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  • 2012/02/12(日) 13:53:51.69
古の昔、関東から東北にかけて毛人(縄文人)の巨大な日本王国があった

この日本王国は大和朝廷が興るより早く衰退期を迎える
この文明が衰退した原因は急激な気候変動によるものと考えられている

日本王国は衰退の過程で複数の部族に分かれたが、その中で大和朝廷と婚姻関係を結ぶことで
有力豪族となった一族がいた、毛野氏(けぬうじ)族である

毛野氏族は、崇神天皇皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の子孫を自称している
が、実際の祖は景行天皇の孫である御諸別命(みもろわけのみこと)のようだ

毛野氏の勢力範囲は、両毛を中心として、常陸西部・武蔵北部に及んだ
この一族は武門に優れ、朝廷の命により東北の蝦夷を討伐し経営、朝鮮半島にも出兵している
勇敢な縄文の血を引く毛野氏族は、後に新田氏や足利氏といった坂東武士の誕生に大きな役割を果たすことになる

このスレはいまだ謎の多い毛野氏族を研究することにより、
「坂東武者1人は、よその武者8人に匹敵する」「武士の本場は坂東(関東)」と言われるほどになった
坂東武者の強さの秘密と幻の日本王国の全貌に迫ろうという壮大なスレである
ふるってご参加ください


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  • 2014/05/14(水) 18:20:43.98
境明神峠の那須国側には、どんな人が住んでいたのか。  ?
残念なことに千年以上前のことは、何もわかりません。ただし峠の西側には、多部田村という古式ゆかしい村がありました。峠から西に一里半程の所には健武山神社があります。水戸藩の名医と呼ばれた原南陽という方の門人となり筆頭扱いれた方は、この多部田村出身です。
その方の次男坊が有名な都々一坊扇歌になります。昭和になってから、旧同村からは東京弁護士会会長も輩出されています。とにかく辺境でありながら、それを感じさせない自由闊達な人物が多く見受けられます。

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  • 2014/05/16(金) 14:31:56.57
那須騎馬軍団の馬蹄音は奥州路に轟く
遅くとも西暦766年までには北方の王者としての地位を那須氏は確立していた。今の西郷村、白河市、棚倉町、塙町、茨城県大子町を疾風迅雷の勢いで疾走していた那須騎馬軍団は、やがて北に向かい縦横無尽に陸奥国府を目指した。間もなく新たに多賀城は竣工した。
ここに那須氏は、那須官衙と白河官衙および多賀城と三か所の覇権を確立して北方の王者としての地位は不動となった。平成24年頃に宮城県多賀城跡調査研究所によって多賀城跡で発見された那須直広成と記された木簡がその証左である。ただしその後朝廷からは、
征夷大将軍坂上田村麻呂や八幡太郎義家が派遣されるなど奥州の政情は決して平和が訪れたと言えるものではなかった。紆余曲折を経て、やがて北方の王者としての地位は藤原清衡に取って代わることになった。そして桓武平氏、清和源氏、奥州藤原氏らの雌雄を決する
三つ巴戦は、佳境をむかえる時代へと突入してゆくのであった。この時すでに那須騎馬軍団の影響を受けた坂東武者達は、その姿を変えていた。

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  • 2014/05/16(金) 14:55:58.93
軍記物好きだねえ、、、

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  • 2014/05/16(金) 15:50:36.83
通信技術の変遷
今日では多くのものが携帯電話を所持している。ところが古代には、そんなものはありもしない。明治十年の西南戦争においては打電という通信技術によって戦争は情報戦ともいえる様相を呈してきたことは皆が知るところである。
それでは奈良朝期には何が変わったのか。のろしを上げたり法螺貝を吹いたりすることに加えて伝書鳩を利用した通信手法が新たに導入されたのである。確証はないけれど奈良時代に伝書鳩を取り入れたのは間違いないようである。
ならば、白河官衙と多賀城間で活用されたと考えるのが自然である。私の生家は境明神峠と同緯度にある。北海道で放たれた鳩が生家の鳩舎に戻って来たのを確認しているで飛行距離は問題ないと思われる。朝廷と多賀城間の飛行も
伝書鳩はできる。ただしこの場合には、朝廷で生まれ育った伝書鳩を事前に多賀城に運ぶ必要があるので現実的ではないかもしれない。しかし少なくとも奈良時代に白河官衙と多賀城間で使用されたであろうことを、私は信じて疑わない。
鳩の足つける紙縒りと小さい文字用の細い筆は既にあったと思われる。この頃から坂東武者たるもの難しい漢字の読み書きは朝飯前の時代になったと思われる。どうしても無理なものは淘汰されていったのかもしれない。抜群の戦術家は
別として。文武両道という考えは、伝書鳩を導入した頃に育まれたのかもしれない。  

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  • 2014/05/16(金) 16:13:19.11
私は軍記物は嫌いである。役所で発行された真面目な史書を読んでいる。

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  • 2014/05/18(日) 11:06:46.48
北方の王者について
那須氏の北方の王者と奥州藤原氏の北方の王者とでは、内容が少々異なる。那須氏のそれは朝廷からの命を受けて職務を全うしたものである。一方、奥州藤原氏のものは自らの野心を実現するために独立政権を打ち立てたのではないかと強く感じるのである。
また、両者の地域は殆ど重複しない。那須氏が北方の王者として君臨したのは今の茨城県大子町、福島、山形、宮城であり奥州藤原氏が蟠踞したのは今の岩手、秋田、青森に毛が生えた程度であると思われる。奥州藤原氏の勢力が白河郷まで南下してきた痕跡は全くない。
もしも実際に南下してきたのであれば、あの那須騎馬軍団が黙って見過ごしていることなどありえないと思えるのである。  これは吾妻鑑トリックではないか。奥州全域に広がる藤原氏の勢力を一蹴したという頼朝の功績を美化するための秘策であったと思えるのである。
ただ、そんなことはどうでも良いのかもしれない。いずれにしても武士による確固たる鎌倉政権が樹立されたことは紛れもない事実である。

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  • 2014/05/20(火) 15:35:30.16
縄文人成りすまし工作スレ

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  • 2014/05/20(火) 17:19:42.63
那須騎馬軍団の陸奥国内における活動期間について
古墳時代末期の西暦550年頃から平安時代初頭の1050年頃の約五百年とみる。

理由1 白河国の国造は、那須国の国造が兼務することになった。
理由2 「左経記」長元七年(1035)12月15日の条に白河団
      (那須騎馬軍団とは、ほぼ一心同体)の記載がある。
理由3 那須氏側から見れば北からの脅威はなく、陸奥国府側から見れば
    南からの脅威は那須氏と岩城氏くらいになったこと。

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  • 2014/05/21(水) 13:59:40.41
陸奥国風土記白河郡   郡家 泉崎村

郡家の南を逢隈川が流れ舟の往来甚だし又南に通る唐山道は下野国と国府多賀城を結ぶ
古より白河大領那須臣の治める地なり川の南に大領の始祖たる白河国造の墓ありて近くに寺あり

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  • 2014/05/22(木) 09:30:34.79
大野東人と白河大領那須臣との共通項

1、 日本三大古碑に縁がある。
2、 多賀城の建設に向けた情熱は波はずていた。
3、 同時期に二人は共に奥州にいて、しかも会っている。
4、 先祖は共に那須国と思われる。
5、 家柄は那須臣の方が遥かに良いと思われるが熱き友情で結ばれていた。
6、 その他数知れず。

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  • 2014/05/22(木) 11:06:56.47
歴代陸奥国士(任期制)

上毛野小足・上毛野安麻呂・上毛野広人・大野東人・百済王敬福・佐伯全成・藤原朝狩・田中多太麻呂・石川名足・石川名足・佐伯美濃・大伴駿河麻呂・紀広純・大伴益立・紀古佐美・内蔵全成
大伴家持・多治比宇美・多治比浜成・坂上田村麻呂・佐伯清岑・佐伯耳麻呂・小野岑守・坂上当道・良岑経世・小野春枝・安倍貞行・平維扶・平貞盛・藤原実方・源満政・源忠重・藤原登任・源頼義
藤原良経・源頼俊・源(八幡太郎)義家−−−−−−

このうちの上毛野広人は、養老四年(720)9月28日に蝦夷によって殺害されたという。当時の国府にあった建物は跡形もなく焼け落ちていた。

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  • 2014/05/24(土) 11:48:36.72
陸奥国の発展拡大に非協力的だったと思われる石城国(常陸国菊田郡を含む)浜通りの人々

理由1   養老二年(712)に陸奥国は三分割されて陸奥国・石城国・石背国になっている。
理由2  それは数年で元に戻っている。
理由3  陸奥国に七番目の軍団として、やっと最後に配置されたのが磐城軍団である。
理由4  古に陸奥にいた正式な国造は、白河、安積、石城の三か所である。
理由5  岩城氏は、常陸国北部の国造も兼務していた。
理由6  よって軍団の配備は、もう少し早いことが求められた。  

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  • 2014/05/24(土) 14:07:56.63
坂東武者の精神統一

各地から馳せ参じた坂東武者達が一つの目標を定めて奮い立ったことはいく度もあることであろう。
北条政子一世一代の名演説に坂東武者達が奮い立ったのが何度目になるかなど知る由もない。
けだし、上毛野広人の零を弔う際に集まったと思われる坂東武者達が定めた誓いにも奮い立ったに違いない。
それは史上初めて坂東武者達の精神が一致した時てはなかったのかと思えるのである。

そのころの夜空に浮かぶ星々は神々しく三ツ星も北斗七星も鮮やかに輝いていた。赤、青、黄、白、橙と星々の色分けも肉眼で判別できる程であった。

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  • 2014/05/25(日) 16:59:24.24
毛野氏が当初は絶大な力量を発揮したと思われる古代陸奥国とは

北は津軽海峡の方に徐々に伸びていったと思われる。南の白河関跡は固定している。境ノ明神峠については、「特徴のない峠だなあ。標高は低いし、どうしてここが日本名峠100選なのか」と疑問を呈する方が多いようだ。
およそ95%の方は、ここが陸奥国であったことを知らないようだ。今の茨城県大子町である。元の名称は保内郷と言った。それ以前は、依上(保)である。それでは依上(保)の南端部はどこになるのか。
つまりそれは、陸奥国と常陸国の国境になる。ここ最近では有望な見解は出ていない。従って今の茨城県久慈郡大子町頃藤6503番地にある関戸神社の近くにあった焼山(たきやま)関が国境ということで落ち着きそうだ。
東海道の勿来関跡は今の場所で良いのだろうか。どう見ても後から取って付けたようである。 菊田郡とは常陸国にあったはずである。私は国境は鮫川(実際の川)ではなかったかと見る。国境の川である。
それに並び常陸国多珂郡の一部にも不明な点が多い。いずれにしても今の勿来関跡は、観光地として賑わうようにと新しく設けられたと考えた方が良さそうだ。
今の茨城県民はまとまりが悪いとよく言われる。こんなところにも原因があるのだろうか。゜

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  • 2014/05/26(月) 17:19:51.13
かつては、お勤めご苦労様でした。(順不同)

1、 白河軍団
2、 安積軍団
3、 名取軍団
4、 行方軍団
5、 玉作(丹取)軍団
6、 小田軍団
7、 磐城軍団
飛び入り参加 那須騎馬軍団

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  • 2014/05/27(火) 06:46:36.22
毛野氏と奥州藤原氏をごっちゃにしてるのが多い。
毛野氏は古墳時代から勢力を拡げ分派活動がさかんになる。
律令時代にも個々の氏族は勢力を維持する。
藤原氏は、詳しい時代は不明だが、平安京に都が移ってから、
下級の藤原氏の分派が奥州に土着した。
源平氏族の分派が関東、そして東北へ移住したのと同じ。
で、奥州藤原氏は財力(金)をもとにして、
急速に中央貴族(主に同族の藤原上流貴族)と繋がって(取り入って)
一種の治外法権みたいな強大な権力を築いた。
平氏を滅ぼした源頼朝にとっては、
目の上の瘤みたいな奥州藤原氏を滅ぼさなければならなかった。
そのために、「征夷大将軍」の位はどうしても必要だった。

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  • 2014/05/27(火) 12:40:27.12
陸奥国白河領の推移
平安時代中期頃まで          那須氏  白河軍団を置く。
平安時代中期以降           後白河院御領 それを別当である藤原信頼が知行する。
平治の乱(首魁は藤原信頼)の後   平重盛(清盛長男)の領有する荘園となる。(小松内府)
源平合戦を経て奥州征伐後      結城朝光の所領となる。朝光の孫裕広が実際に居住して初代白河結城氏となる。

よって奥州藤原氏の権勢が東北全域に及んだというのは、吾妻鑑トリックであると思われる。
白河領が那須国造家の手から離れたのは、藤原氏系の方が那須国造家に婿入りしたからでしょうか。
あるいは、白河だから後白河院の御領にすべきであるという単純明快な話でもあったのでしょうか。?
 

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  • 2014/05/27(火) 17:22:26.27
那須家の家紋は、菊一か一菊かの論争にについて

那須家の家紋については、三十二菊に一文字であることを私は信じて疑わない。
まず家紋から那須氏は大臣命を祖とする国造系武将であることを自他ともに認めていた事が分かる。
那須氏は皇室の家紋を知っていたことが分かる。南北朝期に南朝では十六弁菊を採用した。ところが、
その時に那須氏は北朝方についたのである。北朝の紋は三十二弁菊(十六弁八重菊八重菊)である。
従って、江戸時代に作成された那須家系図の見返し部分に描かれている紋は正しいということになる。
三十二菊に一文字で決着がつきそうだ。
なお、那須与一が生まれ育ったのは、今の那珂川町にあった神田城である。那須与一や那須氏をPRするのは、
那珂川町や那須烏山市の仕事であると思われる。大田原市は、大田原氏や大関氏のPRに専念すべきである。

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  • 2014/05/27(火) 23:20:45.85
任那と那須氏の関係と論じた人は少ないが、
任那4県が百済に譲渡された後、任那の民は日本に帰国している。
かれらは、渡来人や帰化人ではなく、満州開拓団がロシアの満州侵攻で帰国したのに近い。
そして、任那の代わりに与えられた地が毛野の支配地の北の不毛の大地だ。
彼らは、儒教の教えに従い、那須国造り碑を建て、開拓者たる祖先を称えたのだ。

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  • 2014/05/28(水) 00:05:12.20
相変わらず変なこと言ってんなあ

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  • 2014/05/28(水) 18:57:00.12
那須がゴビ砂漠のような不毛の大地だったとは思えない。また、里帰りについても対馬を含む九州であるならば考えられる。しかし那須は九州ではない。飛鳥時代の那須には、すでに豊かな水田地帯が広がっていたと思われる。
北から黒川、大野、那須、石上、方田、三和、山田、武茂、大筍、熊田、全倉、大井の12郷である。さらに塩谷郡ほかも那須国であったと思われる。那須12郷の北から二番目の大野郷は大野朝臣の何代か前の故郷であろう。
確かに今の那須塩原市や大田原市の一部は農耕に適さなかったかもしれない。しかし代わりに狸、狐、猪、雉、山菜などの山の幸に恵まれていたのである。自然と弓の取り扱いにも長けていったと思われる。
しかし何よりも当時は川の恵みが想像以上であった。天然岩魚、虹鱒、山女、鮎、蟹、川エビ、今では殆んどいなくなった天然ウナギなど食べきれないほどいたのである。昭和の初めごろまでは竹で編んだ罠を仕掛けておくと、
翌日には丸々と太った天然ウナギが二三匹入っていたようである。栃乙女はなくても野イチゴはあったであろう。私はかなり食べている。このような銀シャリに丸々と太った天然ウナギや岩魚を腹いっぱい食べられる場所を、
不毛の大地とは呼ばないであろう。大地が豊かであることは那須地方に住む人々の体格の良さに表れている。体格が良いから警察官になる人が多いらしい。少し前に朝青竜と優勝争いをしたのは黒羽出身の方だったと記憶して
いる。十年ぐらい前に那珂川町で縄文時代の食卓を再現したところあまりにも豪勢で驚いたそうである。飛鳥時代は、さらに豊かであったに違いない。

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  • 2014/05/29(木) 10:05:16.30
仮に任那の民が里帰りしたのであれば、彼らに与えられた任務は那須国のことではなく、北に位置する白河のことであったろう。彼らの何代か後のものは、神亀五年(728年)に配置された白河軍団の要員として派遣されたであろう。
その頃の那須氏は、殆ど北の方を見ていたように思える。元任那の民達の子孫は、陸奥国の発展拡大に貢献したことになるのだろうか。

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  • 2014/05/31(土) 12:57:18.37
斬首秘話

平治元年(1159)に藤原信頼の精神構造は奥州藤原氏に近いものになってしまった。結果として12月27日に斬首となった。これは藤原仲成の射殺依頼の死罪で貴族としては349年ぶりの出来事であった。
明治の初頭ごろに初代司法卿(今の法務大臣)の江藤新平は、「晒首は欧米から野蛮であるとの指摘かあるから止めようではなないか。また極悪人の逮捕に有効だから指名手配写真を活用しようではないか」
と提案していたところ佐賀の乱の首魁とされてしまった江藤新平は全国指名手配写真適用第一号になってしまった。そればかりか野蛮な晒首となったのである。その少し前の慶応から明治に年号が切り替わろうと
する頃に元新選組の近藤勇も三条河原あたりで晒首になっている。その首級を運んだのは水戸藩士の北島秀朝とされているが、これは誤りである。
下野国那須郡大山田下郷で生まれた北島秀朝は神官である。戊辰戦争の際は東山道軍大監察として板橋宿に入った。その後に北島は江戸鎮台府の判事になるわけですがその前に今後の新政府の方針やら
東京遷都の打ち合わせで上京しなければならない事情があったのである。上京するに際して、たまたま焼酎(火酒)漬けになった近藤の首級があるということから管理をしていた岡田藩士らは北島と同道することになった。
このために岡田藩士らの件が省略されて水戸藩士の北島秀朝が近藤勇の首級を運んだと信じている輩がいるのである。北島は、下野国那須郡大山田下郷の篠尾神社の長子である。藩士でもありません。
もっとも北島は、江戸勘定奉行や評定所の引継ぎを率先垂範して行っているので中々の人物であったと思われる。和歌山県令、佐賀県令、長崎県令を歴任したことは周知の通りである。

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  • 2014/06/03(火) 09:35:00.20
北島秀朝が命名した村名

初富 二和 三咲 豊四季 五香 六実 七栄 八街 九美上 十倉 十余一 十余二 十余三
那須高原を吹き抜ける清らかな風のようではないだろうか。県令時代には、
若き総理大臣候補として伊藤博文等よりも評価の高かったクリーンな北島秀朝にダーティーな仕事を押し付けないでくれ。
武士は幽霊にはなれない。爽やかに散るものである。名前を変えた新撰組を壊滅させるために先陣を切ったのは板垣退助率いる土佐軍であったであろう。
熱狂的新撰組ファンは、板垣退助や大軍艦の香川敬三および大監察の北島秀朝を殺したいと彼らの後裔を訪ねて直接告げればよい。
今現在に至っても、水戸天狗党や薩長土肥を誹謗中傷する人々は、仕切り直しをして今一度国内戦をしたいのだろうか。 ?

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  • 2014/06/03(火) 10:05:49.14
よしやろう

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  • 2014/06/03(火) 13:51:16.82
よしやろうという方へ
宮内庁か貴方につかなければ、貴方は逆賊ということになりますが。 ?

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  • 2014/06/03(火) 16:38:18.18
毛野氏と三毛入野命って名前似てるけど、関連性あるのん?

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  • 2014/06/03(火) 17:05:34.11
岡田藩関係者へ

近藤勇の太刀取りの際に賞金を受け取っているのであれば最後まで責任を持って頂きたい。
今のままですと、水戸藩士の北島秀朝が昼夜兼行で京まで運んだことになっています。中には岡田藩士の北島秀朝なるものも見受けられます。
思うに、焼酎(火酒)入りの樽は水分を含んでかなり重い。二人で運んだとしても交代要員を考えれば総勢少なくとも六人はいたであろう。
その後まもなく仇討禁止令も出来たわけですから、早急に岡田藩関係者は事実を告げるべきである。

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  • 2014/06/03(火) 17:17:03.67
毛野氏のなかで三毛猫をペットにしていたものの愛称である。そんなわけないか。
皮を剥がされて三味線にされないよう気を付けてください。

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  • 2014/06/06(金) 17:21:20.03
北島秀朝の奇行

北島秀朝は、花見客で賑わう桜並木の下に純白の浴衣を着て時々現れた。
そこで抜身の大槍をおっびろげて人々を驚かしたそうである。
何となく何処かにピストン堀口に似た毛野魂が感じられないでしょうか。 ?
廃刀令が出る前の北島が東京府大参事(副知事)で、和歌山県令に赴任する前の頃と思われます。

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  • 2014/06/09(月) 09:44:46.89
近代人物側面観 有耶無耶山人著 131頁  北島秀朝

「難行苦行机に齧り付くばかりが、人間の目的ではあるまい、それには気の飢えないように、余裕と言うことガ必要だ、
  白い浴衣を着て花を見る、余り褒めた話ではないが、其の意気の爽快なるに至っては、好漢愛すべしだ」

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  • 2014/06/09(月) 23:29:46.96
小山氏って政光の代まで武蔵に住んでいて、
政光が小山に来たってなってますが、
これって本当なんですか。
いきなり来て、そんな勢力もてるんですか。

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  • 2014/06/10(火) 00:46:24.19
だから、地元の族がそうかたって自称したんだろ

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  • 2014/06/10(火) 01:21:11.34
>>333
じゃあ秀郷の子孫ではないと

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  • 2014/06/10(火) 17:46:32.48
源氏の棟梁が頼朝なら、藤原秀郷末裔諸氏の棟梁は小山氏。
頼朝の乳母は、宗円(宇都宮氏の祖)の孫娘(宗綱の娘)  彼女は小山政光の後妻となった。
そして小山三兄弟の末っ子となる朝光を生んだ。  初代結城氏である。
小山三兄弟の活躍もさることながら、根底には頼朝、宇都宮氏、小山氏の三者による固い絆があった。
朝光の名付け親は、朝という字から頼朝のような気がする。

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  • 2014/06/10(火) 18:31:18.27
地元の英雄秀郷に憧れる無名氏族がでっち上げたのでは

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  • 2014/06/10(火) 19:53:49.37
>>279
そう思う

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  • 2014/06/10(火) 20:02:15.31
毛野氏も京都あたりには仮称が多いんだってね

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  • 2014/06/10(火) 20:19:38.98
小山政光(太田政光)は、自分は藤原秀郷の末裔であると吹聴していた痕跡は全くない。
誇り高き鎌倉武士でも冗談を言うことはあったであろう。しかし真面目に嘘をついたのであれば即断頭をしてもよい時代である。
小山氏以外の鎌倉御家人の目が節穴だったとは思えない。
武蔵国の在庁官人であった太田氏は、すでにかなりの人望があったと思いますが。当然、先祖の墓ぐらいはあったことでしょう。
小山氏を批判したいようですが、身内で誰か問題児でもいたのでしょうか。

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  • 2014/06/10(火) 22:33:10.25
藤原秀郷流太田氏については、久喜市史や鷺宮町史に詳しく乗っているらしいですよ。
私は全く関心がありませんが。

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  • 2014/06/10(火) 22:35:20.98
>>339
やはり秀郷とは無関係でしたか

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  • 2014/06/10(火) 23:04:53.56
小山氏は何代にもわたり、下野権大介職を相承している。

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  • 2014/06/11(水) 02:48:14.49
太田氏は、朝鮮半島の大田から渡来した大胡。大月氏だ。
多胡碑を読めばわかる。

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  • 2014/06/11(水) 02:49:36.73
くに(といっても朝鮮ではなく中央アジア)に帰れ。

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  • 2014/06/12(木) 16:12:07.82
誰が何と言おうとも鎌倉時代に小山氏や宇都宮氏は下野の名門になっている。
但し、足利氏の方がワンランク上だったらしい。
その足利氏は、室町時代に終わっていると認識されている方が多いようだ。
ところが江戸時代に足利氏は、喜連川公と名前をかえて人望を集めるのであった。
特に弓道に長けていた方がいたらしい。

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  • 2014/06/12(木) 17:45:09.48
小野猿丸大夫、藤原秀郷
昔から両毛の英雄は弓に長けていたんだな。
両毛の英傑は源姓足利氏も含めみんな元は毛野氏なんだろうが。

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  • 2014/06/12(木) 19:05:43.04
毛野氏には都人の香りが漂う。方々の国司を勤めていても任期がくれば都に帰るのである。
庶流が増えるためには平安末期ごろからの地盤に密着した泥臭い田畑の開発が必要だったのである。
那須氏でさえ与一兄弟が分散するまでは600年以上で2氏族しか増えていない。猿田氏と芦野氏。
都人の中央官人である毛野人は、泥臭い開発領主にはなれなかったのではないだろうか。

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  • 2014/06/12(木) 21:16:40.36
ところがその太田氏、日本で幅利かせている。
筋肉質のデブだから貫禄のあるやつが多いし、
ワカタケル(雄略)を補佐した大彦、
東日本最大の太田天神山古墳を造った太田氏、
江戸城を造った太田道灌など、関東の土豪として
今もそれなりに勢力を維持している。W

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  • 2014/06/12(木) 21:52:01.13
太田胃散飲みたくなりそうだ。

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  • 2014/06/13(金) 06:28:43.88
北関東に「酒に弱いタイプ」多いのも、
早くに朝廷が進出した結果かな。

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  • 2014/06/13(金) 06:39:10.02
猿田彦とか猿女君とか小野氏が関係ありそうだね

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