facebook twitter hatena line google mixi email
★お気に入り追加


■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

  • 1
  •  
  • 2012/02/12(日) 13:53:51.69
古の昔、関東から東北にかけて毛人(縄文人)の巨大な日本王国があった

この日本王国は大和朝廷が興るより早く衰退期を迎える
この文明が衰退した原因は急激な気候変動によるものと考えられている

日本王国は衰退の過程で複数の部族に分かれたが、その中で大和朝廷と婚姻関係を結ぶことで
有力豪族となった一族がいた、毛野氏(けぬうじ)族である

毛野氏族は、崇神天皇皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の子孫を自称している
が、実際の祖は景行天皇の孫である御諸別命(みもろわけのみこと)のようだ

毛野氏の勢力範囲は、両毛を中心として、常陸西部・武蔵北部に及んだ
この一族は武門に優れ、朝廷の命により東北の蝦夷を討伐し経営、朝鮮半島にも出兵している
勇敢な縄文の血を引く毛野氏族は、後に新田氏や足利氏といった坂東武士の誕生に大きな役割を果たすことになる

このスレはいまだ謎の多い毛野氏族を研究することにより、
「坂東武者1人は、よその武者8人に匹敵する」「武士の本場は坂東(関東)」と言われるほどになった
坂東武者の強さの秘密と幻の日本王国の全貌に迫ろうという壮大なスレである
ふるってご参加ください


ここまで見た
  • 694
  •  
  • 2014/08/19(火) 11:08:14.90
>>693
多治比縣守は征夷将軍
征夷大将軍の初見は大伴弟麻呂

ここまで見た
  • 695
  •  
  • 2014/08/19(火) 15:21:12.82
征夷将軍と征夷大将軍は、同じと解されている。

ここまで見た
  • 696
  •  
  • 2014/08/19(火) 15:37:10.05
司法卿と法務大臣は同じであろう。

ここまで見た
  • 697
  •  
  • 2014/08/19(火) 17:50:37.68
鎮東将軍とかその手の類はみな同じだろうな。

ここまで見た
  • 698
  •  
  • 2014/08/19(火) 18:33:45.96
征夷大将軍は、源氏オンリーではない。時々、藤原氏その他もいた。毛野氏は誰かなっているのか。

ここまで見た
  • 699
  •  
  • 2014/08/19(火) 20:39:02.05
宮将軍もおるで〜
毛野氏かぁ……紀氏ならおるんだけどなぁ(紀古佐美)

ここまで見た
  • 700
  •  
  • 2014/08/19(火) 21:38:53.28
支配層である上毛野、下毛野氏は豊城入彦に繋がる渡来系かもしれないけれど、
毛野国の原住民は、縄文系と言うより、旧石器時代からの現住民だろう。
その後入ってきた、新羅系や高句麗系の文化も藤原氏の支配もうまく吸収して、独自の文化に作り替えてきた。
武蔵六党に繋がる武士団の兵士も、元々毛野国人で、新しい文化を取り入れる適応力の高い種族なのだ。
ということくらい、みんな気がついているだろう?

ここまで見た
  • 701
  •  
  • 2014/08/20(水) 06:59:48.66
>武蔵六党

お前は何を言っているのだw
みんなに問いかけるより基礎から出直せwww

ここまで見た
  • 702
  •  
  • 2014/08/20(水) 08:58:24.95
アメリカの大統領選においては、勝敗が決すれば敗者は爽やかに敗北宣言をするものである。その後は勝者の意向で社会は動く。
毛野国(上野国)は少なくとも二度負けている。武蔵国造の乱と広人の対蝦夷戦である。戦後はいずれも朝廷が仲介役となり武蔵国主導で復興は進んだ。
したがって復興期において上野国は東国の盟主であろうはずもない。 夢多き旅人は遥か水平線の彼方に立ち昇る陽炎を見ているのかもしれない。
旅人の夢を壊してはいけないような気もする。しかし現実を直視することも重要だ。東国の盟主としての地位は、上毛野国や下毛野国の国造でなくなる以前に終焉していたのではないだろうか。

ここまで見た
  • 703
  •  
  • 2014/08/20(水) 10:56:35.71
>>698
奥州はおろか、朝鮮まで征伐した毛野氏が征夷大将軍じゃなければ
何が征夷大将軍というのか。

初代 征夷大将軍の田村麻呂は毛野氏の代役にすぎないだろ。
ということは豊城入彦命は初代征夷大将軍だな。
同時代の大彦もそうかもしれない。
源氏や平氏も影も形もなかった古代から弓矢で戦ってた軍事集団が毛野氏

ならずものの源氏は京都じゃ勇ましかったが、
辺り一面ならずものしかいない群馬栃木じゃ借りてきた猫みたいな存在でしたね。
東京でいきがってた不良が千葉や筑豊に行って学級委員として先生の言うことを連絡する連絡係で
大人しくしてたようなもんだな

もちろん衰退期は見る影もなく・源氏や平氏やその他氏族が強い時代も多々あるが
それらもすべて衰退したわけで
全盛期で比べれば毛野氏が最強過ぎる

ここまで見た
  • 704
  •  
  • 2014/08/20(水) 11:11:52.45
>>702
たしかに緑野屯倉は物部氏に取られたが
物部氏が群馬東部・栃木まで支配した形跡は無し
物部氏が東北征伐を命じられたこともない
ただ略奪しただけです。

所詮その程度の群馬・埼玉西部の勢力争いに過ぎない。

武蔵国造りの乱の後も毛野氏の支配面積は歴然として東国1位
はっきりと見える衰退期は750以降。

薬師寺造った正四位の大将軍下毛野古麻呂が死ぬのが709
大伴安麻呂も大将軍で、天武の側について大将軍を受けている
大将軍はそのランクの地位。東国では文句なしに1位だろ。

下毛野古麻呂が死ぬのが709で、750くらいまでは余裕で東国1位
700〜800に毛野氏以上の権勢をもった東国の氏族があるというなら教えて欲しいもんだわ。

紀古佐美は780くらいに征東将軍になってるが「東国に赴いた」とあるし
アテルイにやられてから即座に大将軍を解任されてるので

「紀氏は東国で1位の基盤を持っていた軍事氏族だった」といえるかどうかは非常に疑問
通り過ぎていっただけだな。

で800年代で坂上田村麻呂がまた「東国に来る」とか何度かある程度。
はっきり終わったのは平氏が荒れ狂った将門の乱940近辺だろ。
このときはさすがに毛野氏が1位とは言えない。
ただし板東平氏が毛野氏と血縁関係を結んでいるとすれば、「毛野氏子孫の乱が将門の乱」ともいえるので
負けた論にはならない。

ここまで見た
  • 705
  •  
  • 2014/08/20(水) 11:15:19.54
・旧日本軍=毛野氏
・自衛隊=板東平氏

旧日本軍→自衛隊で、毛野氏は別に負けてないので(東国ではアメリカ>>旧日本軍の戦乱はなかった)

「旧日本軍と自衛隊のどちらが強いか?」なんて世代が違うしそもそも戦えないし不毛な議論
海上自衛隊は日本海軍の子孫だしな。

板東兵士が一気に強くなってるのは、
板東兵士の戦闘集団が戦争を繰り返した毛野氏の地盤を継いだ毛野氏の末裔だからだろ。

ここまで見た
  • 706
  •  
  • 2014/08/20(水) 11:17:18.22
結局毛野氏は東国で勢力1位のまま
平氏・源氏がそのノウハウを受け継いだってことだな。

毛野氏と平氏はどちらが強いとか、どちらに負けたとかは不毛な議論。
将門系統の平氏は毛野氏の子供にすぎない。
「将門系統じゃない平氏」は毛野氏ではなく、これは平清盛の勢力

ここまで見た
  • 707
  •  
  • 2014/08/20(水) 11:37:11.93
>>703
あのな? 飽くまで律令制下における令外官としての「征夷大将軍」な?
他の人も言及しているが、征夷将軍、征東将軍、鎮東将軍もほぼ一緒な?
でよ、飽くまで「征夷大将軍」という名称の令外官について言えば、田村麻呂は
二代目なw 794年の大伴弟麻呂が最初だからw

ここまで見た
  • 708
  •  
  • 2014/08/20(水) 11:43:30.60
その794までに毛野氏がすべて下準備をして
ヤマト王権の領土を2倍に増やしたのに
後から来て反乱を何度か鎮圧しただけで
「定義上の征夷大将軍は毛野氏じゃない!」
って偉そうにドヤ顔されてもねー

天武にしても天智に使いっ走りにされた東国勢力がむかついて
天武側を武力支援したから天皇になれたんだろ。
東国にも九州にも嫌われた天智は畿内の兵力しか集められなかった。

ここまで見た
  • 709
  •  
  • 2014/08/20(水) 11:57:05.81
>>708
定義も何も、記録における事実がそうなんだから、ドヤ顔も何もw
まぁ下毛野古麻呂が正四位下式部卿大将軍が極位極官なのは
律令編纂への貢献と下野国河内郡を中心とする東国一地域の
安定へと資した結果であるんだろうけどね

東国関係なく大将軍って話なら、大野東人も大将軍に任じられてるね。

ここまで見た
  • 710
  •  
  • 2014/08/20(水) 12:11:23.87
大野東人は毛野氏ですけど? 新撰姓氏録』右京皇別

征夷は太平洋側の軍団
日本海側は征狄軍

毛野氏は東国・太平洋側の関東平野を平定したので
問答無用で初代征夷大将軍です。

「定義ガー」って何がいいたいの? ここは法律のスレじゃないんだが。

ここまで見た
  • 711
  •  
  • 2014/08/20(水) 12:17:01.57
百済末裔の坂上田村麻呂も、渡来系の毛野氏の縁者の可能性が高いし
(毛野氏が百済を平定してる 毛野氏遠祖の荒田別の百済派遣)

紀伊氏も毛野氏縁者だし、「要するに親戚が来ただけ」で、
完全に別系統の氏族に東国毛野氏がやられたことは1度もないな。
というかそんな血縁が一切無い無関係のやつが東国に来て毛野氏の兵士が従うかと

毛野氏以外への東国の軍事集団の支配域移転の議論がはっきりでてくるのは将門の乱940以降だな。

ここまで見た
  • 712
  •  
  • 2014/08/20(水) 12:31:58.80
「定義ガー」とか法律のスレじゃないんだが。とか
お話にならんわ^^;
『毛野氏は東国・太平洋側の関東平野を平定したので
問答無用で初代征夷大将軍です。』
って言うんだから、ソース=史料出さねーと単なる
妄想スレになっちまうぜ?w

ここまで見た
  • 713
  •  
  • 2014/08/20(水) 13:23:03.13
キチガイ相手に正論を主張しても徒労に終わるよ

ここまで見た
  • 714
  •  
  • 2014/08/20(水) 14:54:22.81
豊城入彦命が初代征夷大将軍とは全く思えない。あえていえば征毛人大将軍でしょう。また、東北には、かつてのドイツのように東西を隔てる壁があったわけではないので全て蝦夷と考えるのがベスト。
日本海側は越国の担当であったわけでもありません。すると初代征夷大将軍として名実共に誰が相応しいかが分かります。それは越国国司の阿部比羅夫です。比羅夫は649年に北方警護の責任者になりました。
斉明天皇四年(658)四月に第一回目の北征があり比良夫は、軍船108隻を率いて日本海を北上しました。以後、650年三月に第二回目の北征。660年に第三回目の北征伐があったとされています。
ここで注目したいのは比羅夫は、649年に国司(守)だったことです。毛野国や那須国では、689年まで国造でした。これは那須国造碑から分かります。つまり大化の改新制度の運用が北関東では、
越国よりも40年余り遅れていたことが分かります。また655年の朝廷における蝦夷の歓待は、比良夫なくしては語れません。本来であれば、初代征夷大将軍は懸守ではなく安倍比羅夫であったというべきでしょう。

ここまで見た
  • 715
  •  
  • 2014/08/20(水) 15:17:43.25
紀→毛野
紀国→毛野国
紀ノ川→毛野川(鬼怒川)

ここまで見た
  • 716
  •  
  • 2014/08/20(水) 16:03:58.39
かつてのドイツのように東西を隔てる壁=奥羽山脈

ここまで見た
  • 717
  •  
  • 2014/08/20(水) 16:28:50.93
毛野氏が憎たらしくてしょうがないキチガイが毛野氏をどんなにけなそうが
毛野氏の支配領域・軍事力・支配期間とも絶大だな。

ここまで見た
  • 718
  •  
  • 2014/08/20(水) 16:41:02.87
巨勢氏・安倍比羅夫について言うと思ったw

阿倍比羅夫がいくら北海道のヒグマよりは強いといって
日本の石高最大地域の上毛野・下毛野国を上回る軍勢は持ってないですよ。

畿内より美濃以東の方が軍団が強いのは天武が畿内天智に勝った通り。
そんで東国は「美濃より毛野国がでかい」
つまり毛野国が660当時、最大の軍団動員規模を誇る地域だと分かる。

上(下)毛野氏が兵力1万5000 美濃が7000 畿内の左大臣巨勢が5000ってとこだな。
北陸勢が1万だな。

越国守の阿倍比羅夫は軍船180隻とか言ってるので、1隻30人として兵力動員限界は5400。
上毛野は1万超え確実だからザコですね。

ここまで見た
  • 719
  •  
  • 2014/08/20(水) 16:43:47.50
>本来であれば、初代征夷大将軍は懸守ではなく安倍比羅夫であったというべきでしょう。
わかってねーw

だから日本海側の将軍は論理的に征夷大将軍になれないんだよ。
「北を指して北狄」
「東を指して東夷」

が「四夷」

北を攻める将軍は征夷大将軍にはなれません
北を攻める将軍は征夷大将軍にはなれません
北を攻める将軍は征夷大将軍にはなれません

アホかと。
東国を攻めた将軍だけが「征(東)夷大将軍」です。
だから初代征夷大将軍は豊城入彦命の系統だけを指します。

ここまで見た
  • 720
  •  
  • 2014/08/20(水) 17:08:43.62
このスレって文脈読み取れない類大杉だよな^^;

例えば
「東国関係なく大将軍って話なら、大野東人も大将軍に〜」
に対して
「大野東人は毛野氏ですけど? 新撰姓氏録』右京皇別」
ってアホかとヴぁかかとwww

大野東人が大将軍に任命されたのは藤原広嗣の乱、征討先も
東国関係なくって話だろうに^^;

知らずに出したのなら「東国関係なく」でなく「毛野氏」関係なくって
書いてるだろうに、(ノ∀`)アチャー

ここまで見た
  • 721
  •  
  • 2014/08/20(水) 17:15:30.89
出羽を集中的に攻めた将軍はいないのか。

ここまで見た
  • 722
  •  
  • 2014/08/20(水) 17:33:24.22
出羽はそれこそ阿部比羅夫が制圧したみたいな感じだけれど、
後の吉彦氏(吉彦秀武等)が毛野氏系統だから、早くから毛野氏が
入ってたんじゃないかな?
それと、太平洋側と異なって古くから海運で越等とも繋がっていたし。

ここまで見た
  • 723
  •  
  • 2014/08/20(水) 17:34:12.63
「毛野氏は大将軍だ」

>東国関係なく大将軍って話なら、大野東人も大将軍に任じられてるね。

他にも大将軍もいる 大野東人だ(キリッ)<毛野氏にいちゃもんつけたかった意図だな。

で、俺の反論が「大野も東国毛野氏です」。
----------------------------------
で、こいつは東国の毛野氏の支配領域と氏族の広さを理解せずに自爆というシナリオ
いまさら違うって弁解されてもなー。

東国毛野氏の一極集中説に文句言いたいために、毛野氏と一見違う「大野氏」を持ち出したんだろうが
「大野氏」についての調査が足りなかったね。
せめて毛野氏以外の東国の大将軍様をもちだすべきだったな。

まあ東国の将軍で毛野氏と無関係氏族なんてほとんど皆無だが。

ここまで見た
  • 724
  •  
  • 2014/08/20(水) 17:40:25.25
>>723ってキチガイでFA?

ここまで見た
  • 725
  •  
  • 2014/08/20(水) 17:44:54.80
田植え歌 
      那須の与一は 三国一の 男美男の旗頭   ♫ ♫

毛野氏の歌を聞かせてくれ
  

ここまで見た
  • 726
  •  
  • 2014/08/20(水) 17:52:19.51
毛野氏の伝承ってあるの?
700年代に滅びているはずだけど
那須氏は那須党として生き延びているからな

ここまで見た
  • 727
  •  
  • 2014/08/20(水) 17:53:53.08
こっちの伝承は武田信玄の部下の真田のせいでパッパラパー

ここまで見た
  • 728
  •  
  • 2014/08/20(水) 17:54:56.35
>>724
北方の方面の将軍を征夷将軍とか言い出してアホみたいだわ、大野を持ち出すわ。
そんで論理的に反論できなくなると「キチガイ」か?

俺もお前もキチガイでいいとして、お前は頭の悪いキチガイだな。

ここまで見た
  • 729
  •  
  • 2014/08/20(水) 18:01:49.02
>>728俺ロムってて>>724で初カキコなんだが・・・キチガイかは知らんけど
お前より頭悪いでいいよ別に
とりまちょっと前のカキコでキチガイ構うなってあったから確認したかっただけだし

ここまで見た
  • 730
  •  
  • 2014/08/20(水) 23:14:15.46
そもそも毛野国という統一国家は存在しなかった。
豊城入彦の孫?の御諸別が初めて東国に就いて支配したとされる15国は統一国家になったわけではない。
15国はそれぞれ独立した国(邑)であって、古代ローマのような共和制というか合議で決める部族連合だったのだ。
それを下野、上野、上総、下総、武蔵、相模と分けたのは、大和朝廷が唐風の国造を目指したからだ。

その中に、関東平野の交通を一体で支配していた交通氏族がいた。
それは、運輸省と逓信省の機能を併せ持ったような道の管理と情報通信の権限を持った有力氏族だ。
その子息は、舎人として都に出仕し、優秀なものは中央官人として登用された。それが毛野氏となったと見られる。
要するに、地域ごとではなく職能毎に権限を分散していたのだ。

現代とは、国のあり方そのものが異質で、素人には理解できないかもしれない。

ここまで見た
  • 731
  •  
  • 2014/08/21(木) 00:37:05.52
なるほど興味深いね。
網野さんも「領主」には、「道の領主」「駅の領主」といったものもあり、「土地の領主」的な視野のみでは、古代はおろか、中世以降においてさえその正確な実態を見誤ると力説してたな。
「イ就馬(しゅうば)の党」なんて完全にその手の交通・運輸面の特色が後代に受け継がれたものっぽいよな。

ここまで見た
  • 732
  •  
  • 2014/08/21(木) 02:59:32.90
運輸、逓信(通信)を得手とする職能集団っていうのは結構説得力あるかもね。
毛野氏が押さえていた域内圏内――毛野川水系から香取海の水運等を
掌握していた場合、大きな行政単位としての東山道筋も東海道筋も
押さえ易いだろうし。

ここまで見た
  • 733
  •  
  • 2014/08/21(木) 07:05:17.43
東山道沿いの沿線は美濃から東はすべて毛野氏だろ。
街道というのを全然理解してない。

「毛野氏が征服した功績」だから毛野氏の領地です。

ここまで見た
  • 734
  •  
  • 2014/08/21(木) 07:20:02.23
荷馬車・大八車・飛脚は、縁の下の力持ち。   武者は伝書鳩だ。

ここまで見た
  • 735
  •  
  • 2014/08/21(木) 07:24:25.15
伝書鳩は、奈良時代から。あ、そうか、もう毛野氏は、いなかったか。

ここまで見た
  • 736
  •  
  • 2014/08/21(木) 07:38:45.04
毛野氏の通信手段は、早馬、船、人が走るといったものだけではなく、
狼煙、鏡による光通信、太鼓や銅鑼、鷲や鷹、鳩、谷を越えて声で伝えるといったあらゆる手段を用いた。
毛野氏の営業区域なら、その日の内に伝達を終える能力があった。
しかも、在地の通信員が張めぐされており、忍び、日下と呼ばれていたものがそれに近い。

一部は、甲斐武田軍などに継承されたが、その情報伝達能力の高さを恐れた秀吉や徳川によって根こそぎ廃絶された。

ここまで見た
  • 737
  •  
  • 2014/08/21(木) 07:42:04.05
美濃〜〜群馬〜〜栃木 が10代崇神期
千葉〜〜茨城〜〜福島の手前まで13成務15応神期に出雲系や物部系やらいろいろ来てる。

地図で見れば分かる
宝亀2年(771)以前の東国の駅路 
http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/touzando-m/T-route.html

複雑に見える古代の東日本の支配者の乱立も、ルート上の区分けとしてみればいいだけ。

信濃方面から常陸の前までが毛野氏で
千葉南端から北上した連中とか、東海道をきた連中とか、
東海道(東山道)から埼玉方面に北上(南下)した連中とかがいるだけ。

何代の天皇のときに来たとかいうのがすべて。
10崇神から15応神までで残らずほとんど占領されてる。
毛野以外は巨大豪族ではなく、いろんな氏族がごちゃごちゃ来ている。

海上ルートを使ったと見られる天津彦根命が三重から相模〜茨城まで来ていて
これも一大勢力といえる。

これと
天湯津彦系が福島〜千葉ルートの北部
http://homepage1.nifty.com/moritaya/kokuzou3.html
天津日子根命系=茨城国造 が福島〜千葉ルートの南部
http://homepage1.nifty.com/moritaya/kokuzou2.html

をそれぞれ支配している

10崇神期までは太平洋側の東日本はほとんど来れてない。
13成務になって進出している。千葉とか茨城とか、古代は淡路島みたいなもんだし、これは海上ルートだろ。

ここまで見た
  • 738
  •  
  • 2014/08/21(木) 08:48:03.74
東海道五十三驛   作詞・作曲・唄 都々一坊扇歌

      御江戸日本橋サテ七つ立ち
      東雲烏か品川に
      川河崎と鳴き渡る
      ここは神奈川台の茶屋サテ
      泊まりには保土ヶ谷も
      戸塚まつたる旅人は
      大金玉の宿なれば
      泊まる座敷は八畳敷

今の茨城県大子町が常陸国になってる地図は使うなよな。依上保(大子町)は陸奥国である。扇歌の親父の出身地は、そのすぐ西側の那須郡武茂郷。
       

ここまで見た
  • 739
  •  
  • 2014/08/21(木) 09:42:51.49
今の茨城県大子町は、毛野氏か平定したかも知れないのに、そこに無頓着であるということは、大した仕事してねえんだろうな。
日本海側は安倍比羅夫、白河地方は那須氏、いわき方面は岩城氏が平定した。  毛野氏は、どこを平定したというのだろうか。

ここまで見た
  • 740
  •  
  • 2014/08/21(木) 12:27:54.84
>>733
この場合、街道としてのそれではなく、域内圏内(大まかな行政区分)。そこで重要なのが
香取海の水運等をどの程度掌握していたか、という話ね。
毛野川河口域を中心に北西沿岸は明らかに毛野氏の支配地域だし、運輸の一手段と
しての水運をも得手としていたなら、総国との交易はおろか、一定程度以上の影響力も
行使し得たはず。
実際、令制国として上総、下総(当初の上総は安房含む)が設置されている通り、総国は
域内圏内としては東海道になるけれども、その上総最初の国守(国司)は上毛野安麻呂。
(上総が親王任国になるのはそれよりずっと後ね)

ここまで見た
  • 741
  •  
  • 2014/08/21(木) 13:05:01.80
708年か。随分とのんびりしているなあ。その直前までは国造がいたわけでしょう。

ここまで見た
  • 742
  •  
  • 2014/08/21(木) 13:05:47.26
地形的に茨城方面は船で千葉から上陸して北上する必要があり
(関東平野は家康の時代より水浸し)

古代の茨城 巨大な汽水湖の香取海が広がる
http://www.town.shisui.chiba.jp/kanko/road_and_guidepost/innbanuma/innbanuma.html

崇神から数世代までの時代には進出できなかった。
その方面を攻略したのは数世代後になり、
毛野氏も入るだろうが、東海地方からも来て混合部隊みたいなもんな。

茨城県大子町?
ここは東山道から北回りで陸地で行けたかもしれないが
茨城南部とか千葉は完全に島状態で東山道からは遠すぎる。
地形が複雑すぎて茨城とひとくくりにできない地域。

群馬から利根川を南下して進軍したか
東海道から船で神奈川方面から北上したかは判断が難しいが
どちらにしても入り組んだ地形で難しい。

東海道からも東山道からも行ける、まあ南関東から千葉〜茨城にかけてはまだ研究が難しいな。
銘文鉄剣が2〜3本でないと分からないだろ。
毛野氏がほぼ確定してるのは例外に近い。

http://kenkokusi.web.fc2.com/kokuzou/5.html
系図を見ると毛野氏ではない畿内の豪族の建許呂命系統の氏族が神奈川から船?で茨城方面へと進んだのが推測できる。
神奈川・千葉・福島・茨城と同祖の氏族がならんでいる。

ここまで見た
  • 743
  •  
  • 2014/08/21(木) 13:14:07.96
埼玉の古代豪族との関係は深いはずだし
東山道を「共用」する関係上、喧嘩するとも思えない。
小競り合い程度のはず。

街道を占拠している毛野氏と本格的に抗争したら、埼玉の連中は陸上ルートから畿内にたどり着けなくなる。
埼玉方面に行くには東山道を毛野氏の「玄関」を通って南下する必要がある。

奈良時代の交通路
http://www.town.yoshimi.saitama.jp/guide_touzandou.html

茨城北部は東山道ルートでいけるが
茨城南部から千葉にかけては東海道ルートを使ってたはず。
毛野氏=東山道なので東海道の勢力とどれくらいの関係だったかは不明。
喧嘩もしないが仲がいいとも言えない地域。

北関東と南関東が断絶しているのは鎌倉時代・室町時代・江戸時代になってからも同じ。
江戸への物資搬入は東海道がメインだし、
東山道の役割は交代している

秀忠は東山道を通って関ヶ原に行こうとしたが、東山道が獣道みたいになってたために
東海道ルートを進んだ家康にまったく間に合わず、行軍が猛烈に遅れて関ヶ原に遅参して怒られた
(これを反省してあとで東山道を整備しているが)

ここまで見た
  • 744
  •  
  • 2014/08/21(木) 13:22:38.45
リニアの整備は東山道の復興にあたるな。
東海道全盛期から時代が移り、また東山道がメインになるか?
(リニアは今のところ東山道でもないし東海道でもないルートだが。
長野の変な迂回ルートは無視された)

関東から奈良に向かうルートがまた整備されるのはおもしろいな。
ルートによって地域が勃興するのは現代も同じ=だから京都・長野が発狂している

ここまで見た
  • 745
  •  
  • 2014/08/21(木) 13:36:06.06
遊びでやってんのか?w

お絵かきランド
フリック回転寿司
ここまで見た

★お気に入り追加

このページを共有する
facebook twitter hatena line google mixi email
おすすめワード