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  • 2012/02/12(日) 13:53:51.69
古の昔、関東から東北にかけて毛人(縄文人)の巨大な日本王国があった

この日本王国は大和朝廷が興るより早く衰退期を迎える
この文明が衰退した原因は急激な気候変動によるものと考えられている

日本王国は衰退の過程で複数の部族に分かれたが、その中で大和朝廷と婚姻関係を結ぶことで
有力豪族となった一族がいた、毛野氏(けぬうじ)族である

毛野氏族は、崇神天皇皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の子孫を自称している
が、実際の祖は景行天皇の孫である御諸別命(みもろわけのみこと)のようだ

毛野氏の勢力範囲は、両毛を中心として、常陸西部・武蔵北部に及んだ
この一族は武門に優れ、朝廷の命により東北の蝦夷を討伐し経営、朝鮮半島にも出兵している
勇敢な縄文の血を引く毛野氏族は、後に新田氏や足利氏といった坂東武士の誕生に大きな役割を果たすことになる

このスレはいまだ謎の多い毛野氏族を研究することにより、
「坂東武者1人は、よその武者8人に匹敵する」「武士の本場は坂東(関東)」と言われるほどになった
坂東武者の強さの秘密と幻の日本王国の全貌に迫ろうという壮大なスレである
ふるってご参加ください


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  • 2014/08/10(日) 18:49:41.20
勘違いしてるが荘園制の独立闘争が武士の勃興に関与しているし
所領とは荘園そのもののことを言う
地頭が支配したのは荘園そのものであるし守護はそういった荘園
領主たちからの領地闘争の仲裁役を買う代わりに軍事権や裁判権
を支配した

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  • 2014/08/10(日) 18:54:58.78
南北朝の時などの皇族や御所とかいった連中がまず何をしたかというとその荘園の支配権のお墨付きを与えることだ

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  • 2014/08/10(日) 19:00:22.87
さもなきゃ数人くらいで下向してくるんだからあっという間に殺されるわw
その代わりに支配権を正当化するお墨付きを与える存在だから貴人として
持て囃されかなりの待遇を得ている

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  • 2014/08/10(日) 19:07:48.73
これが戦国時代にはいると領地闘争が激しくなり仲裁くらいではすまなくなる
これが守護大名の没落でありより強大な力を持った戦国大名の登場なくして所領
を守ることができなくなる
これが戦国時代

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  • 2014/08/10(日) 19:20:14.77
これを視点をかえて幕府中心の見方や朝廷中心の見方に変えると真実は決して分からない

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  • 2014/08/10(日) 19:38:33.11
元祖テロリスト     上毛野基宗、貞並(915年2月)

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  • 2014/08/10(日) 20:01:51.86
頭に動物の角を飾って闘う集団がいた。
牛頭とかアラハバキとか鬼とかと呼ばれた。
その集団は政権抗争に敗れ東国に逃れ、坂東武者の起こりとなった。
頭に飾ってた角の名残が鎧兜の角付きとして残ってる。

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  • 2014/08/10(日) 22:28:26.14
六世紀の榛名山一回目の大噴火で武具を身に着けたままの状態で火砕流にのみこまれた方が少し前に発掘されました。
こちらは明らかに500年前の坂東武者。

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  • 2014/08/11(月) 23:42:43.41
>>569
そんなの知らんかった。

東国940平将門の乱直前の事件だな。
おもしろいなそれ。
http://ameblo.jp/tokunagi-reiki/entry-11253159716.html
殺害に荷担した者の名は上毛野基宗の他に二人残されており、
一人は上毛野貞並、もう一人は藤原連江。ここまでは判明している。

上毛野氏はすでに上野に領地がほとんどなく、やさぐれてたのか
将門の乱も「クソ貴族ざまーみろ」といってむしろ加わってたのか?
将門は群馬国府を襲ったと言ってるし。

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  • 573
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  • 2014/08/12(火) 00:16:13.15
毛野氏分布図
http://homepage1.nifty.com/moritaya/kokuzou9.html


○『能登国造』
垂仁天皇皇子の大入来命の孫の彦狭島命とあるが、垂仁天皇の皇子に大入来命、
もしくは類似する名の皇子はいない。『古事記』には崇神天皇が尾張の連の祖先、
意富阿麻比売(オホアマヒメ)を娶り、能登臣の祖となる大入杵(オオイリキ)命を生んだとある。
彦狭島命が豊城入彦命の孫なら紀氏、大入杵命の孫なら尾張氏になり、
いずれも安倍氏族ではない。

○『加宜国造』
 能登国造と同祖とあるが、素都乃奈美留命は大彦命の孫であり、
安倍氏に間違いないが、能登国造と同祖だとする意味がわからない。
高志深江国造も素都乃奈美留命となっているが、こちらは道臣と同祖とあり、安部氏族である。

彦狭島命が能登国造で、
彦狭島命がどの氏族かは諸説あるが、上毛野氏の祖と関連する毛野氏族の可能性がある

彦狭嶋王は豊城の兄弟の垂仁天皇の子と書いてあるが
彦狭嶋王の子は3世孫の御諸別王は上毛野氏祖とある。<垂仁の子では?

これはどうしたことか? 孝霊皇子の彦狭嶋命というのもあり、混乱する。

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  • 2014/08/12(火) 00:33:13.28
荒田別と一緒に朝鮮征伐した鹿我別ってのが上毛野氏らしい。

鹿我別
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E6%88%91%E5%88%A5

↑足利の祖の説があり


美作国を作ったのは上毛野氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E4%BD%9C%E5%9B%BD
和銅6年(713年)4月3日、備前守 百済王南典と備前介
上毛野堅身の提案により[4]、備前国から英多郡、勝田郡、苫田郡、久米郡、真嶋郡、大庭郡の
六郡を分けて設けられ、
初代美作守には分立提案者である上毛野堅身が就任した。

美作はこのまえ建国1300年だった。
http://www.mimasaka1300.org/hb/mimasakakokutoha.html
美作国の祖は上毛野氏でほぼ異論はない。

群馬・足利・能登・美作が上毛野氏(毛野氏)の確認できる領地


浮田国造 成務朝 賀我別王 崇神天皇の五世孫 福島県相馬市・相馬郡新地町(陸奥国宇多郡)
武門で名高い相馬市?も 賀我別王=鹿我別の領地

崇神の家臣の崇神朝の四道将軍の一人 建沼河命タケミナカタも毛野氏の隣の国とかにいるな。

参考
http://mononobe.digiweb.jp/kujihongi/kokuzou/tousen.html#ukita

崇神期の東山道遠征軍の実体が見えてくるな。

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  • 2014/08/12(火) 00:52:51.62
上毛野氏の鉄剣でないかなー
大彦は実在確定したわけで
大彦と同時代の東山道を侵攻した毛野氏の業績を記した鉄剣がでるとおもしろいんだが。

最古代の軍事氏族は大彦系統か毛野氏系統と、その他諸氏族といったところか
古墳時代の古代の源氏と平氏みたいなものか。

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  • 2014/08/12(火) 19:11:31.23
>>570
つい最近まで、朝、BSでやっていた韓国の歴史ドラマ「幻の女王チャミョンゴ」では、高句麗兵は、牛のような角の生えた兜をかぶっていた。
高句麗の王は、大武人王といって、楽浪国を滅ぼし南に勢力を広げる。日本名、神武天皇。
高句麗はさらに南に兵を送り日本にも上陸を果たす。それがアマノヒボコ集団だ。
騎馬民族は日本へ来ていたのだ。

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  • 2014/08/12(火) 19:51:21.34
頭に鹿の角を飾るのはハブロタイプD2の文化。
支那朝鮮では虐殺されて絶滅させられてしまったけど。
現在の朝鮮人には関係ない話

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  • 578
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  • 2014/08/12(火) 20:51:41.00
殺牛祭祀とかも関係ありそう。
あれは新羅のルーツ。

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  • 2014/08/12(火) 21:57:13.85
小学校の帰り道、馬は何かを運んでいた。今は聞くことのない馬蹄音。
耕運機が普及するまでは、その役割は牛が担っていた。現在でも南の方では水牛が---。
牛と馬は違うぞ。勘違いするな。
相馬 野馬追
日本列島に野生の馬はいたのであろうか。今はいないけれど。

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  • 2014/08/12(火) 21:59:41.04
相変わらず暴れてるな乞食

もうチョンと呼ぶのもやめるわ

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  • 2014/08/12(火) 22:00:46.36
今は野生の馬はいるはずだが

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  • 2014/08/12(火) 22:04:30.96
乞食だよな〜どうみても
輸入馬以外でいた痕跡があるんだっけ?

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  • 2014/08/12(火) 22:05:46.76
九州にいる馬は、野生50パーセント。50パーセントは人間の保護による。

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  • 2014/08/12(火) 22:16:20.93
都井岬の野生馬

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  • 2014/08/13(水) 01:43:59.81
必死に書き込んでたとこがひろゆき.scだった。
氏ねといいたい。

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  • 2014/08/13(水) 01:44:50.80
>>568
そんなの知らんかった。

東国940平将門の乱直前の事件だな。
おもしろいなそれ。
http://ameblo.jp/tokunagi-reiki/entry-11253159716.html
殺害に荷担した者の名は上毛野基宗の他に二人残されており、
一人は上毛野貞並、もう一人は藤原連江。ここまでは判明している。

上毛野氏はすでに900〜以降では上野に領地がほとんどなく、やさぐれてたのか
将門の乱も「クソ貴族ざまーみろ」といってむしろ加わってたのか?
将門は群馬国府を襲ったと言ってるし。

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  • 587
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  • 2014/08/13(水) 01:47:44.47
毛野氏分布図
http://homepage1.nifty.com/moritaya/kokuzou9.html


○『能登国造』
垂仁天皇皇子の大入来命の孫の彦狭島命とあるが、垂仁天皇の皇子に大入来命、
もしくは類似する名の皇子はいない。『古事記』には崇神天皇が尾張の連の祖先、
意富阿麻比売(オホアマヒメ)を娶り、能登臣の祖となる大入杵(オオイリキ)命を生んだとある。
彦狭島命が豊城入彦命の孫なら紀氏、大入杵命の孫なら尾張氏になり、
いずれも安倍氏族ではない。

○『加宜国造』
 能登国造と同祖とあるが、素都乃奈美留命は大彦命の孫であり、
安倍氏に間違いないが、能登国造と同祖だとする意味がわからない。
高志深江国造も素都乃奈美留命となっているが、こちらは道臣と同祖とあり、安部氏族である。

彦狭島命が能登国造で、
彦狭島命がどの氏族かは諸説あるが、上毛野氏の祖と関連する毛野氏族の可能性がある

彦狭嶋王は豊城の兄弟の垂仁天皇の子と書いてあるが
彦狭嶋王の子は3世孫の御諸別王は上毛野氏祖とある。<垂仁の子では?

これはどうしたことか? 孝霊皇子の彦狭嶋命というのもあり、混乱する。

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  • 2014/08/13(水) 01:51:53.79
荒田別と一緒に朝鮮征伐した鹿我別ってのが上毛野氏らしい。

鹿我別
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E6%88%91%E5%88%A5

↑足利の祖の説があり

美作国を作ったのは上毛野氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E4%BD%9C%E5%9B%BD
和銅6年(713年)4月3日、備前守 百済王南典と備前介
上毛野堅身の提案により[4]、備前国から英多郡、勝田郡、苫田郡、久米郡、真嶋郡、大庭郡の
六郡を分けて設けられ、
初代美作守には分立提案者である上毛野堅身が就任した。

美作はこのまえ建国1300年だった。
http://www.mimasaka1300.org/hb/mimasakakokutoha.html
美作国の祖は上毛野氏でほぼ異論はない。

群馬・足利・能登・美作が上毛野氏(毛野氏)の確認できる領地


浮田国造 成務朝 賀我別王 崇神天皇の五世孫 福島県相馬市・相馬郡新地町(陸奥国宇多郡)
武門で名高い相馬市?も 賀我別王=鹿我別の領地

崇神の家臣の崇神朝の四道将軍の一人 建沼河命タケミナカタも毛野氏の隣の国とかにいるな。

参考
http://mononobe.digiweb.jp/kujihongi/kokuzou/tousen.html#ukita

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  • 2014/08/13(水) 02:06:39.28
×建沼河命は例の出雲〜諏訪のタケミナカタじゃなくてタケヌナカワ
建沼河命は大彦の血族 が毛野氏の領土の隣=親戚かご近所さん。同じ軍事行動を取ったのかなとおもわれ。

上代の軍事氏族は大彦系統か毛野氏系統と、その他諸氏族といったところか
古墳時代の古代の源氏と平氏みたいなものか。

大彦も毛野氏も北陸がなんどか出てくるのがおもしろい。
関東で合流じゃなくて、すでにスタート地の北陸で血族として一体化してるような気もする。
四道将軍の大彦の業績なら北陸は大彦の直轄地になるはず→でも能登国の支配者がが毛野氏?になっている。
大彦と毛野氏(豊城入彦命)は「叔父さん」の関係 つまり最初から濃い血族集団か。

対立してる形跡もまったくなく、(諏訪神のタケミナカタは皇族と喧嘩してる)
血縁も近く、統一した軍事行動を取っているようにみえるので、
大彦=毛野は同一と言ってもいいくらいの関係。

埼玉鉄剣から大彦が出てきたのは納得できる。 北陸かららせんみたいに一緒に関東まで来たのかなと。
それからさらに北は大彦関連の氏族が突っ込んでる模様。
毛野氏は関東に降りてきてそこで勢力圏を広げると。〜南部方面軍担当。

天湯津彦
http://homepage1.nifty.com/moritaya/kokuzou3.html
ってのもいる。13代関連で佐渡から渡ってきてる。

こいつも毛野氏と同じ戦友かなと。
現在の厳島神主の家系の祖先らしい。

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  • 2014/08/13(水) 06:39:16.09
>>576
>韓国の歴史ドラマ「幻の女王チャミョンゴ」では、

捏造ファンタジーを盲信する在日は消えなさい

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  • 2014/08/13(水) 11:39:54.53
同じ軍事行動をとったいう見解があるようですが、上毛野氏は、陸奥国の三分割前夜に那須氏や岩城氏等に対して、
「これからは助太刀無用である」
と大見得を切ったような気がする。
あれは短絡的であったという反省の上に立ち陸奥国士を引き継いだ大野東人は、慎重に着実に事を進めたのではないだろうか。

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  • 2014/08/13(水) 14:41:49.90
>諏訪神のタケミナカタ

諏訪地方の民衆にとっては実際にはタケミナカタはよそ者であるとの見方も昔からかなり言われているんだよな。
タケミナカタ祭祀よりもより基層の祭祀になっているモレヤ神や、ミシャクチ神(両神は異名同神とも)を奉じる氏族こそが諏訪の元々の民であり、
タケミナカタはそれらモレヤ・ミシャクチ祭祀を行う氏族を上から抑えにきた存在であるという感じ方が諏訪の古くからの住民たちにとってはあるらしい。
同様のことは、出雲における古くからの住人たちにとっての素戔嗚尊への感じ方についても同じことがよく聞かれる。
毛野はどうなんだろうね。

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  • 2014/08/13(水) 16:34:50.59
両毛地区についての回答は、地元に限る。
隣の那須の方では、祭祀と言えば少なくとも三つある。
1、自宅の裏にある、その家独自の氏神様。
2、明治の大合併以前の村々の一番高い山等にあるお宮。
3、村の神社。
以上に基づいて祭祀を執り行う。1と2は国家神道のようである。
3は、私の地元では温泉(ゆぜん)神社が鎮座する。
那須地方というか古代那須国には、多くの温泉神社が鎮座しています。

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  • 2014/08/13(水) 17:20:13.21
那須氏は、最初から古代白河国の国造ではない。
だから、お隣の茨城県大子町ではよそ者扱い。
嫌われているようだ。あるいは関心が全くないのか。
試しに大子町のホームページ等を見れば分かります。

捕虜になった俘囚も大子町から出たのかも知れません。
但しこれは、上毛野形名に対する印象と同類と思われます。

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  • 2014/08/13(水) 17:34:48.06
温泉神社ってその名の通り、温泉に関係した神社なのかな?
だとしたら思い当たる節がある。
隣国の南陸奥・信夫の豪族佐藤氏は代々那須氏や両毛の豪族と姻戚関係を重ねてきたと言われる。
この信夫佐藤氏が別名、「湯の荘司」とも呼ばれていた。
義経の与党になった継信、忠信の佐藤兄弟が治承寿永の乱で2人とも戦死してしまい、大きな穴が空いてしまった佐藤家のことを後見しに来たのも那須氏(与一の父?)だったと言われる。確か佐藤兄弟の母の実家か、岳父が那須氏だったと思う。

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  • 2014/08/13(水) 20:02:48.39
山形県には遊佐(ゆざ)鳥海温泉というのがあり、
そこから、内陸に入った山形県肘折温泉、宮城県鳴子温泉にも遊佐氏がいる。
遊佐は湯沢、宇佐とも関係があり、日本海経由で進出したとみられる。

仙台の奥座敷秋保温温泉は、佐藤氏が泉源の利権を持っていたはずだ。

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  • 2014/08/13(水) 20:10:45.79
遊佐氏って能登のイメージ

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  • 2014/08/13(水) 20:26:21.08
栃木の秘境は三斗小屋温泉か。対照的なのは鬼怒川温泉。

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  • 2014/08/13(水) 22:13:25.75
>>592
ミシャグジは御石神だから、意外に新しい神だろうな

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  • 2014/08/13(水) 22:38:39.31
巨石は縄文文化じゃないの?

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  • 2014/08/13(水) 22:43:50.83
冬には水を撒けば凍った時代だったからその上を滑らせて巨石を動かすことが出来た
エジプトのピラミッドもそう

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  • 2014/08/13(水) 23:17:26.48
>>596
なるほど「遊佐は宇佐由来」というのは刮目した。
面白い視点を教えてくれてありがとう。
那須国造でいえば、その同族に美濃国席田郡司になった守部氏がいる。
同郡は、8世紀当時畿内に溢れ返っていた新羅系渡来人の東国への移民政策の一環として、美濃国本巣郡の一部を割いて建郡された。
守部氏は後に軍事貴族・佐藤公清の庶子資清を婿に入れ、それが山内首藤氏となって行く(山内首藤氏と那須氏の系図が殆ど重複しているのはそのため)。
那須氏も、その軍事貴族佐藤氏の一族である陸奥信夫郡司佐藤氏(信夫佐藤氏は佐藤公清の兄・公脩の系譜)と姻戚を結んでいるのと鑑みるに、秀郷流藤原氏との深い繋がりを感じて興味深い。

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  • 2014/08/13(水) 23:28:00.27
ヤマタノオロチと呼ばれた八つの頭を持つ国があった。
その国は両面宿禰という、頭が二つだけの国になった。
そして歴史から消えた。
その後どうなったんだろ?

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  • 2014/08/14(木) 03:30:33.30
関東武士団の変遷
板東毛野氏→板東平氏→板東源氏→出自がなんだか分からない氏族(家康その他)

このうち海外征伐までしてるのは毛野氏くらいだな。
天皇を助けてるのも毛野氏くらい
平氏や源氏は天皇を殺しすぎだろ。

毛野氏は平壌くらいまで攻めてるのでは? 公開土王の碑は北朝鮮より遙かに北にあるが
その近くまで攻めたのではないかと。

家康は金持ちのくせに毛野氏の神社の1つも建てなかったな。
ケチな野郎だ

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  • 2014/08/14(木) 04:31:20.60
出自がなんだか分からない氏族(家康その他)
は伊勢神宮東国伊勢湾東海道関東荘園圏の地頭集団に比定できるんじゃないかと。
伊勢乞食伊勢商人の武士版。

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  • 2014/08/14(木) 08:45:01.30
坂東武者の誕生
毛野氏の時代 | 藤原氏の時代 | 平氏・源氏の時代 | 源氏の時代=坂東武者の時代

坂東武者必須の武芸 弓・刀・馬 人馬一体が重要である。いざ鎌倉では利根越えもある。
従って後年の西郷隆盛などは、体重がありすぎて坂東武者にはなれない。

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  • 2014/08/14(木) 09:01:55.66
毛野氏は負けすぎ  通算で負け越しか  他にもあるのか
神戦
武蔵国造の乱
磐井の反乱
上毛野広人

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  • 2014/08/14(木) 13:51:42.88
実際に朝鮮半島を長期間支配した主力軍は毛野氏であって
朝鮮半島をほとんど支配できなかった秀吉=豊臣家と比べものにならんぞ。
家康もザコ

中国=高句麗とも戦って、互角で朝鮮半島をかなり支配したまま保持
はっきり中国に負けたのは白村江だけ。

日本史史上最強と言っていいのでは?
武蔵国造りの乱は、「官軍」と戦ったわけで、勝っちゃいけなかっただけ。
支配権の東北まで撤退して徹底的にやるものありだったが、引いただけです。

毛野氏=朝鮮半島を300年間支配(360〜660)
関東平野を500年間支配(340〜800)

250年程度の家康なんてこれに比べればザコだな。
家康は直轄地で言えばたいしたことないし。

旗本8万旗=関ヶ原では無能を露呈(活躍したのは実質豊臣方の離反者)
大阪の陣はただいただけ。

家康は伊達政宗を倒してないし、東北を攻めてもない。
毛野氏は名実共に関東最強武士団だな。

>毛野氏は負けすぎ  通算で負け越しか
「衰退した・最後は負けた」 に該当しない氏族はあるのか?

どうせどんな武士団も露と消えたわけで
なら勢力範囲の維持と規模を合計したら最強だろ。

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  • 2014/08/14(木) 14:03:42.32
奥羽に扶植していた毛野氏を、安倍氏や清原氏が郎党化させていったのかな?
吉彦(吉弥侯)氏の「きみこ」は、「君子」だという。
「毛野君の子(部民、はらから)」という意味。

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  • 2014/08/14(木) 14:51:11.93
900-940 ■平■将門の乱 板東八平氏最強
940〜1000 ■秀■秀郷系統が支配 藤姓足利氏〜関東平氏もまだ温存
1000〜1030 ■平■平氏がまた暴れて制御不能(平忠常の乱)
1030〜1200 ■源■平忠常が源頼信に降伏 関東で源氏>平氏の序列
<関東源氏台頭 源氏全盛期〜頼信〜義国〜義重〜頼朝へ> 中央は平氏台頭
1200〜1330 ■平■北条政子(平氏)が鎌倉幕府乗っ取り=源氏衰退期 三浦氏(平氏)も強い
1330〜1400 ■源■ぶち切れた源氏がまた反乱
南北朝時代 上杉氏(出自不明 公家?)・足利氏・宇都宮氏<どいつが強かったのか?
1500〜1590 ■平■平氏=伊勢氏の北条早雲+佐竹氏+江戸氏〜小田原征伐で終了
1590〜1868 ■家■あるときは藤原家康で、あるときは源家康だった方

<関東でトップだった期間>
毛野氏 350〜荒田別(太田天神古墳?)から上野守の上毛野馬長764まで 合計414年間
平氏 40+30+130+90 合計290年間
家康 合計287年間
源氏 170+60 合計230年間
秀郷 60 合計60年間

総合的にやはり毛野氏の関東占領期間が最長最強

毛野氏414>>>>平氏290=松平287>源氏230>秀郷60

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  • 2014/08/14(木) 14:53:54.70
毛野氏の勢力終末期は難しいが、長くて坂上田村麻呂800までかなと=勢力交代
ある程度支配期間の誤差があるにしても、序列はほぼこの通りになるはず。
800〜900は不明だが、板東平氏の台頭は結局900くらいのはず。

↑坂東平氏
平高望は、昌泰元年(898年)に上総介に任じられ遥任国司が多いなか、
子の国香・良兼・良将を伴い任地に下向した。
国香は常陸大掾(大掾氏)、良将は鎮守府将軍を勤めるなどし、
上総国ばかりでなく常陸国や下総国にも勢力を拡大、坂東に武士団を形成し武家平氏の基盤を固めた。

800〜900は関東は災害だらけで、戦争どころじゃなかったか?
800 富士山が延暦大噴火
818 東国で大規模な地震が発生した.
869 M9貞観地震
878 関東南部でM7以上の直下型地震が発生
864 富士山噴火 貞観大噴火

こうやってみると平氏がかなり強かったな。
源氏はボコボコやられて分断しすぎかと。

源平は相互に戦争し続けたせいで統治期間が食われてしまい、
毛野氏の支配期間(400年間)には結局及ばなかった。

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  • 2014/08/14(木) 15:17:56.21
新田氏は荒田別(新田の読みは、本来は「あらた」だったものがのちに「にった」に転じたもの)、足利氏は鹿我別氏から来ていると思うんだな。
源氏だ藤原氏だと言っても、それらは外から来て地元の有力豪族に婿入りしただけで、実体は名前が変わった在地豪族の継続。
これは平氏も変わらない(というか全国どこでも変わらない)。
国香や良将も、常陸の源氏(嵯峨・仁明系源氏でこれとて、ちょっと以前に常陸の在地豪族に婿入りして源氏姓になったもの)、や下総の犬養氏に婿入りしたもので、のちの平氏一族間の争いは実は、兄弟争いではなくて、それぞれの母系氏族の間での権益争い。
同じ姓を持つ兄弟とはいっても、生まれ育ったのはそれぞれの生母の家で、他人みたいなもんだから。

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  • 2014/08/14(木) 16:22:25.32
足利地名七説

?アシキキ説 足利の地は、昔から東山道の重要な駅家であったため、足が丈夫でよく走れる使者や、駅夫などが置かれた。このように足のよく利く者が多くいたため、それが地名となったという説

?アシカガミワケ(足鏡別)説 ヤマトタケルノミコトの御子、足鏡別王(アシカガミワケノキミ)がこの地方を治めた(『古事記』より)ことから、アシカガミのミをとって足利になったという説

?カガワケ(鹿我別)説 豊城入彦命の五代目の孫である鹿我別命が治めたので、その名前から出たという説

?アソカガ(麻利)説 昔は足利と安蘇(足利の東隣)を一つにまとめて麻利(アソカガ)といい、「ソ」が「シ」に訛り、なお、足利の漢字をあてはめたという説

?カガ(芝草)説 足利の地方が山地で、ここから南方に向かって幾多の河川が流れ、その氾濫によって積もった土砂のために自然の平原を作り、
そこに芝草(昔カガといった)が一面に生えていた。さらに、現在の柳原あたり一帯は沼地で、そこに葦なども多く茂っていたためアシカガと呼ぶようになった。 
奈良時代はじめ、「諸国の地名には、よい字をつけるがよい」という命令が出たため、
アシには足、カガには利の字を入れたという説。

?アナカガ説 はじめはカガ説と同じ理由でカガと呼ばれていたが、のちに日本が朝鮮半島へ出るための重要な地域であった阿那伽羅(アナカラ)というところがあり、
この地方から大勢進出し、鉄の確保と生産技術獲得のため多くの渡来人や奴婢を伴ってカガに帰ってきた。
そんなことから、以前のカガに阿那伽羅のアナをつけアナカガと呼ぶようになった。
それがさらに変わって、阿志鹿我(アシカガ)→阿志利→足利となったという説。

?金属説 「アシ」は中国東北部(旧満州)方面の言葉で、金属のこと。「カガ」は利息の利のこと。


とにかく凄い古からある地名であることは確か

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  • 2014/08/14(木) 17:23:17.89
関東は結局平氏が強い。
有力氏族を辿るとだいたい桓武平氏になる。

もしくは源氏系統だが、やはり900くらいから平氏がいることもあって
家康以前までは平氏は常に勢力的に互角以上を保ってる。
で、その桓武平氏を辿ると在地豪族の毛野氏がでてくるわけだな。

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