珍しく、ビュイックにはラジオが搭載されていた。当時の日本の道路事情で真空管式のAMラジオとは、機械好きの大西運転手もさぞかしメンテが大変だったろうと同情する。
選局ボタンは五連のブロック型でB-U-I-C-Kの5文字がそれぞれ刻印されていた。スピーカーはきらびやかなクロムメッキのフレームが施されたもので、チューナーの上にデンと据え付けられていた。下山総裁はこのカーラジオを自慢の種にしていたという。
従業員を整理する国鉄総裁という旨味の少ないポストに就任した彼が、満足していた唯一の「モノ」がこのラジオだったのではないだろうか?そしてこのラジオは後で重要な役割を果たすことになる。
「ラジオに合わせて時計の時間を合わせた」という大西証言から考えて、この日もラジオが車内に流れていたのだろう。ちょうどこの時間、NHK第一放送では「名演奏家の時間」が放送されていた。
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  • 2017/07/21(金) 16:29:21
ボストン交響楽団によるメンデルスゾーン作曲「交響楽第4番 イ長調 "イタリア"」が流れていた。第2放送では前日の再放送の「筝曲」である。ハイカラ好きの総裁の好みから考えて第1放送を聞いていたのではないかと推定する。
●あるいはWVTR(AFN TOKYO)かもしれない。
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  • 2017/07/21(金) 16:41:28
八ツ山通りを600mも進むと、右手の御殿山に新築まもない工場が見えてくる。小学校の木造校舎のようなその建物には「東京通信工業」と書かれていた。
東通工とは八ツ山通りを挟んだお向かいに、高輪の台地へと上ってゆく坂がある。その坂を300mも登ったところ(高輪南町)に、もうひとりの偉大な技術屋が住んでいた。国鉄工作局長の島秀雄である。
下山と島が出会ったのは、大正10年の夏のことだった。京都三高に在学中だった下山は、たまたま上京した際、友人の紹介で島と出会ったのである。
東京大学工学部に進んだ2人は、大学での席順が隣同士であるうえ、住まいも近所同士となった。当時下山は兄嫁の実家に下宿していたのだが、その高木得三家は島家から5分と離れていなかった(後年下山は高木家の次女芳子と結婚することになる)。
卒業後、島と下山は鉄道省へと入省し、下山は運転畑、島は工作畑を歩む。2人は昭和11年から2年近くにわたって鉄道省在外研究員の一員として、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカなどを視察している。このとき下山は島の誘いで南アフリカまでつきあわされている。
そのころ島は下山の社用車で出勤することが多かった。島は、国鉄幹部の当然の務めとして電車通勤をしようと下山に勧めるのだが、二日に一度誘われるので、たびたび同乗するようになっていた。
しかし、失踪前日の四日、下山は「明日は他の所を回るので出社は遅れる」と島に伝えていたのである。
明らかな事実は総裁を轢断した列車が皮肉にも昭和10年に島が設計した蒸気機関車D51だったということだ。
事件の翌年3月、島のプロデュースのもと初の長距離電車列車である湘南電車がデビューする。オレンジとグリーンのツートンカラーを身にまとった電車は、戦後復興の時代を颯爽と駆け抜けていった。そして湘南電車を実験台とした島は、新幹線を生み出してゆくことになる。
いっぽう東通工。この企業の実績を認めたのはアメリカのウェスタン・エレクトリック社。WE社はトランジスタの特許使用を認め、東通工は昭和30年にトランジスタラジオの発売を開始する。やがて、この会社は「世界のSONY」として成長を遂げてゆくことになる。
ビュイックがわずか数分で通り抜けていった八ツ山通りに、戦後の日本高度経済成長を支えた梁山泊現象があった。
8時32分 八ツ山橋
ほどなくビュイックは大きなカーブを描きながら八ツ山橋のたもとで第1京浜国道(Aアベニュー)へと合流する。
当時は品川駅のすぐ東側(現品川グランドコモンズ近辺)まで高浜運河が伸びており、海上輸送と貨車輸送の中継点になっていた。
潮の香りがここまで漂ってくる。潮の香りに混ざるように穀物の匂いが流れてくるのは、米軍の第71補給部隊の食糧倉庫(現東京水産大学)が並んでいるからだろう。

そのままビュイックは第1京浜を直進し、まもなく品川駅前を通過した。
8時33分 品川駅
この日の品川駅には緊迫した雰囲気が漂っていた。昨日発表された3万7千人の整理通告は内に秘めた爆弾だった。それに加えシベリアからの永徳丸第2次引揚者たちを東北方面へ送る列車が18時すぎに停車する予定だった。
シベリアでの抑留生活で赤化した引揚者たちは、京都駅で共産党員と合流し気勢を上げた。しかもそのゴタゴタで警察が検挙した共産党員の釈放を要求、引揚列車への乗車を拒否した。1700名もの引揚者が赤旗を振りながら駅前広場を占拠し、
駅長室まで押しかけて乱闘騒ぎを行ったのである。品川駅は復員列車の停車駅では共産党本部のある代々木駅に一番至近距離となる。駅での騒動ならまだしも、最悪のシナリオは代々木駅への回送を引揚兵たちが要求するというものであった。
「外憂内患」、これがこの日の品川駅の状況だった。
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  • 2017/07/21(金) 16:51:56
広い第一京浜をビュイックは進んでゆく、道路の中央には都電の軌道があり、品川駅と上野駅、品川駅と飯田橋駅を結ぶチンチン電車が行き交っている。
泉岳寺、札ノ辻を通り抜け、田町駅前を通過する。駅周辺は空襲による被災を免れ、古い家並みが続いていた。一瞬、甘い匂いがするのは右手に森永製菓のキャラメル工場があるからだ。人々は食生活の中に「甘味」というものをようやく取り戻しつつあった。
戦後4年が経過して食料事情は急速に安定しつつあった。5月7日に成立した「料飲店再開法」により、外食券食堂や喫茶店以外の飲食店も公然と営業ができるようになった。また酒類配給公団も廃止され、ビール会社の出荷や販売が自由化、6月1日からは各地にビアホールが復活した。
それまで医療機関に優先的に配給されていた氷も出回るようになり、この夏には街のそこかしこに「氷」「サイダー」と書かれた暖簾がぶら下ることになる。
ほどなく都電三田停留所交差点(現在都営三田線の三田駅のある場所=芝五丁目交差点)へとたどり着く。角には都電の三田車庫がある。ビュイックはここを左折して日比谷通り(引き続きAアベニュー)へと入った。
大西運転手は朝日新聞インタビューで「三田」というポイントについて触れている。この近辺には「三田」つく地名が数多くあるのだが、僕はこれを「三田停留所」と解釈した。
ところが、宮城音弥「下山総裁怪死事件」にはこんな記述がある。
「大西運転手は、いつも、広い道路を選び品川をまわってAアベニュー つまり、札の辻から御成門-田村町-日比谷というコースをとっていた」
「札ノ辻」とは三田停留所の300m手前の交差点だ。一読するとここを左折して増上寺前や御成門方面へと向かったようにも解釈できる。
ところが宮城はその直前に「Aアベニュー」と書いている。これは第1京浜と日比谷通りのことを指す占領軍用語に他ならない。そうだとすればこの文は「札ノ辻→(三田電停)→御成門」を意味することになり、札ノ辻自体は通過ポイントにすぎなくなる。
札ノ辻の引用元となったのは、おそらく毎日新聞の昭和24年7月20日づけ記事であろう。「三越までの1時間、5日朝の下山氏 あてなき疾走行路」と題してこんな記事がある。
東洗足-五反田-品川八ツ山-札の辻-御成門-田村町-日比谷と、大西運転手がいつも通る道であった
これは、7月17日に捜査当局が大西運転手に実際にビュイックを運転させて実地検証を行ったことについて、同乗した国鉄自動車係長木村守衛が語ったものである。
唐突に出てきた「札ノ辻」というポイントには、正直言って混乱させられる。他の文献にこのあたりのことを詳細に記したものがないからだ。
しかし、21世紀になってようやく3車線への拡幅工事を始めた札ノ辻ルートに対して、日比谷通りは当時から片側3車線と幅員が広かった。何よりも増上寺前や御成門方面に行くには合理的なルートである。
しかも、当事者である大西運転手は常に「点」でルートを語っている。しかもその「点」で曲がり角を表現している形跡がある。そうやって考えると、大西運転手の言う「三田」は三田停留所と解釈した方が自然だろう。
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  • 2017/07/21(金) 17:01:42
日比谷通りへと入ったビュイックは北上を続ける。芝園橋を渡り、8時38分増上寺前を通過する。
徳川将軍家の菩提寺であった増上寺。通りに面して朱塗りの三解脱門が威容を誇っている。緑が生い茂る境内は一見平穏そのものに見える。
8時39分 御成門
そこから200mほど進んだ御成門附近まで来た時である。
「佐藤さんのところへ寄るのだった」と、突然総裁が言い出した。佐藤さんの家に寄るのであれば御成門交差点を左折して、増上寺の裏手に回りこむか、Uターンをしなければならない。
「引き返しましょうか」大西運転手はそう尋ねたが、その時にはすでに交差点を過ぎていた。「いや、よろしい」と総裁は答えている。
佐藤さんとは当時、民自党の政調会長であった佐藤栄作のことである。総裁と同じ鉄道省出身の佐藤は、東京での住まいを転々としているのだが、当時の住所は港区芝三田小山町9番地。
これは現在の三田1丁目の西側付近となる。御成門からの距離は1.5キロ弱、Uターンをしてもわずか2・3分のところだった。佐藤さんの家に寄ることが、この場の思いつきなのか、失念していたことだったのかは、今だに不明だ。
生前マスコミ嫌いだった佐藤は回想録的なものを遺しておらず、唯一の資料が「佐藤栄作日記」である。しかしこれは昭和27年から始まっており、下山事件に関するリアルタイムの記述は捜査報告に収録された佐藤栄作の証言しかない。
「佐藤さんのところへ寄るのだった」この発言についてはあまり重要視されていないようで、 
矢田喜美雄が「登庁前にかなり時間的な余裕があったことを意味している」、佐藤一が「その予定もなく、別に緊急の用件が浮かんだわけでもなかったのだろう(下山事件全研究)」と書いている程度である。
「時間」と「用件」。これが数少ないキーワードだ。
殺されてしまった下山総裁の場合「時間」というものにこだわっていたと考えられる。
他殺説では総裁が情報提供者と三越で接触しようとして相手に拉致され、殺されたという考え方が一般的だ。情報提供者との接触には、当然時間の約束がある。それは「○時○○分頃、三越店内で会おう」、というような具体的な時間を明示したものであったはずだ。
「謀殺・下山事件」では占領軍情報機関員であった宮下英二郎の情報を紹介している。それによれば総裁自身が「9時45分に三越中央階段で会おう」と言ったことになっている。ちなみにこの総裁の場合、G2の姫路CIC(米軍防諜部隊)の二世将校たちに殺されている。
そうやって考えると御成門における総裁は、「佐藤さんのところへ寄るのだった」けど、三越で情報提供者に接触する予定があった。また、その間にやっておかねばならないことがあったのかもしれない。そんなわけで「いや。よろしい」という発言につながったことになる。
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  • 2017/07/21(金) 17:03:58
自殺した下山総裁の場合、総裁の心は揺れ動いていたと考えられる。佐藤に会うことが、さりげない暇乞いであったというのは考えにくい。むしろ考えられるのは、自殺すべきか悩んでいる人間が求める精神的な安堵ではなかったかと思う。
たとえば自分の進退や今後の処遇に関する保証を得ることで、ひとときの安堵を得ようとしたのかもしれない。格好をつけたがる傾向のあった総裁にとって、局外にいて政治力のある佐藤はまさにうってつけの相談相手だったと考える。
この時期の総裁は首切りだけのために就任した実体のない名誉職に嫌気がさしていたようで「政界に出る」といったり「機械工として1からやりなおす」といったりと、支離滅裂な発言を繰り返している。
仮に政界に出るにしても支持母体は国鉄ということになるが、すでに「首切り総裁」というマイナスの十字架を背負ってしまっている。また特定の故郷というものを持っていない総裁にとっては、支持地盤さえなかった。そのことを一番自覚していたのは総裁自身だったろう。
一瞬「佐藤さんに相談してみるんだった」と思いつき、次の瞬間には「どうせだめだろう」と自分で打ち消す。この振幅が最大になったとき、悲劇が起こったのかもしれない。
いずれの説にせよ、総裁は「いや、よろしい」と言った瞬間には、御成門の交差点を越えてしまっていた。それを地図であらわすと、まるで「こっちの世界」から「あっちの世界」へと一線を越えてしまったようにも見える。
翌6日の夜、司法解剖を終えた総裁の遺体は芝の青松寺に安置された。この寺は、御成門交差点の北西に200mと離れていなかったのである。
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  • 2017/07/21(金) 17:13:44
午前8時40分、丸の内の運輸省庁舎内にある日本国有鉄道本庁でも運命の1日を迎えようとしていた。
総裁秘書の大塚辰治は、時計の針がその時間を指したのを確認すると4階秘書室を出た。毎朝8時45分から9時までの間に到着するはずの総裁を迎えにゆくためである。
このビルは昭和13年に鉄道省庁舎として竣工した。地下1階、地上8階建て、のべ床面積61,000平方メートルという大きさは、当時日本最大の事務所建築だった。外壁は3階下端までが御影石、それより上階では淡い青色のタイルが貼られている。
巨大な上、タの字の形状をした庁舎ビルの廊下は、それ自体が迷路だった。歩いているうちに方向感覚を失った外部の人間がキョロキョロしている風景がしばしば見られた。そんな廊下を通って、大塚はビルの裏玄関へと続く階段を降りていった。
ビュイックが田村町(現西新橋)交差点を越えると、そこから先は別世界だった。空襲による被災をまぬがれ、構造的にも堅牢なビルの多かったこの界隈は、大半の建物が占領軍に接収されていた。
左手には内幸町の放送会館(現在の日比谷シティ)が見える。ラジオ放送開始以来、愛宕山から電波を送り続けていたNHKは、昭和14年にここへと移転してきた。
昭和20年8月15日には2階の第8放送室から全アジアに向けて終戦の玉音放送が放送されたが、その直前まで、終戦を反対する近衛師団によって占拠されていたことは数多くの書籍に書かれている。昭和24年当時、このビルの4階には占領軍の民間情報教育局
が入っていた。CIEはメディアを巧みに利用した民主化への教育政策を推し進めていた。そこはまた放送機材の最新テクノロジーに触れられる場所でもあった。最新東京通信工業の井深と盛田はここでテープレコーダーを聴かされて衝撃を受け、国産化を志したといわれている。
ビュイックがこの建物の前を通りすぎた時、第1放送では8時30分から45分まで「尋ね人」を放送していた。「もと満州黒河省の○○部隊におられたタナカさん、またはタナカさんをご存知の方はを日本放送協会の”尋ね人”の係へご連絡下さい」というやつだ。
安否を気づかう人々の悲痛な叫びがアナウンサーによって淡々と読み上げられていた。まもなく下山総裁自身がその「尋ね人」本人になってしまい、9時間後にはこの放送局から「行方不明」として報道されることになる。
まもなく左手に日比谷公園が見えてくる。松本楼は憲兵司令部の宿舎に、現在大噴水がある場所にあった野球場には「ドゥリットル・フィールド野球場」という看板が掲げられていた。
僕の想像では、この日ビュイックから眺めた日比谷公園はゴミだらけだったのではないかと思う。というのも昨日はアメリカの独立記念日だったからだ。
午前10時、皇居前広場で始まった独立記念式典では、第8軍司令官ウォーカー中将の指揮のもと1万6千の陸海兵が分列行進を行い、マッカーサーの閲兵を受けた。その行進は皇居前広場を出て、ブラスバンドの音を高らかに響かせながら、丸の内、有楽町に至る目抜き通りを行進している。
午後1時からは日比谷公園などでパーティやスポーツ、ダンスなどのイベントが催され、午後8時30分からは打ち上げ花火大会が行われた。当時の新聞が「自由の女神」や「ナイアガラ」などと書いているところからみると、本格的な花火大会であったようだ。
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  • 2017/07/21(金) 17:23:43
日比谷交差点を越えると、皇居のお堀に面して連合軍最高司令部(GHQ)のある第一生命館が見えてくる。重厚な御影石で覆われたこのビルは、地上部分が最高司令部、地下の4フロアが第一生命の証券等保管庫として使われていた。
この日、下山は午前11時にGHQを訪れる予定だった。国鉄職員整理の報告をするためであったと考えられる。このGHQが第一生命館のことを指すのか「CTS(民間運輸局)」のことを指すのかは今もって不明だ。同行する予定だった加賀山副総裁の証言が
まちまちだからだ。捜査報告によればそれは「CTSのヘブラー(GHQ労働課のヘプラーのことか?)」だし、昭和40年に松本清張ら「下山事件研究会」が行ったインタビューではCTSのシャグノン中佐もしくはGHQのエーミス労働課長代理となっている。
11時頃に第一生命館を再訪したならば、玄関に42年型キャデラック・リムジンが止まっていたかもしれない。その大きさでは他車を威圧する。フロント・バンパーには五つ星のプレートが取り付けられ、
車両後部のプレートには「USA-1」と書かれている。日本中に住む誰もが、この車の主を知っていた。連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーがこのビルに出勤するのはいつも10時過ぎだった。
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  • 2017/07/21(金) 17:26:37
この日のマッカーサーは、昨日やり残した仕事の続きをしなければならなかった。昨日の閲兵式では悪天候のため、空軍300機の閲兵がすんでいなかったのである。
果たして皇居前広場で強引に挙行したのか?それとも厚木飛行場まで赴いたのか?その辺についての記録は未確認だ。マッカーサーのキャデラックにかぎらず、日比谷通りのこの近辺はGHQ関係者の専用車が軒並み路上駐車をしていた。
さらに馬場先門前のお堀を渡る道路までもが駐車場として有効活用されていた。そんな中をバケツを持ってうろうろしている日本人たちは「洗車屋」だ。ここからは二重橋が正面に見える。戦前であれば日比谷通りを走る都電の乗客はこの位置で最敬礼をするならわしだった。
今や視界に入るのは聖なる橋ではなく、目の前にずらりと駐車する威圧的な外車の集団だった。人々は敗戦国としての実感をかみしめながら、馬場先門前を通過したに違いない。
そしてビュイックは和田倉門前へと達した。時に8時45分であった。
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  • 2017/07/21(金) 17:38:19
昭和24年頃の平日朝8時台、この近辺の交通状況はどんな感じだったのだろう?
●第1にこの近辺は当時の日本で最も自動車の交通量の多い場所だったのではないか。民間の車両だけではなくGHQ関係車両や社用車などが集中し、はては当時流行だった自転車による「輪タク」も走行していたはずだ。
●第2に交通整理の警官や信号機の存在である。当時は大きな交差点には必ず交通整理の警官などがいた。日本最初の3色信号機は昭和6年に銀座4丁目と京橋交差点ほか34ケ所に設置されていたそうなので、この近辺の主要交差点には信号が整備されていたのではないかと思う。
●第3に都電の存在だ。広い道でも中央2車線分は都電の軌道になっていた。この時間帯には各系統の電車が同一軌道に集中してきて2台3台と数珠つなぎになって走行していたと思う。現在の都営バスを想像すればよい。並走する分にはいいが、目の前を横断された日に
は大変だ。また、この近辺には都電が交差したり、右左折をする場所がいくつもあった。鍛冶橋、呉服橋、京橋、日本橋、本石町(現宝町三丁目)などがそれだ。ある意味では信号が完備されて、三車線走れる現在の方が余程走りやすいのではないかと思った。
●第4に自然渋滞について。このルート上で現在、平日に最も混雑するのは、銀座通りの日本橋交差点と京橋交差点の間であると思うが、これは高島屋日本橋店があることに関係が大きい、当時渋滞があったとは到底考えられず、
信号などで停止を喰らわない限りはスイスイ走れたのではないだろうか?
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  • 2017/07/21(金) 17:40:56
●第5にはビュイック固有の行動だが、当時の車の性能もあったかもしれないが、大西運転手という人は、制限速度40キロをきっちり守るような人だったのではないかと思う。正確に守っていなければ、もっと早いペースになっていたはずだ。
総裁に「もっと早く走れ」と怒られた話や、5時まで律儀に総裁を待ちつづけた話などは、大西運転手の面目躍如というところである。三越に到着した時間だが、捜査報告の大西証言(9時37分ごろ入店)よりも、
朝日新聞の大西証言(9時30分ごろ到着)を優先させた。千代田銀行本店からの距離を考えると、三越日本橋本店までは5分程度が妥当だからだ。
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  • 2017/07/21(金) 17:45:10
NHKの第1放送では、ちょうど「尋ね人」が終わって「子供の音楽」が始まった頃、ビュイックは和田倉門ロータリーへとさしかかった。
捜査報告書では「東京駅前ロータリー」と書かれている場所だ。我々はつい東京駅丸ノ内口のロータリーを想像してしまうのだが、正式には「和田倉門ロータリー」が正しい。
このロータリーは昭和9年ごろ設置された。当初道路に線が引いてあるだけの単純なものだったが、次第に東京の表玄関にふさわしい存在として、複雑化されていった。昭和24年当時はロータリーの中央を都電の軌道が南北に、行幸通りが東西へ貫くという特異な形をしていた。
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  • 2017/07/21(金) 17:50:30
非通行部分を緑化し、道路の真中のオアシスと化していたが、深夜、照明の少ないこの道を傍若無人に飛ばしまくる車にとっては、恐怖以外の何ものでもなかったはずだ。
右手には東京海上火災の重厚なビルが見える。戦前まで実兄の下山英種が勤務していたビルである。当時は接収され、婦人部隊の宿舎として使われていた。
いつもであれば、ビュイックはここで行幸通り(Xアベニュー)へと右折して、東京駅方面へと向かう。そうすれば国鉄本庁は目と鼻の先だった。
ところが総裁は、大西運転手に言う。「買い物がしたいから三越へ行ってくれ」

ここで初めて明確な指示が出る。大西運転手は、とっさに最適なルートを判断し、そのまま直進する。
この瞬間、総裁は大西運転手に対して3分の2の確率でウソをついている。3分の1は自殺の場合だ。でも「自殺がしたいから三越へ行ってくれ」と言う人間はいないだろう。
次の3分の1は他殺の場合だ。「情報提供者と会いたいので三越へ行ってくれ」。そんな秘密を大西運転手に明かす必要もあるまい。
残りの3分の1も他殺の場合だ。総裁はほんとうに三越で買い物がしたかった。そして、その最中にとつぜん何者かにピストルを突きつけられて、そのまま拉致された、というのである。
三越へ行くのに「買い物がしたいから」という言葉をわざわざ付け加えるというのは、言い訳がましく受け取れられなくもない。
捜査報告書そのままに総裁がしゃべったのかどうかは、今となってはわからないが、言葉どおりに解釈すれば、そうなる。
午前8時45分 国鉄本庁
同じころ、国鉄本庁の裏玄関まで降りてきた総裁秘書の大塚辰治は、総裁専用車が来る方向を凝視していた。
ちょうどその方向...本庁と十字路を挟んで北西にはには100メ-トル四方もあろうかという大きな人工池が見える。本来ここには新丸ノ内ビルヂングが建設されるはずだった。だが、戦時中の物資の欠乏は工事を中断させた。地下を堀削した跡は水で満たされ、防火用水池となっていた。
ビルの日影にあった裏玄関は、池を通り過ぎた風が吹き込んでくる涼しい場所だった。しかし今日は微風すらなかった。
新丸ノ内ビルヂングは3年後の竣工を目指してまもなく工事が再開される。もしそうなれば、朝のわずかな時間に清涼を楽しむことすら、このビル街からは失われてしまうのだろう。
午後8時45分 大手町交差点
大西運転手は、300m先の大手町交差点で永代橋通り(Wアベニュー)へとビュイックを右折させた。彼は総裁が「今日は10時までに役所へ行けばよいのだから」とつぶやいたのを耳にしている。大西運転手は総裁のスケジュールを詳しくは知らない。
だから「今日は9時から重要な局長会議があるんじゃないですか?」とは言わない。いっぽう総裁は前日に知らされていた予定時間の9時を10時と勘違いしていたか、ハナから会議に出席する気はなく、言い訳のように独り言をつぶやいたかどちらかだ。
いずれにせよ、この時点で「スケジュール」というものは総裁の頭の中にしかなかった。毎日のように予定を書き込んでいた総裁の手帳は6月28日時点で途絶えていたのである。そこには走り書きで次のように書かれていた。
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  • 2017/07/21(金) 17:50:54
「エーミス(GHQの労働課長代理)に叱られる。決裂のチャンスをつかめと言われた」
早稲田車庫から州小川町を経由して州崎へとゆく都電軌道と並走しながら、ビュイックは東へと向かった。
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  • 2017/07/21(金) 17:56:32
大手町交差点を右折したビュイックは国鉄の呉服橋ガードにさしかかる。数多くの「下山本」の中で「東京駅北側のガード」と呼ばれているところである。まさにこのガードをくぐろうとした時、「白木屋でもよいから真っ直ぐにいってくれ」と、総裁は言った。
当時このガードから250mほど進むと外濠があった。このお堀を渡る橋の名前が呉服橋である。そして呉服橋の対岸で永代橋通りは外濠通り(5thストリート)と交差していた。
総裁は三越を利用する場合、三越南口駐車場にビュイックを駐車させて買い物をするのが常だったが、ここにゆくには外濠通りを左折するのが近道だった。いっぽう白木屋百貨店(のちの東急百貨店日本橋店)は永代橋通りを「真っ直ぐ」進んだところにあった。
つまりここで総裁が言わんとしているのは、「白木屋でもよいから(外堀通りを曲がらないで)真っ直ぐにいってくれ」という意味なのである。
午前8時48分 日本橋交差点
永代橋通りは、日本橋交差点で銀座通りと交差する。
銀座通りには上野公園行き、南千住車庫行きなど何系統もの都電が走っていた。おそらくこの時間帯も、何台もの電車が数珠つなぎになった状態で進行していたことだろう。
当の白木屋百貨店はといえば、この交差点の北東の角にあった。大西運転手が店の方を見るとまだ扉が閉まっている。そこで「まだ開店していませんね」と言うと、総裁は「うん」とうなづいた。そこで大西は左折し、当初の指示通り三越百貨店本店へと車を向けた。
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  • 2017/07/21(金) 18:05:53
「白木屋でもいい」
なぜ、総裁は三越ゆきをやめて白木屋百貨店に行こうとしたのか?松本清張は「日本の黒い霧」の中で点と線とを結びつける。「白木屋でもいい」という言葉が「三越でも白木屋でも用が足りるという意味らしい」と前置きした上で、
2つのデパートが地下鉄でつながっていることを指摘している。白木屋のある日本橋駅からは三越前駅まで地下鉄銀座線でひと駅だ。清張はその行為を「運転手への気配り」つまり情報提供者との三越での接触を秘匿する目的があったとしている。
いっぽう自殺説論者では、この言葉に一歩踏み込んだ見解を入れている者はいない。それは、失踪の手段として日本橋駅を利用するか三越前駅を利用するかの違いに過ぎないと判断したからだろう。
関口由三は、昭和45年に著書「真実を追う」の中で、捜査一課は失踪後の足取りについて白木屋の捜査も行なったが、目撃者は一人も現れなかった。この百貨店の中には全日本通運という会社があって社長の早川慎一は下山総裁の知人だったそうだ。
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  • 2017/07/21(金) 18:10:18
関口氏は元捜査官の立場から自殺説を唱えたのだが、この本が原因で松本清張と大ゲンカをしている。買物途中で誘拐され、殺されてしまった総裁の場合はどうだろう。「白木屋でもいい」というのは、
白木屋でも三越でも買えるような商品を購入する予定があったことになる。この日、白木屋では各宗派の仏壇仏具のセールを行っていた。三越では235円もする岐阜提灯が白木屋なら190円で買えたのである。
ご先祖の供養を欠かさなかった総裁は、今朝の朝刊の片隅にあったこの広告を見逃さなかったがために、みずから仏壇に入ってしまったのかもしれない。
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