坂東武者の祖、毛野氏族について語ろう [sc](★0)
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- 2012/02/12(日) 13:53:51.69
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古の昔、関東から東北にかけて毛人(縄文人)の巨大な日本王国があった
この日本王国は大和朝廷が興るより早く衰退期を迎える
この文明が衰退した原因は急激な気候変動によるものと考えられている
日本王国は衰退の過程で複数の部族に分かれたが、その中で大和朝廷と婚姻関係を結ぶことで
有力豪族となった一族がいた、毛野氏(けぬうじ)族である
毛野氏族は、崇神天皇皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の子孫を自称している
が、実際の祖は景行天皇の孫である御諸別命(みもろわけのみこと)のようだ
毛野氏の勢力範囲は、両毛を中心として、常陸西部・武蔵北部に及んだ
この一族は武門に優れ、朝廷の命により東北の蝦夷を討伐し経営、朝鮮半島にも出兵している
勇敢な縄文の血を引く毛野氏族は、後に新田氏や足利氏といった坂東武士の誕生に大きな役割を果たすことになる
このスレはいまだ謎の多い毛野氏族を研究することにより、
「坂東武者1人は、よその武者8人に匹敵する」「武士の本場は坂東(関東)」と言われるほどになった
坂東武者の強さの秘密と幻の日本王国の全貌に迫ろうという壮大なスレである
ふるってご参加ください
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- 51
- 2012/03/07(水) 22:16:42.81
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>>50
ほう、どんなお話?
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- 52
- 2012/03/08(木) 00:04:26.82
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http://ameblo.jp/toojoon/entry-10899301886.html
角折神社の魔物伝承
そしてこの玉村町というのも
将門伝説と係わり合いがある悲劇の伝承
http://yukiskan.3.pro.tok2.com/manholl-frame/gunma/tamamura.html
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- 53
- 2012/03/08(木) 06:53:46.50
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小野姓横山党との関係は?
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- 54
- 2012/03/08(木) 23:58:12.77
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■ 関東古代の海岸線
http://www.city.ebina.kanagawa.jp/www/contents/1188432232495/simple/071022194142_4.jpg
http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/kasi/k3_mgw2.htm
南関東は人の住む場所ではなかった。
人々は北関東に集まっていて、縄文人は特に1,000m以上の高地を好んで生活圏としていた。
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- 55
- 2012/03/09(金) 01:16:44.96
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>>54
武蔵国のむさしは、人の住めない、むさ苦しい土地という意味があるらしいね
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- 56
- 2012/03/09(金) 12:15:33.40
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>>55
他にもアイヌ語で草原を意味する「ムンザシ」など様々な説があるね(※万葉集に「牟射志」=ムンザシとの表記あり)。
>>53
小野横山党は興味深いね。
加えて、小野氏が入り込む前の小野県のあたりの土着豪族にも。
武蔵国一宮と位置付けられる小野神社や、総社になる以前の大國魂神社などを調べているとその思いを強くする。
初代武蔵国造・兄多毛比命は天穂日命後裔で出雲氏族なんだけど、この命は大國魂神社界隈を中心とした多摩川流域で多く祀られている。この大國魂神社が先に述べた小野神社を一宮と位置付けていることから、
武蔵総社である大國魂神社は、延喜式名神大社である氷川神社よりも、延喜式小社である小野神社の方を明らかに大切にしている感が伺える。
国が定めた格式(延喜式)と、現地武蔵国の総社が定める順位に「ねじれ」生じているわけだからね。
そうなると、“原大國魂神社”と小野神社とは元々一体のものであったという推論も成り立ってくるだろう。
そして、総社になる以前の大國魂神社は代々出雲氏族である武蔵国造一族が奉祭を司っていたことから、
やはり小野党も(小野氏が入ってくる前の)さらに前身氏族を辿れば、それは同じ出雲氏だったとするのが妥当ではないか。
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- 55つけ足し
- 2012/03/09(金) 12:50:03.11
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加えて、律令時代に名神大社とまで位置付けられる氷川神社を奉祭していた北武蔵勢力は実は武蔵においては後発氏族で、
多摩川(〜鶴見川)流域を支配する南武蔵勢力の方がより先行開発氏族だった。
6世紀前半に起こった「武蔵国造の乱」においてこの多摩川流域勢力は、氷川神社を奉祭する元荒川流域の新興勢力に破れ、国造の地位も元荒川勢力にとって替わられる。
この戦いで、南武蔵の多摩川流域勢力が同盟を結んだのが上毛野氏だった。
一方新興勢力の元荒川流域勢力が結んだのが大和朝廷。
関東における基層覇者勢力である毛野氏と、武蔵国内での先行開発勢力である南武蔵・多摩川流域勢力とが結び、
新興勢力である北武蔵・荒川流域勢力とこれまた出雲に代わる新興勢力であった大和朝廷が結んだというのが面白い。
最も、古参の南武蔵・多摩川流域勢力も、新興の北武蔵・元荒川流域勢力もともに姓は「笠原」で、姓のうえでは両者は同族の出雲系氏族ということになる。
これは多摩川流域と元荒川流域では元々支配勢力は違っていたが、ともに出雲氏から婿を迎えた招婿婚によって「同族化」したものなのだろう。
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- 58
- 2012/03/09(金) 12:51:42.50
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↑の「名前欄」は
「56つけ足し」
の間違い。
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- 埼玉古墳群
- 2012/03/12(月) 16:10:23.11
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>>57
古墳の年代観としては、多摩川流域とかよりも埼玉古墳群の方が古くないか?
それを多摩川流域の勢力のほうが先行とするのはなんで??
このことを踏まえれば、埼玉古墳群の被葬者層を旧勢力として、多摩川流域
の勢力を新興勢力って位置づけるほうが自然。
それに武蔵国の国府が置かれた場所は大国魂神社付近だから(府中)、律令の時代まで自然に
結びつけることができるよ。
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- 60
- 2012/03/12(月) 19:22:35.30
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多摩川なんて毛野国から見れば辺境の地だからな
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- 61
- 2012/03/12(月) 19:39:47.80
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>>52
そこの川よりがBなのと因果関係あるのかね?
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- 62
- 2012/03/12(月) 21:26:24.68
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>>59
☆埼玉古墳群(北武蔵=元荒川勢力)
・稲荷山古墳:5世紀末〜6世紀初頭
・丸墓山古墳:6世紀前半
・二子山古墳:6世紀前半
・将軍山古墳:6世紀末〜7世紀初頭
etc
☆荏原台古墳群(南武蔵=多摩川勢力)
・宝来山古墳:4世紀後半
・亀甲山古墳:4世紀末〜5世紀初頭
・野毛大塚古墳:5世紀前半
etc
ちょうど入れ替わるように武蔵の古墳の築造年代は南武蔵=多摩川エリアから北武蔵=元荒川エリアに移動してるんだよ。
それから武蔵国府が南武蔵=多摩川エリアに置かれたのは、6世紀前半に起こった「武蔵国造の乱」の結果、
勝利者となった北武蔵勢力により、破れた南武蔵勢力の領域が北武蔵の後ろ楯となった大和朝廷に屯倉として献上されたから。つまりは律令制施行時には朝廷の直轄地となって久しくなってたからだよ。
「武蔵国造の乱」の経緯は、『日本書紀』安閑天皇御代元年閏十二月条に載ってるよ。
このテーマに対してレスしてくれるのは嬉しいが、もうちょっと勉強してくれ。
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- 64
- 埼玉古墳群
- 2012/03/12(月) 21:29:03.69
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>>62
終末期古墳は??
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- 65
- 2012/03/12(月) 21:35:16.22
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>>64
は?
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- 66
- 埼玉古墳群
- 2012/03/12(月) 21:43:51.98
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>>62
これって甘粕健とかの古い説じゃないの。古墳の年代観は何に拠ってるの?
今までの諸説の経緯とか示して頂けると助かります。
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- 67
- 埼玉古墳群
- 2012/03/12(月) 21:59:19.25
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>>65
古墳の規模からそれを造ることができる有力な首長がいたってことは
いえても、本当に国造職ってのはその在地社会の一番の有力者を
任命していたのか、そこまでいえるのかって所に疑問をもってる。
古墳を扱う研究者はみんなそこを自明のものとして扱ってるけど、
現に有力な古墳は武蔵国内の他の地域に色々ある。
例えば埼玉古墳群内の最大級の古墳である稲荷山とか双子山に匹敵する
古墳として、築造年代が同時期にあたる野本将軍塚古墳とかあったり、
単純に古墳の最大規模=国造の墓といえるのかってこと。
これは国造職そのものの任用の問題ともかかわるんだろうけど。
もちろん、示してくれた古墳の築造年代が接続するから国造職の勢力間の
移り変わりがあったんだという考え方は、わかりやすい見解だと思うけど。
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- 68
- 2012/03/12(月) 22:00:17.70
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>>66
古いのかどうかは知らんが築造年代は古墳の埋蔵品などからの比定だよ。
逆に、より「新しい」築造年代比定がなされたんだとして、それで南武蔵→北武蔵の権力の移動の順位が逆転するものなのかどうか?そんなソースがあるなら是非示して下さい。
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- 69
- 2012/03/12(月) 22:09:32.77
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>>67
武蔵国は律令制期に知々夫(秩父)国を加える前からかなりの広域エリアを有していたから、
当然国造に匹敵する、或いはそれに準ずる規模の豪族はいくつか存在したと思いますよ。
因みに、
隣の相模国だと、相武国造、師長国造と並んで「鎌倉別」という勢力が有って、少なくともこの3つの勢力が鼎立していたとされる。
まあ相武と師長は令制前は別の国ではあるが、相模国が成立した後も同国は相模国造が任じられているから(いわゆる「律令国造」)。
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- 70
- 埼玉古墳群
- 2012/03/12(月) 23:23:32.61
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>>69
武蔵っていう国境みたいなのがいつ決まってきたのかっていうのは興味
がある。もちろん、国造云々の時代は、各豪族の縄張りみたいなもので
ある程度線引きしたものであったんだろうけどね。今自分たちが思い描く
国境っていう概念ができたのは天武朝の国境画定事業であって。
>武蔵国は律令制期に知々夫(秩父)国を加える前からかなりの広域エリアを有していたから、
当然国造に匹敵する、或いはそれに準ずる規模の豪族はいくつか存在したと思いますよ。
→これは面白い。となると、どういう選定理由で国造職をヤマト王権は決めていたのかとか、
そもそも国造職は一人だけだったのか、とか色んな疑問がわいてくる。
これ以前だと「県」との関係とかどうなんだろ。
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- 2012/03/13(火) 02:51:39.06
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『遊牧騎馬民族と東国武士 』
著者:保坂俊三
出版社:中央公論事業出版
item.rakuten.co.jp/book/1076854/
593 名前: 天之御名無主 投稿日: 01/10/01 19:52
以前図書館で「遊牧騎馬民族と東国武士」という本で興味深い内容を読
んだ。遼東半島に居た倭人が拓跋氏に捕らえられ、海で獲った魚を拓跋
に供給していた。これが禿髪氏。その後拓跋氏は魏を開いたが、禿髪氏
は同じ鮮卑であり、源が同じということで皇帝から「源」の姓を賜り、
将軍職を与えられるなどたいそう出世した。禿髪とはちょんまげの事。
つまり、日本の東国に入植した、出土品から見て異民族に思える騎馬集団、
のちの武士は禿髪氏の事である、というような内容だった。参考までに。
http://mimizun.com/log/2ch/min/989770047/
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- 72
- 2012/03/13(火) 07:44:33.37
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>>70
> 武蔵っていう国境みたいなのがいつ決まってきたのかっていうのは興味がある
氏姓制度時代の北武蔵エリアは本当に元から武蔵国だったのかっていう疑問もあるね。
後発開発地域で5世紀末になるまで大型古墳が存在しなかったっていうことは、当然より強大な先進地域である毛野国のテリトリーであったからということであるのかもしれない。
それから、国造封建については1人が任命される場合もあれば、一国に2人(以上)任命される例などもあったみたいだし、
上で挙げた「武蔵国造の乱」のような覇権戦争その他理由で交代する例もあったみたいだ。
国造封建は成務朝期に多い。やはり日本武尊絡みかな。
国造の任命については元からの在地豪族が任命される場合もあれば、中央朝廷から派遣されて(封をうけて)任命される場合もあったようだ。
つまり、のちの鎌倉幕府や室町幕府や江戸幕府の守護地頭や大名の任命の仕方とおんなじ。
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- 73
- 2012/06/19(火) 05:11:33.82
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ああ、わかりやすく歴史で書くとな。日本史の史実はホントはこうだ。
そして坂東武士そのものは
承久の段階でもう坂東の軍団の合計3割 10万以上は占めてた坂東武士一計そのものだろ
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- 74
- 2012/08/13(月) 23:18:36.09
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>>62
ならば、5世紀後坂東武士がとりかえすんですな。
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- 75
- 2012/09/02(日) 16:09:44.18
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>>2
前スレ
【毛野】関東に大王あり【武蔵】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1105834872/
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- 76
- 2012/09/13(木) 05:50:00.94
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>>3
コノハナサクヤ姫と関係ありますか?
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- 77
- 2012/09/15(土) 10:08:44.18
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>>15
>関東人が、朝鮮(高句麗、新羅、百済)系であることを示す
>証拠はいくらでもあるが、縄文系であることを示す証拠は何も無い。
大嘘。
関東ではD2の比率が高いが、朝鮮にはD2はまずない。
むしろ中国・朝鮮に多いO3の比率は西日本で高い。
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- 78
- 2012/09/15(土) 19:57:51.72
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畿内古墳人は
渡来系古墳人の中でも渡来形質が特に際立っている集団である
畿内古墳人は
韓国・朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属し
縄文人から最も離れている
関東・東北南部古墳人は
渡来系古墳人の中で縄文人グループに最も近い
『日本人のきた道』 (池田次郎・京都大学名誉教授 自然人類学)
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- 79
- 2012/09/17(月) 20:13:06.64
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三毛野命
若三毛野命
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- 80
- 2012/10/12(金) 21:18:16.84
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>>79
神武天皇のことか
けぬってどういう意味なんだろうな
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- 81
- 2012/12/01(土) 18:07:21.65
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http://seiji.yahoo.co.jp/vote/result/201211270001/
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- 82
- 2013/01/14(月) 00:24:35.20
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百姓上毛野貞並
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- 83
- 2013/02/06(水) 14:19:45.67
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>>80
だから神武天皇の乳母氏族が毛野國の人だったんじゃね?
昔の皇族の名前って母親の氏族名か乳母の氏族名つけるじゃん
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- 84
- 2013/02/09(土) 02:41:45.64
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中臣=藤原氏も元は軍事貴族で畿内から関東に遠征し通婚して常陸や房総に地盤を得たのかな
だから鹿島神宮=春日大社のつながりがある
あるいは元々地方の勢力だったのが連合政権を作り、首都周辺に集住し豪族層を形成する
後の室町時代、江戸時代を考えても官僚層は地方に地盤があるね
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- 85
- 2013/02/22(金) 13:49:37.69
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>>84
中臣氏は神官の家系で元々軍事貴族ではないだろう
中臣氏の中でも、毛野氏の後ろだてを得た藤原氏が、後々政治的軍事的に突出した力をつける事ができたが
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- 86
- 2013/02/22(金) 21:09:41.94
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>>85
藤原はむしろ大伴に近いんじゃね?
中臣鎌足の父中臣御食子辺りまでは神官やってたらしいんだが
中臣鎌足の実母が軍事氏族の大伴氏出身
鎌足が母方の縁で軍事力を身につけてもおかしくない
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- 87
- 2013/02/22(金) 21:38:26.87
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>>86
鎌足は生前には藤原姓を名乗っていない
実質的な藤原氏の祖は不比等だろう
不比等の母親は上野国の地方豪族車持氏の出、つまり毛野氏だ
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- 88
- 2013/02/22(金) 21:57:40.39
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中臣氏も尊卑分脈からだけでは推し測ることの出来ない難しい氏族ですよね。
九州・宇佐津臣(宇佐国造)の一族に仲津臣(なかつのおみ)という氏族がおり、この氏族が常陸に移動して鹿島神宮宮司の多臣(おおののおみ)氏と、
常陸・那賀国造(なかくにのみやつこ)氏とに分かれます。
那賀国造氏は同時に那賀臣(なかのおみ)氏、仲臣(なかのおみ)氏、そして中臣氏とも称しました。
また、那賀国造の「那賀」は、宇佐国造一族である仲津彦の「仲」に由来するものと思われます。
そしてこの宇佐津彦(宇佐国造)、仲津臣氏、多臣氏、那賀国造(=那賀臣、仲臣、中臣)氏の共通先祖に天種子(アマノタネ)命という神がいます。
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- 89
- 2013/02/22(金) 21:59:13.01
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>>87
天智天皇から大職冠と藤原姓を与えられたのは鎌足
通例で中臣と呼んでいるだけで藤原鎌足でもあるんだよ
だいたい、藤原が朝廷で重んじられるようになったのは鎌足の軍事行動によってだ
それでは鎌足の軍事力はどこから来ていたと思うのか?
車持氏は名の通り、天皇の輿を担いだ一族だが傑出した大和朝廷の軍事氏族ではない。
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- 90
- 2013/02/22(金) 23:20:22.92
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>>89
軍事行動って何を言ってる?
中臣氏は「壬申の乱」でボロ負けしてたろ
近江方の中心人物だった中臣氏族長の連金は乱後に処刑されてる
頼みの大伴氏も大海人皇子側に付いたしな
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- 91
- 2013/02/23(土) 14:57:26.06
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中臣鎌足は弓削大連・物部守屋の曾孫か玄孫くらいだと思います。
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- 92
- 2013/02/23(土) 15:46:41.79
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>>88
へぇ、面白いね。
ところで、中つながりで、天智天皇(中大兄皇子)には、何か氏族的なつながりがないのかな。
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- 93
- 2013/02/24(日) 13:56:28.92
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>>89
確かに壬申の乱後の中臣氏・藤原氏の立場はかなり微妙なものになったし
両氏はこのまま歴史の舞台から消えてしまう可能性もあった
大伴氏が天武側についた事がこの乱の勝敗を決めたともいえるから
父を裏切った大伴氏に対する不比等の恨みは相当のものだったろうね
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- 95
- 2013/02/26(火) 01:12:52.96
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天武十三年(684年)の「八種の姓」で毛野一族である「東国六腹」は
そろって朝臣の姓を与えられているね
当時、朝臣を与えられた面々を見ると畿内の大豪族ばかりなので、
地方豪族にすぎなかった毛野氏に朝臣が与えられたのはかなり異例な事だね
なんでなんだろ?壬申の功臣だった?そんな話は聞いたことないけど
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- 96
- 2013/02/26(火) 01:29:46.43
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さらに不思議なのは
毛野氏に朝臣の姓が与えられた時、中臣氏にも同じ朝臣の姓が与えられたが
壬申の功臣であるはずの大伴氏に与えられた姓はワンランク下の宿禰だったという事だ
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- 97
- 2013/02/26(火) 01:49:30.57
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神別系で優遇されたのは中臣藤原氏と石上朴井の物部氏だけだから。
同じく神別系の大伴は除外された。
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- 98
- 2013/02/26(火) 09:40:30.81
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久米、大伴は同族な気がします。
また大伴、物部、中臣は緩やかな同族かと。
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- 99
- 2013/02/26(火) 22:02:29.59
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>>95-96
おまえはなにをいってるんだ?
不思議でもなんでもないだろ。
上毛野氏も下毛野氏も、北関東と畿内の両方に繁茂してる立派な大豪族だぞ
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- 100
- 2013/02/26(火) 23:00:05.89
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>>99
上野、下野、車持だけならまだ分かる
大野、池田、佐味なんてそんなに立派か?
畿内やその周辺にももっと有名豪族がいただろ
大伴とか忌部とか尾張とか吉備とかさ
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- 101
- 2013/02/27(水) 00:51:14.73
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>>100
毛野氏は一族の結束が強かったから
六氏族すべてに同等の姓を与える必要があったってことだろうね
まあ、それだけ一族の力が強かったってこと
武力については蝦夷と接する土地柄だから言わずもがなだけど
財力についても他の豪族をはるかに凌いでいたようだ
例えば、下野国では持統天皇の病気回復を願って
平城京内の七大寺に比肩されるほどの壮麗な大伽藍を持った
官寺「下野薬師寺」を建立しているし
「公地公民」では率先して奴婢六百人を解放している
普通、奴婢は畿内の大豪族でも十数人程度だったといわれているから
いかに下野一族の勢力が大きいものだったかわかるよね
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- 102
- 2013/02/28(木) 14:39:00.67
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カバネってのは個人に与えるんじゃなくて
一族全体に与えるんだから何もおかしくないだろ
出世頭が一人いれば一族全体が余沢にあずかるって仕組みじゃん
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