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  • 2012/02/12(日) 13:53:51.69
古の昔、関東から東北にかけて毛人(縄文人)の巨大な日本王国があった

この日本王国は大和朝廷が興るより早く衰退期を迎える
この文明が衰退した原因は急激な気候変動によるものと考えられている

日本王国は衰退の過程で複数の部族に分かれたが、その中で大和朝廷と婚姻関係を結ぶことで
有力豪族となった一族がいた、毛野氏(けぬうじ)族である

毛野氏族は、崇神天皇皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の子孫を自称している
が、実際の祖は景行天皇の孫である御諸別命(みもろわけのみこと)のようだ

毛野氏の勢力範囲は、両毛を中心として、常陸西部・武蔵北部に及んだ
この一族は武門に優れ、朝廷の命により東北の蝦夷を討伐し経営、朝鮮半島にも出兵している
勇敢な縄文の血を引く毛野氏族は、後に新田氏や足利氏といった坂東武士の誕生に大きな役割を果たすことになる

このスレはいまだ謎の多い毛野氏族を研究することにより、
「坂東武者1人は、よその武者8人に匹敵する」「武士の本場は坂東(関東)」と言われるほどになった
坂東武者の強さの秘密と幻の日本王国の全貌に迫ろうという壮大なスレである
ふるってご参加ください


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  • 2014/07/25(金) 22:51:40.82
白河修理大夫殿あてに差し出した道景(宇都宮等綱)去状(譲渡証)の写真が、
馬頭町史の200頁に掲載されている。 武茂氏は、蚊帳の外になっている。
修理大夫とは、白河結城直朝。

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  • 2014/07/25(金) 22:52:42.38
なんかこのスレ馬鹿しかいなくね?

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  • 2014/07/25(金) 23:01:13.93
武茂郷は、茨城県の久慈川水系にも近い。
那珂川の簗で鮎を食べるなら、断然、高瀬の簗に限る。
吾輩の叔母宅の隣。 簗の人の先々代は、立派なやくざの親分だったと大変評判が良い。

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  • 2014/07/25(金) 23:19:14.20
武茂川は那珂川水系だが?

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  • 2014/07/25(金) 23:24:22.63
西は那珂川。峠を越えて東へ行くと直ぐに久慈川の支流がある。共に鮎釣りが人気。

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  • 2014/07/26(土) 06:38:49.63
下野の名門の宇都宮氏宗家の等綱は、白河修理大夫の家人になっていた。

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  • 2014/07/26(土) 06:50:36.91
>平安末期から室町と所有権は宇都宮氏にあった。武茂氏ではない。
そもそも宇都宮氏の庶流が武茂氏
築城すると言うことは領地にとって最も需要な事
それに、いきなり鎌倉・南北朝の長い期間をぶっ飛ばして
史実を捏造するなよ

烏山バカw

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  • 2014/07/26(土) 08:06:42.36
足利氏・那須氏・佐竹氏 VS 新田氏・宇都宮氏・白河結城氏

武茂郷と塩谷郡の一部を勝手に譲渡するなよ  恥ずべき史実は自然と消滅するのでは。

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  • 2014/07/26(土) 08:36:46.07
武茂さんちは、北関東に一軒もない。  千葉県には一軒はあった。
全部で何軒だ。  佐村河内さんより少ないのか。 ?

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  • 508
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  • 2014/07/26(土) 09:46:43.64
武茂郷からは、天平19年から纏まった金が産出され始めた。これは日本初である。陸奥国からのそれよりも数年早い。文字通り日本の歴史は輝きだしたのである。
大陸との交流にも弾みがついたであろう。 金の産出は国有事業とされたようたが、その全貌は明らかではない。最高責任者は誰か。普通に考えれば、下野国司。
次が那須氏であろう。

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  • 509
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  • 2014/07/27(日) 17:24:12.17
日本最古の石碑かつ平安遷都以前の石碑は
群馬県高崎市に集中しているんだよね
それも漢文ではなく和文で刻まれているんだよね

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  • 510
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  • 2014/07/27(日) 18:32:44.77
510は、那須国造碑ファンに挑発的である。那須国造碑は国宝である。国宝と重文では、どちらに価値があるかは誰でも分かる。
また、碑堂の有無、堂守の人柄なども重要である。

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  • 511
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  • 2014/07/27(日) 18:41:15.98
那須国造碑は、拝観料1000円(少し前まで)  有料です。

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  • 2014/07/27(日) 20:06:34.93
武茂郷は、与一と頼朝が寄進したもの。
手放したいなら那須家と源氏の棟梁に返却するべきもの。
他家への譲渡は筋違い。
違うか。
腹を斬れ。

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  • 513
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  • 2014/07/30(水) 11:40:50.82
磐城出身で湯津上村の右京の門に店借していた旅僧円順は、里人から、
「永いこと大きな石が湯津上村の草むらに横たわっていて、文字がびっしりと彫
 ってある。それに腰かけたりすると人畜に大きな祟りがある」
という話を耳にした。
 旅僧円順からの話を聞いて放置しておくことも儘ならないと考えた重貞は、
さっそく湯津上村の大きな石に出向いたが碑文は苔むしていて判読できなかっ
た。丁度そのころの重貞は「那須記」第二巻を執筆中であったので巻末に事の
次第を書き加えた。
 天和三年(1683)六月七日、旧那須七騎の居城跡などを展望したあとに
武茂郷馬頭村に宿をとった光圀に、重貞は「那須紀」をご覧にいれ古碑の件を
言上した。
 そこで光圀は、侍臣の佐々宗淳介三郎(通称は介さん)に古碑の調査をする
旨を指示した。新井白石の協力も得た介さんの調査の結果、当時としては日本
最古の碑であることが判明したので貞享四年(1678)九月二十四日に光圀
は、武茂郷巡村のおりに碑堂の建設を小口村の重貞に命じた。
 しかし古碑の所在地は、天領と旗本領の交錯した藩外地であること等から思
いの外手間取り古碑の周り二反歩を水戸藩で買い上げて碑堂の建設に着工出
来たのは、元禄四年三月であった。
 碑堂の建設は、着工してしまえば早いもので同年十二月十八日に碑堂は完成
した。その落成式は、少し遅れて翌元禄五年(1692)四月に挙げられた。
 同年六月二十三日の巡村のおりに光圀は、武茂郷馬頭村の修験者百助(泉蔵
院)宅に泊まり百助の人柄を見た上で那須国造碑の堂守にすることを決定して
翌二十四日に詣でた地蔵院十輪時本院の寺号を馬頭院と改名した。
 翌二十五日に光圀は、碑堂の完成した那須国造碑に参詣して夜は武茂郷小口
村の大金重貞宅に一泊している。
 横たわり苔むしていたからであろうか、上代帰化人の関与も明らかと思われ
る永昌元年(689・持統天皇三年)と唐の年号で始まる全文八行、十九字詰
・百五十二文字の八溝山系花崗岩前面に薬研彫で刻字された碑文は風雪に耐
えて、1000年の眠りから目覚めて那須国造碑は蘇ったのであった。

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  • 2014/07/30(水) 18:06:33.93
西暦1017年に藤原道長の倉から砂金二千両が盗まれる事件有。
「日本鉱山史の研究」小葉田淳著・岩波書店発行
那須氏は、那須郡の他に白河郡の郡司でもあった。 一概に陸奥の砂金とはいっても今の福島県と宮城県を合わせたものではないだろうか。
とすれば那須氏は武茂郷の「那須のゆりがね」のほかに陸奥の金も関与していたことになる。
後年に那須家には藤原氏系の人が婿養子として入り、与一は藤原道長の七代目位の後裔になる。
はたして、那須家と藤原氏との密接な関係は、何時ごろから始まったのでしょうか。 ?

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  • 2014/07/30(水) 22:37:40.19
>>509
山上碑が681年
多胡碑が711年
金井沢碑が726年

この時代以前
全国10碑しかない石碑の中で
3碑が残存しているって凄いよな

日本文ってことも貴重
日本語の研究でも重要だし
当時の上野毛の文化の高さが
分かる

>>510
どっちも貴重だろw
何バカを晒しているんだよw

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  • 2014/07/30(水) 23:36:33.36
石碑を刻む文化を持ち込んだのは、新羅系渡来人だ。
大伴金村による任那4県の百済への譲渡、
そして、白村江の戦いで破れて、朝鮮半島の支配地を失った倭人の帰国。
高句麗、百済の滅亡と、唐による新羅の支配で、
行き場を失った王族、官僚、難民も大挙して日本に渡来した。
その受け入れ先が、毛野氏の支配地で未開の原野が広がっていた関東平野だった。
7世紀は、大化の改新と相まって、関東平野の大開拓時代の幕開けとなったのだ。

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  • 2014/07/30(水) 23:46:04.46
未開っつうか例によって浅間山等の噴火で壊滅状態に関東地方のとりわけ利根川上流部が定期的に壊滅状態になった直後のでしょ?

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  • 2014/07/31(木) 09:05:16.25
日本三戒壇
1、大和の東大寺    大仏様に塗布(金メッキ)されているものは、那須のゆりがねか。 ?
2、下野の薬師寺
3、筑紫の観世音寺

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  • 2014/07/31(木) 09:19:48.31
防人の歌
万葉集巻二十 天平勝宝七年(757) 大伴家持編 防人の歌は、93首が掲載されている。
このうちで、下野出身者のものは、十一首である。
上野出身者のものは、いくつなのかな。  ?

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  • 2014/07/31(木) 14:04:08.31
砂金採取と石材屋  陸奥国多賀城周辺は百済系  陸奥国白河地方と那須郡武茂郷は新羅系と思われる。

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  • 2014/08/01(金) 11:19:06.54
延宝元年8月23日に光圀は、勿来跡を皮切りに三度目となる領内北部(武茂郷と保内郷)の巡村を行った。
この時が一番躍動的であった。村々の山を登り、久慈川を帆立船で遡上しながら鵜飼や投網を堪能された。
陸に上がり9月2日は保内郷町付村の飯村宗雪宅に宿泊。領内北部では、飯村家が一番にくつろげるようであった。
光圀が堪能した鵜飼とは如何なものであったか。勿論、食べきれないほど捕れたであろう。使用している鵜は、
本場鵜の岬のものである。現在、二世誕生で盛り上がっている京都府宇治市のウミウの故郷は鵜の岬である。
翌日以降に光圀は、八溝山や鷲子山に登攀している。

        鷲の山やまより山へ入ぬれハそらふく風の音はかりして     西山

巡村が終えると光圀一行は、黒羽河岸から水戸へと帰路についた。那珂川を上り下りした多くの船は、小鵜飼船という。
その大きさは、長さ八間、幅が中ほどで六尺と光圀の上背位あり船底から船縁まで三尺五寸ほどで、炭俵であれば二百俵は詰めたという。
風の弱い日の遡上は、大変であったろう。

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  • 2014/08/01(金) 11:33:44.11
また朝鮮起源病がでたか

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  • 2014/08/01(金) 21:11:14.02
朝鮮起源病はバカ丸出し
歴史を捏造する下朝鮮そのもの

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  • 2014/08/02(土) 17:51:00.42
元禄十一年八月十日から十三日まで光圀は、武茂郷大山田下郷の石井長右衛門宅に四連泊という長逗留をして本格的な鮎狩りを行った。光圀は、
「長右衛門、そなたの言う通り旬の鮎は美味である、武茂川で自分で捕ったものを食して、いつ死んでもよい心境を会得したじゃあ。ワハハハハァ」
と哄笑された。
長右衛門宅を後にした光圀一行は、十四日に保内郷町付村の飯村宗興宅に到着。光圀は中秋の名月を清音楼からしばし眺めて「仲秋」という七言絶句をつくった。

光圀は食通で知られている。光圀が四連泊の長逗留をしたほどである。武茂川の鮎は格別なのだろうか。  ?                        鮎は今が旬

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  • 2014/08/02(土) 22:06:50.59
ピチピチの若鮎、おれも食べたい。
黄門様もお若いですね。

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  • 2014/08/03(日) 13:06:53.64
毛野氏に比べたら清和源氏やら桓武平氏なんて成り上がり

古代の日本各地で殺しまくってた毛野氏に対して
源氏も平氏も生まれてもないし、畑を耕してた集団

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  • 2014/08/03(日) 14:55:02.79
元治元年十月二七日から二八日には、諸生派追討軍伊藤辰之助率いる軍勢に対して、天狗党は武田耕雲斎自ら指揮して袋田側の麓から攻撃を続けたが地の利を得た追討軍は、
ほぼ真上から銃砲を乱射し、あるいは丸太を含む古風な岩石落としなどで果敢に攻撃してきた。天狗側は、この戦闘で何人かの死傷者を出すなど戦況利なく大子に引き揚げた。

国内戦における岩石落としの採用は、この時が最後と思われる。それでは最初とは何時だろう。   遥か古に毛野氏が用いたのだろうか。  ?

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  • 2014/08/03(日) 15:05:10.13
毛野氏こそ真のエンペラーだろ日本の

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  • 2014/08/03(日) 15:22:14.89
第二次大戦でロングボウで敵兵を殺したやつがいてワロス
リアルでロングソードとロングボウしか持ってない・・

ジャックチャーチル
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%AB

>1940年5月、彼の所属する部隊がドイツ軍と戦闘に及んだ際、
>ジャックは攻撃開始の合図としてロングボウで矢を放ち、敵の下士官を倒した。

>1943年7月、指揮官としてコマンド部隊を率いてイタリアのカターニアへの
>侵攻した際、ジャックの腰にはもはや代名詞となっていたクレイモアが下げられ、
>背中にはロングボウと矢が、手にはバグパイプがあった。

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  • 2014/08/03(日) 15:23:51.45
熱中症にお気を付けください。

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  • 2014/08/03(日) 16:36:43.44
>多胡碑が711年

特にこの碑は謎が多いんだよな

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  • 2014/08/04(月) 15:41:38.42
幕府の上野追討総括の田沼意尊からの追討命令を受けていた高崎藩兵は、元治元年7月9日に天狗勢から受けた急襲による屈辱的な敗走という汚名挽回のために、虎視眈々と天狗勢への攻撃の機会を窺がっていた。
11月15日の夜に高崎藩兵二百余名は天狗の見張り番を打ち破り、ついに十六日未明に小坂峠の天狗を襲い戦闘は開始された。ところが明るくなってきた頃に伊勢山の山上から攻めるという山口兵衛の立てた作戦により、
形勢は逆転して天狗勢は高崎藩兵を三方から包囲した。およそ二時間にわたる激戦で高崎藩兵は、またもや敗走した。この「下仁田の戦い」で高崎藩は、戦死三十六名、生け捕り十名という犠牲者を出した。
天狗勢では、野村丑之助と久保田藤吉、斉藤仲次の三名が戦没、丑之助は数えで十三才であり今ならば小学校六年生であったが果敢に奮戦したと伝えられている。 今の小学校六年生を撲殺して勝ったような気になるなよな。
極めつけは、不動院全海の遺体から肉片をはぎ取って味噌漬けにして食うなよな。 アッ、あれはお隣信州の人食い人種か。

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  • 2014/08/04(月) 16:03:30.83
天狗党に関連のある話か?

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  • 2014/08/04(月) 16:37:02.36
532
なにが謎が多いんだ?
藤原尊ってやつが設置した碑文てwikiにもあるけど?

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  • 2014/08/05(火) 15:51:37.50
那須国造碑や多賀城碑の建碑から砂金産出までには間がある。ところが秩父で銅塊を多胡羊太夫が発見した後になってから多胡碑が建碑されたことは、年号が和銅に改められていることから察しがつく。
建碑地は、新たに設けられた多胡郡である。従前には当然領主がいたことであろう。元の郡司は浅間山の噴火でお手上げ状態になってしまったのだろうか。元の郡司とは毛野氏系と思われる。
従って,多胡氏と争いを起こしそうな人は、毛野氏系とあらぬ讒言をしたという武蔵国高麗郡の高麗若光などに限定される。 しかし実際には雌雄を決するような争いは、無かったのではないだろうか。
現在、多胡という苗字の方は、高崎市を中心に大勢見受けられる。この事実から多胡氏は善政を施したように思えるのである。 碑文の最後の方にある藤原という苗字を見ると鳥肌が立つ人もいるのだろうか。 

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  • 2014/08/05(火) 19:46:24.16
碑文を作る文化って現代でも朝鮮半島には色濃く残ってるけど、
日本には残ってないよな

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  • 2014/08/05(火) 20:36:38.14
漢文が出来なくなったのでは。平仮名交じりでは格好悪い。

ここまで見た
  • 538
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  • 2014/08/05(火) 20:41:38.06
537
日本の各地を見て回ったことないのか?
神社なをの整備をしたときには寄付した
人などは記念に名前を掘っていくんだぞ

ここまで見た
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  • 2014/08/05(火) 20:46:21.82
碑文ていうのは何らかで有名な人がその地を訪れたときに
記念に作成されるものが多いんだよ

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  • 2014/08/05(火) 20:58:42.26
ハングル卑文w

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  • 2014/08/06(水) 07:02:39.31
速記ではだめか。世界一速い執筆時間。

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  • 2014/08/06(水) 07:09:15.40
烈公斉昭の専売特許である神発仮名という暗号文もあるぞ。

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  • 2014/08/06(水) 22:10:09.65
句碑

     木啄も庵は破らず夏木立    芭蕉翁

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  • 2014/08/08(金) 00:57:44.09
三碑には毛野氏がでてこない
毛野氏は前橋・高崎に天武期にはもういなかったのでは?
前橋総社の山王廃寺=放光寺が佐野氏?の寺院ってことになってる。
物部氏系統らしい。

前橋・高崎の古代の石碑からは毛野の毛の字も出てこない。
前橋の総社にある古代寺院は毛野氏関連ではないらしい。
物部は580まで絶頂期で、その後衰退。
前橋が物部関連=石上氏としたら、580以降はそのまま残ったか
別の新興豪族に取られたか、

何にしても前橋総社からは6世紀以降毛野氏の痕跡が見られない。
3つもあるんだから、毛野氏関連のことが1つくらい書いてあってもよさそうなのにな。

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  • 2014/08/08(金) 01:24:10.79
>この中で、小杵の敗死とともに上毛野に緑野屯倉が設けられ、その勢力が大きく削がれたと推測されている。

「武蔵国造の乱で上毛野氏がヤマト王権に討たれた」とあるが
磐井の乱と同一の事件とすると、中央派遣の軍隊は物部氏だったと見られ
当然「領土が欲しいから侵略してくる」わけで

500年代に中央で権力を持った物部氏に上毛野の領地の西部=前橋・高崎がかなり分捕られたと思われ。

武蔵の豪族との抗争で上毛野氏が負けた
ヤマト王権派遣軍(物部氏?)に上毛野氏が負けた

どちらのパターンでも上毛野氏の領地がかなり取られたものと思われる。
(上毛野氏は勝者ではないので)
前橋総社に上野国府があった! と言っているが、
国府が前橋総社にあるにしろないにしろ、それが上毛野氏の支配権だったかどうかは別。

上毛野氏関連の文献は豊富だが、群馬での拠点地域の確定ができてない。
上野国府・上野国分寺に関連した豪族が毛野氏であったかどうかも未定。

4世紀(350〜500)には毛野氏だったか、初期ですら領地がなかったか。

ただし上毛野氏は下毛野氏(栃木)とも血縁なので、
前橋を取られたにしても、軍事力は関東随一だったらしい。
上毛野形名637 蝦夷討伐将軍

上毛野稚子663 白村江の戦いに参加

ここまで見た
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  • 2014/08/08(金) 01:36:59.58
下毛野氏はなぜか将軍とかも500〜600年代に出てこない。
ここは領地は実質毛野氏だったのか。
「蝦夷討伐」してるから栃木通ったはずで、
武蔵国造の乱のいちゃもんで分捕られた群馬西部を除く栃木までの広い範囲が

上毛野形名637 蝦夷討伐将軍

上毛野稚子663 白村江の戦いに参加

の領地だったのかな。

700以降は下毛野氏も自立の動きが見られてくる。

「確実に毛野氏の氏寺だった」のが確定してるのは群馬にはなく
栃木県下野市の下野薬師寺くらいか

というか、前橋に毛野氏がいたのかどうかが不明ですね。
534以降は栃木方面にかけてむしろ活動している。

534上毛野小熊までは前橋・高崎も勢力圏かと、

武蔵国造りの乱は、
なかよく東国で暮らしてた毛野氏と毛野と仲がよかった武蔵の首長の笠原氏だったが
笠原の兄弟争いを幸いにと介入してきた領地がほしかったヤマト王権の何かの豪族が=たぶん物部氏
領地を分捕ってこようとしたので、「よそ者が来るな!」と上毛野氏と武蔵の豪族とで連合で戦ったが
ヤマト王権の軍隊にやられちゃって、講和で、領地をかなり差し出したとみる。

磐井の乱とほとんど同じ構造だろ。乱というかどっちが乱なのかと。
侵略者はどうみてもヤマト王権の変な侵略豪族だな。

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  • 2014/08/08(金) 01:41:17.69
528磐井の乱
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%90%E4%BA%95%E3%81%AE%E4%B9%B1
なお、『筑後国風土記』には「官軍が急に攻めてきた」となっており、
また『古事記』には「磐井が天皇の命に従わず無礼が多かったので殺した」と
だけしか書かれていないなど、反乱を思わせる記述がないため、

534 武蔵国造りの乱
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E9%80%A0%E3%81%AE%E4%B9%B1

ほとんど同じ時期の磐井の乱=「官軍が急に攻めてきた」と同じだとすれば
乱を起こしたのは毛野氏小熊でもなんでもなく
ヤマト王権の物部氏だとおもわれる。

保険金殺人をしたのは保険金を受け取ったやつなように
「毛野の領地を分捕って得をしたのが犯人」=物部氏犯行説だな。

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  • 2014/08/08(金) 01:46:46.66
198 上毛野西部と物部氏
http://blog.goo.ne.jp/sadalon/e/aa6a475493f41f4044c6fe9bdd5122c0
 上毛野西部の氏族が物部氏と結びついた、という仮説は『続日本紀』にある2つの
記事からうかがうことができるのです。

 『続日本紀』の天平神護元年十一月の記事に、
「上野国甘楽郡の人中衛物部蜷淵ら五人に物部公の姓を賜わる」

石碑からも物部氏の痕跡が・・

 高崎市山名町に金井沢碑と呼ばれる古碑があります。
 国定特別史跡に指定されており、山ノ上碑、多胡碑とともに上野三碑と呼ばれている
もののひとつです。
 これには、上野国群馬郡下賛郷高田里の三家氏(みやけ氏)の子孫らが七世の父母と
現在の父母の為に、仏に祈り、天地に請願し仕え奉る、という内容のことが刻まれて
いますが、この子孫の中に、物部君午足と磯部君身麻呂の名があるのです。
 ここでの物部氏と磯部氏は三家氏の一族ということになります。


「物部氏の関東侵略説」が有力だな、まあ保険金をもらったのが物部氏のようだしな。
まったくいいがかりもいいとこだ。
わけのわからん理由で関東を攻められれば上毛野氏が武蔵と連合組んで守るのは当然だろ。

「毛野氏領地の群馬西部は534にわけのわからん連中に分捕られた」が歴史の真相だな。

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  • 2014/08/08(金) 13:23:51.69
武蔵国造の乱と磐井の乱は別事件のような気がする。朝廷から見れば陽が昇る方と沈む方になる。全く逆方向。

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  • 2014/08/08(金) 14:01:07.32
上毛野形名の遠征経路について    勿論、今の青森県までは行ってないであろう。  それでは目指すべき東北の中心地は西暦637年当時はどこか。
おそらくは、今の福島県棚倉町であったろう。そこにはそこの蝦夷の酋長がいたはすである。 今であれば白河関を越えて東に向かえば良い。
しかし当時の移動手段は馬か徒歩であるのて那珂川町東部の境の明神峠を経由する方法と常陸国南部から北上していくパターンの三径路から一つの選択なる。
私は、上毛野形名の遠征経路は常陸国南部からの北上と考える。つまり久慈川沿いを北上して焼山関を越えるとそこは陸奥である。そこには昔、関戸神社があった。
形名の遠征は、今の茨城県大子町の焼山関から福島の棚倉の間であったろう。  従って、下野国を通らなかったことも考えられる。

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