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  • 2013/07/27(土) 14:23:35
会津屋は松原にあったんだよ。

明治になって還暦を越えた息子が大阪から全財産を浜田に持ち帰り、松原で造船し、
水夫を雇って東南アジアに出航した。
父八右衛門の夢を体現したかったのだろう。しかし、嵐で遭難し10名以上の死者を出したそうだ。
本人は生還を果たし、「祖父や父の苦労が少しわかりました」と漏らしたという。
松原の心覚院に記録があるはず。

天保年間に八右衛門の造った船は大阪で「阿呆丸」と言われるくらい巨船で見物客が絶えなかったそうだ。
船の大きさや帆柱の数の制限があるので当然御法度であった。西国の外様大名らは八右衛門に倣い密貿易で
冨を蓄積し、倒幕への下地を作っていったが、幕府は外様大名を取り締まるほどの権勢はなかった。

譜代大名である浜田藩の殿様は松平康任で筆頭老中であり、幕内で最も権力を持っていたが、
政敵である水野忠邦による追い落としの口実にされたのが、この八右衛門の密貿易であった。
松平康任は国替えに遭い、八右衛門らは大阪市中引き回しの上獄門晒し首。息子は大阪の商家へ養子に。
水野は筆頭老中に上がり天保の改革を断行し、一時的ではあるが蛮者の獄などの粛清と財政建て直しがなされた。

ちなみに、今の教科書だと「鎖国」という表現を止めている。
最近の資料だと、各藩が密貿易をやっており適切でないからだそうだ。

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