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  • 2013/09/13(金) 19:03:35
>>257
町の成り立ちを考えると、江戸時代、鳥取は池田家(鳥取藩)の城下町であったため、
因伯両国(現在の鳥取県)の要として発展した。
その後明治時代になっても、島根県に併合されていた一時期を除き県庁が置かれ、
県内で最も発展することに不思議はない。
一方、江戸時代、鳥取藩は家老に藩内の重要な拠点の町を委任統治させた。
これを「自分手政治」と言うが、対象となったのは米子、倉吉、松崎、八橋、
浦富の5ヵ所で米子・倉吉を荒尾氏、松崎を和田氏、八橋を津田氏、
浦富を鵜殿氏が統治した。このうち米子の荒尾氏は筆頭家老である。
つまり、当時から米子は鳥取に次ぐ町として認識されていたと考えられる。
倉吉が不幸であったのは、中心市街地が内陸にあったため、
古来の往来道である山陰道から外れていたこと。
現在でも中心市街地は国号9号線やJR山陰本線の路線から外れている。
このため海に近い平野部の開発が遅れ、人口や商工業の集積に限界があった。
なお、近年開発が進み宅地化が進んでいる旧羽合・北条との合併に失敗した
ことも今後の倉吉の発展に影を落としている。

ここまで見た

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