facebook twitter hatena line google mixi email
★お気に入り追加


  • 1
  •  
  • 2011/07/20(水) 23:59:13.91
ニーチェ保守主義とは、いうなれば民族主義とニヒリズムによって
永劫回帰=永続維新を実現するという保守思想の考えである。





ここまで見た
  • 163
  •  
  • 2011/12/22(木) 14:18:40.04
昭和三十六年、私がパリにゐたとき、たまたま日本で浅沼稲次郎の暗殺事件が起つた。浅沼氏は右翼の十七歳の
少年山口二矢によつて短剣で刺殺され、少年は直後獄中で自殺した。このとき丁度パリのムーラン・ルージュでは
Revue Japonais といふ日本人のレビューが上演されてをり、その一景に、日本の短剣の乱闘場面があつた。
在仏日本大使館は誤解をおそれて、大あわてで、その景のカットをレビュー団に勧告したのである。
誤解をおそれる、とは、ある場合は、正解をおそれるといふことの隠蔽である。私がいつも思ひ出すのは、
今から九十年前、明治九年に起つた神風連の事件で、これは今にいたるもファナティックな非合理な事件として
インテリの間に評判がわるく、外国人に知られなくない一種の恥と考へられてゐる。
約百名の元サムラヒの頑固な保守派のショービニストが起した叛乱であるが、彼らはあらゆる西洋的なものを憎み、
明治の新政府を西欧化の見本として敵視した。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より

ここまで見た
  • 164
  •  
  • 2011/12/22(木) 14:19:05.71
電線の下を通るときは、西洋の魔法で頭がけがれると云つて、頭上に白扇をかざして通り、あらゆる西欧化に
反抗した末、新政府が廃刀令を施行して、武士の魂である刀をとりあげるに及び、すでにその地方に配置された
西欧化された近代的日本軍隊の兵営を、百名が日本刀と槍のみで襲ひ、結果は西洋製の小銃で撃ち倒され、
敗残の同志は悉く切腹して果てたのである。
トインビーの「西欧とアジア」に、十九世紀のアジアにとつては、西欧化に屈服してこれを受け入れることによつて
西欧に対抗するか、これに反抗して亡びるか、二つの道しかなかつたと記されてゐる。正にその通りで、一つの
例外もない。日本は西欧化近代化を自ら受け入れることによつて、近代的統一国家を作つたが、その際起つた
もつとも目ざましい純粋な反抗はこの神風連の乱のみであつた。他の叛乱は、もつと政治的色彩が濃厚であり、
このやうに純思想的文化的叛乱ではない。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より

ここまで見た
  • 165
  •  
  • 2011/12/22(木) 14:19:35.19
日本の近代化が大いに讃えられ、狡猾なほどに日本の自己革新の能力が、他の怠惰なアジア民族に比して
賞讃されるかげに、いかなる犠牲が払はれたかについて、西欧人はおそらく知ることが少ない。それについて
探究することよりも、西欧人はアジア人の魂の奥底に、何か暗い不吉なものを直感して、黄禍論を固執するはうを
選ぶだらう。しかし一民族の文化のもつとも精妙なものは、おそらくもつともおぞましいものと固く結びついて
ゐるのである。エリザベス朝時代の幾多の悲劇がさうであるやうに。……日本はその足早な、無理な近代化の歩みと
共に、いつも月のやうに、その片面だけを西欧に対して示さうと努力して来たのであつた。そして日本の近代ほど、
光りと影を等分に包含した文化の全体性をいつも犠牲に供してきた時代はなかつた。私の四十年の歴史の中でも、
前半の二十年は、軍国主義の下で、不自然なピューリタニズムが文化を統制し、戦後の二十年は、平和主義の下で、
あらゆる武士的なもの、激し易い日本のスペイン風な魂が抑圧されて来たのである。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より

ここまで見た
  • 166
  •  
  • 2011/12/22(木) 14:20:00.70
そこではいつも支配者側の偽善が大衆一般にしみ込み、抑圧されたものは何ら突破口を見出さなかつた。そして、
失はれた文化の全体性が、均衛をとりもどさうとするときには、必ず非合理な、ほとんど狂的な事件が起るのであつた。
これを人々は、火山のマグマが、割れ目から噴火するやうに、日本のナショナリズムの底流が、関歇的に
奔出するのだと見てゐる。ところが、東京空港の一青年のやうに見易い過激行動は、この言葉で片附けられるとしても、
あらゆる国際主義的仮面の下に、ナショナリズムが左右両翼から利用され、引張り凧になつてゐることは、
気づかれない。反ヴィエトナム戦争の運動は、左翼側がこのナショナリズムに最大限に訴へ、そして成功した事例で
あつた。それはアナロジーとしてのナショナリズムだが、戦争がはじまるまで、日本国民のほとんどは、
ヴィエトナムがどこにあるかさへ知らなかつたのである。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より

ここまで見た
  • 167
  •  
  • 2011/12/22(木) 14:31:02.24
ナショナリズムがかくも盛大に政治的に利用されてゐる結果、人々は、それが根本的には文化の問題であることに
気づかない。九十年前、近代的武器を装備した近代的兵営へ、日本刀だけで斬り込んだ百人のサムラヒたちは、
そのやうな無謀な行動と、当然の敗北とが、或る固有の精神の存在証明として必要だ、といふことを知つてゐた
のである。これはきはめて難解な思想であるが、文化の全体性が犯されるといふ日本の近代化の中にひそむ危険の、
最初の過激な予言になつた。われわれが現在感じてゐる日本文化の危機的状況は、当時の日本人の漠とした予感の中に
あつたものの、みごとな開花であり結実なのであつた。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より

ここまで見た
  • 168
  •  
  • 2011/12/26(月) 14:20:48.26
まあ、私も喜劇の部類で残念ですけれども、悲劇にはなりそうもない。
(中略)
失敗した悲劇役者というのが僕じゃないかしら。一生懸命泣かせようと思って出てきても、みんな大笑いする。


僕は、単細胞のせいかもしれないけれど、革命というものはイデオロギーの問題でもなんでもない、ただ爆弾持って
駈け出すことだと思っているんです。維新というのも、ただ日本刀持って駈け出すことだと思っている。駈けるのには、
百メートルを十六秒以下でなければ駈けるとは言えない。そのためには、ふとっていちゃ絶対だめですよ。
アメリカとベトコンの戦争は、やせたやつがふとったやつを悩ませたというだけの話ですよ。ベトコンはやせて
いるから駈けられる。アメリカ人はあの体していちゃ崖やなんか駈け昇れない。どうして日本のインテリというのは、
ふとるようになっちゃったんでしょう。これは僕は重大問題だと思っているんですよ。つまり肉体と精神との
関係において。

三島由紀夫
石川淳との対談「破裂のために集中する」より

ここまで見た
ニーチェの思想哲学思考解釈のニヒリズムの虚無主義を受け入れるじゃん。

ここまで見た
  • 170
  •  
  • 2012/01/03(火) 16:12:31.61
安保体制はそれ一つで孤立してゐる問題ではなく、わかり切つたことですが、新憲法とワンセットになつてゐて、
どうしても切り離せないやうにできてゐて今も続いてゐる。このワンセット関係、換言すれば、シャムの双生児の
やうにおなかまでつながつてゐて頭が二つといふ状況を十分把握しておかないと、安保、憲法は論じられないと
思つてゐる。安保は新憲法における欠陥、すなはち安全保障についての無力を補填するといふ形でできてゐる。
アメリカの本音としては日本を属国にしておきたいけれども、まあ日本が強くならない程度の憲法ぐらゐは
与へておかうと考へたわけですね。さういふ背景を考へると、安保、さらに沖縄の問題が派生的な二次的な
問題だといふことがはつきりしてくる。
私が諸君に、目前の変転する事象に惑はされることなく、根本的なことだけを考へてくれと言ふのは、憲法が
このままでは、日本の防衛問題も最終的な解決はつかない、日本が本当に姿勢を正して本来の姿に戻るには、
このままではだめだと思ふからであります。

三島由紀夫「『孤立』ノススメ 三、安保、新憲法はシャムの双生児であるといふことについて」より

ここまで見た
ニーチェは始解して卍解して虚化して完現術を使うじゃん。

ここまで見た
  • 172
  •  
  • 2012/01/06(金) 11:55:33.45
このやうな日本の生温い状況が、現在および将来にどのやうな意味を持つてゐるかを探つてみれば、これは
安保以前、安保以後の問題ではなく、精神の問題であると考へられる。精神といふと、またいつもの精神主義かと
いはれるかもしれないが、われわれの決意としては、吉田松陰の「汝は功業をなせ、我は忠義をなす」との信念で
行くほかないと思つてゐる。「功業」といふのは、自分が大政治家として権力を握らなければ役立たない。
そしてその権力を背景として自分の考へたことを実現していくことが「功業」の意味で、それはいづれは大勲位の
勲章をもらつて、うまくすると国葬にまでしてもらへるみちです。
しかし、「忠義」は枯野に野垂れ死にするみちです。何の効果もなく、人のわらふところになるかもしれず、
その瞬間瞬間には、全く狂人の行ひとしか見えないやうなことになるかもしれないわけです。

三島由紀夫「『孤立』ノススメ 六、松陰は狂はなければならなかつたといふことについて」より

ここまで見た
  • 173
  •  
  • 2012/01/06(金) 11:56:06.51
吉田松陰が「狂」といふことを盛んに言ひ出したのは晩年ですが、やはり松陰の時代にも、全てをシニカルに見て
わらひ飛ばすやうな江戸末期の民衆の世界があつたわけで、とにかく毎日が楽しければよく、明日のことなど
考へる必要がないではないか、お国なんかどうなつてもよいといふやうな民衆の心理的基調があつた。さういふ
基本的メンタリティがあつたわけです。さういふ状況の中で、松陰は、孤立して狂つてゐるのではないかと
疑はれるほど精神が先鋭化していくのを自覚したに違ひない。そして、松陰が異常に孤立した、自分一人しかゐない、
自分が狂人だと思つた段階から明治維新は動き出したわけです。

三島由紀夫「『孤立』ノススメ 六、松陰は狂はなければならなかつたといふことについて」より

ここまで見た
  • 174
  •  
  • 2012/01/06(金) 11:56:33.58
私は、諸君がこれを肚の中に一人一人持つてもらひたいと思ふ。左翼の大衆運動といふものは、大衆を動かさ
なければどうにもならないので、まづ大衆を巻き込んで、彼らの大きな力で状況を変へていく、といふのが
基本的な立場ですね。赤軍派の場合は例外と言へるかもしれないが、左翼は一般にさうですね。ところが
われわれの立場は、孤立を恐れない、孤立でほかにみちなく、助けてくれる身方もゐない、さうなつた状況から、
初めて何かが始まるのです。いはば絶望からの出発といふのが特色だと思はれる。いはゆる能動的虚無、さういつた
絶望感を胸の中で噛みしめたことのない人間は、松陰の忠義のみちを行くことはできない。かりにも世間を
甘く考へて、世間の支持を期待したり、大衆をあてにするやうな思想の磨き方ではどうにもならないところまで
来てゐることを自覚して欲しい。

三島由紀夫「『孤立』ノススメ 七、絶望から思想を磨くといふことについて」より

ここまで見た
サイエンスニーチェファンタジーフィクションスペースオペラじゃん。

ここまで見た
  • 176
  •  
  • 2012/01/08(日) 10:58:12.19
三島由紀夫事件について語り合おう
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history2/1323037072/

ここまで見た
鳩山由紀夫も素晴らしい人間じゃん。

ここまで見た
  • 178
  •  
  • 2012/01/08(日) 23:32:59.90
119:公共放送名無しさん:2012/01/08(日) 22:28:21.63 ID:B8HKK4lG
NHK(ふれあい放送センター)の佐々○とか言う男の担当者は凄いよ。
平清盛で(王家)と言う表現が出て来たので、気になってクレーム入れたら、、
(オカシイのはアンタでしょ?)とか抜かしてやがったよ。WWW 
ついでに受信料不払いと告げると(どうぞご自由に払わなくて構わないです…)、
(いやなら見なくて結構です)だと、大したもんだよ犬HKの佐○木君はWWWW



ここまで見た
  • 179
  •  
  • 2012/01/12(木) 14:00:47.88
自主独立の問題一つとつても、戦前の「自主独立」の日本が、軍縮会議以来、いや三国干渉以来、絶えず列強の
干渉によつて軍縮に対するチェックを受け、それによつて国内世論が、沸騰してきたことを考へると、日本のやうな
地理的要衡の、一定の経済力と一定の軍事力しか持ちえない小国が、条約下にあらうがあるまいが、国際同盟の
参加国であらうがあるまいが、外力の影響によつて左右されるのは宿命的だと思はなければならない。
(中略)
抵抗とは遊戯ではない。完全無防備の抵抗といふものがもしありうるならば、その最有力な例をとり上げて
指摘するならともかく、それが成功するかしないかの時点で、それを無防備的抵抗の良きお手本とすることは、
それ自体が国家を否定し、民族の自立を否定する思想であると言はなければならない。

三島由紀夫「自由と権力の状況」より

ここまで見た
  • 180
  •  
  • 2012/01/12(木) 14:01:11.91
(中略)
無益な武力的抵抗によつて、国家主権を奪はれるくらゐなら、流血の惨を避け、秩序を保つて表面的に妥協を
受け入れ、国家の存立をはかつたはうがよい、といふならば、非武装抵抗の利点は、一つは血を流さないですんだ、
といふことと、一つは国家の主権が曲りなりにも保たれたといふことでなければならない。
しかし、それはあくまで「非武装抵抗」の利点であつて、「非武装」の利点ではない。非武装(チェコは事実上
非武装国家ではなかつたが)それ自体は、強大な武力に対して何らの利点を持ちえないことは明らかである。
武力抵抗の反対概念は、非武装そのものではなく、非武装抵抗といふことであらう。

三島由紀夫「自由と権力の状況」より

ここまで見た
  • 181
  •  
  • 2012/01/12(木) 14:01:40.55
そして非武装抵抗の存立条件は、国民の結集した否(ノン)にしかなく、又、陰に陽にサボタージュその他で
抵抗する他はないが、次に来る段階は、非武装抵抗ですら血を流さずには有効性は発揮しえぬ、といふ段階であり、
又、国家の主権が曲りなりにも保たれても、その国家権力の実質的な主導権を奪はれるといふ状況をすでに
容認するならば、そのあとで、実質的な主導権を奪ひ返さうといふ抵抗は、抵抗の最初の論理的根拠を欠くことになる。
なぜなら、われわれが抵抗の手段の選択を迫られたとき、その一方(すなわち非武装)によつて、論理的に
一貫するならば、敵をすでに受け入れた己れの状況に対する抵抗とは、われわれ自身に対する抵抗に他ならなく
なつてしまひ、抵抗の論理は自らの身を喰ふものになるからであり、つひには抵抗それ自体が成立たなくなる
からである。そのとき、われわれは、非武装抵抗の利点が一つもない地点に立つてをり、「非武装抵抗」と
「非武装」とは同義語になり、つひには敗北主義の同義語になるのである。

三島由紀夫「自由と権力の状況」より

ここまで見た
  • 182
  •  
  • 2012/01/13(金) 23:58:10.09
 こういった↑行動と認識の同一性、有効性無視の行動、を見て我々も三島に見習え!とばかりに
頑張った左翼がその後軍事に乗りだし、軍隊を目指して訓練までやり、果てに仲間をリンチ、殺害
に及んだのが革命左派、赤軍の合併とその末に起こった連合赤軍事件ですね。
 三島さんの思想は当時の政治思想のラジカリズムを象徴的に表していると思う。しかしこうい
った思想が共同性を獲得したらどういうことになるか。三島さんは想像しなかったんではないか
。日本陸軍が僕は好きだと彼は言ってたが、その陰湿性と精神主義の不毛についてはさほど知らず
にいた感がある。謂わば美化したものしかない。戦争体験者が当時の日本人にはまだ多かったろ
うし、そういった戦争体験者からみて三島さんの話は軍隊美化に走ってリアルでないと思われた
ろう。若い自衛隊員が聞かなかったからクーデターが失敗したと彼は思ったかもしれないが、そ
れだけではなかろう。三島さんの話が軍隊経験者からどう見えたか、彼は実際にはさほど聞いて
なかったんではと思う。
 ハイデガーの脱‐自とか持ち出し、そこは先見の明があるが、それがハイデガーのナチ加担と同
じく、民族の実体性と結合されており、当のハイデガーは1930年代後半にはその誤りに気付き、
存在の空洞を民族への同一視で充填することの愚を指摘している。そこで民族とは現存在の別名
に変わる。

ここまで見た
  • 183
  •  
  • 2012/01/14(土) 09:37:38.10
ホッブズ、バーク、またはニーチェなどが欧米人が言うところの右翼・保守の源流だが
その右翼・保守は左翼の平等思想に対して自由を突きつける右翼・保守であり
日本における死を覚悟した愛国心は次元が違う
欧米の右翼左翼はどこまでいっても俗的であり
日本人の愛国心は単純に右翼・保守にカテゴリーされるものではない
愛国とは腹を切って死ぬことだと三島作品は教えてくれる

ここまで見た
  • 184
  •  
  • 2012/01/14(土) 15:36:46.12
●○●○●○●○●○●○【自我の世紀/BBC/2002年】●○●○●○●○●○●○●○●○●○

 ハピネスマシーン1/4 http://www.youtube.com/watch?v=sLK3C_e4mWY

 ハピネスマシーン2/4 http://www.youtube.com/watch?v=HFucNO8f0jw

 ハピネスマシーン3/4 http://www.youtube.com/watch?v=euBLPvdMHyY

 ハピネスマシーン4/4 http://www.youtube.com/watch?v=w6Fv5hmEPfE

    合意の捏造1/4 http://www.youtube.com/watch?v=ncVdjWL-plA

    合意の捏造2/4 http://www.youtube.com/watch?v=IIvc0FEB2K0

    合意の捏造3/4 http://www.youtube.com/watch?v=MiQXiKyCPsA

    合意の捏造4/4 http://www.youtube.com/watch?v=pKFCWi16U0Q

頭脳警察を粉砕せよ1/4 http://www.youtube.com/watch?v=NclcVRhupRQ

頭脳警察を粉砕せよ2/4 http://www.youtube.com/watch?v=tTrFkDGpQXk

頭脳警察を粉砕せよ3/4 http://www.youtube.com/watch?v=r_PjwFDRh44

頭脳警察を粉砕せよ4/4 http://www.youtube.com/watch?v=pO8EwiagOmk



●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○

ここまで見た
  • 185
  •  
  • 2012/01/17(火) 16:49:16.11
もし暴力肯定が戦争肯定につながるといふ市民主義的な思考に従ふならば、三派全学連の存在理由は全く
認められないことにならう。その点では私は国家といふものの暴力を肯定してもそれが直ちに無前提に戦争を
肯定することにはならないといふ立場に立つものであるが、この立場に真に対立するものが次のやうな毛沢東の
言葉なのである。すなはち「われわれの目的は地上に戦争を絶滅することである。しかし、その唯一の方法は
戦争である」これが毛沢東の独特な論理であつて、この論理がすなはち右に述べたやうな暴力肯定の論理と
ちやうど反極に立つものである。すなはちそれは平和主義の旗じるしのもとに戦争を肯定した思想なのである。
私は戦後、平和主義の美名がいつもその裏でただ一つの正しい戦争、すなはち人民戦争を肯定する論理に
つながることをあやぶんできたが、これが私が平和主義といふものに対する大きな憎悪をいだいてきた一つの
理由である。

三島由紀夫「砂漠の住人への論理的弔辞――討論を終へて(『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘』)」より

ここまで見た
  • 186
  •  
  • 2012/01/17(火) 16:49:43.05
そして、私の暴力肯定は当然国家肯定につながるのであるから、平和主義の仮面のもとにおける人民戦争の肯定が
国家超克を目的とするかのごとき欺瞞に対しては闘はざるを得ない。国家超克はいはゆる共産主義諸国の理論的
前提であるにもかかはらず、現実の証明するとほり共産主義諸国も国家主義的暴力の行使を少しも遠慮しない
からである。
くりかへして言ふが、私は暴力肯定が国家肯定につながることが論理的であると信ずる者であり、一方、
国家超克の思想は、無原則、無前提の暴力否定からのみ理論構成されると信ずる者である。(中略)
しかし「人民戦争のみが正しい暴力である」(このことは、「中共の持つ核兵器のみが平和のための正しい
核兵器である」といふ没論理をただちに招来する)といふ思想は、それほど新しい思想であらうか。それは又、
古くからある十字軍の思想であり、その根本的性格は「道義的暴力」といふことであるが、道義的主張はどんな
立場からも発せられうるものである。

三島由紀夫「砂漠の住人への論理的弔辞――討論を終へて(『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘』)」より

ここまで見た
  • 187
  •  
  • 2012/01/17(火) 16:50:16.94
かくてあらゆる道義が相対化されるときに、被圧制、被圧迫の立場のみが、道義的源泉であるとすれば、その
自由と解放は、たちまち道義的源泉を涸(か)らすことになるのは自明である。道義の問題を別としても、暴力に
質的差異をみとめること、正義の暴力と不正義の暴力をみとめることは、軍隊と警察の力のみを正義の力とみとめ、
その他の力をすべて暴力視する近代国家の論理と、どこかで似て来るのである。かくて毛沢東の論理は、結局、
国家の論理に帰結する、と私は考へる。
私はかりにも力を行使しながら、愛される力、支持される力であらうとする考へ方を好まない。この考へ方は、
責任観念を没却させるからである。責任を真に自己においてとらうとするとき、悪鬼羅刹となつて、世人の
憎悪の的になることも辞さぬ覚悟がなくてはならぬ。それなしに道義の変革が成功したためしはないのである。
自分がいつも正しい、といふのは女の論理ではあるまいか。

三島由紀夫「砂漠の住人への論理的弔辞――討論を終へて(『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘』)」より

ここまで見た
  • 188
  •  
  • 2012/01/17(火) 16:51:01.31
(中略)
彼らは今なほ「朕はタラフク食ってるぞ。ナンジ人民飢えて死ね」といふやうな、古くさい左翼風の下品な
きまり文句のとりこになつてゐた。そして彼らは、目に見える天皇像があまりにも週刊誌に毒され、マス・
コミュニケーションに毒されてゐる、その毒された媒体を通してしかこれを評価し得ないことも明らかである。
彼らはその根本について少しも疑つてみようともせず、また、マス・コミュニケーションに耐へながら存続して
ゐる天皇といふものが、何ゆゑこのやうな新しいマス・コミュニケーションと極度の言論の自由の中で存立し得て
ゐるかといふ、歴史的意味や時間の連続性の問題についてもよく考へてゐないことが察知された。(中略)
天皇といふものが現実の社会体制や政治体制のザインに対してゾルレンとしての価値を持つことによつて、いつも
その社会のゾルレンとしての要素に対して刺激的な力になり、その刺激的な力が変革を促して天皇の名における
革命を成就させるといふことを納得させようとしたがうまくいかなかつた。

三島由紀夫「砂漠の住人への論理的弔辞――討論を終へて(『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘』)」より

ここまで見た
  • 189
  •  
  • 2012/01/17(火) 16:51:29.61
天皇は、いまそこにをられる現実所与の存在としての天皇なしには観念的なゾルレンとしての天皇もあり得ない、
(その逆もしかり)、といふふしぎな二重構造を持つてゐる。すなはち、天皇は私が古事記について述べたやうな
神人分離の時代からその二重性格を帯びてをられたのであつた。この天皇の二重構造が何を意味するかといふと、
現実所与の存在としての天皇をいかに否定しても、ゾルレンとしての、観念的な、理想的な天皇像といふものは
歴史と伝統によつて存続し得るし、またその観念的、連続的な天皇をいかに否定しても、そこにまた現在のやうな
現実所与の存在としてのザインとしての天皇が残るといふことの相互の繰り返しを日本の歴史が繰り返してきたと
私は考へる。そして現在われわれの前にあるのはゾルレンの要素の甚だ稀薄な天皇制なのであるが、私はこの
ゾルレンの要素の復活によつて初めて天皇が革新の原理になり得るといふことを主張してゐるのである。

三島由紀夫「砂漠の住人への論理的弔辞――討論を終へて(『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘』)」より

ここまで見た
  • 190
  •  
  • 2012/01/19(木) 06:06:08.88
ttp://fphoto.livedoor.biz/0903/joker_e08.jpg

ここまで見た
別に寧ろ何かまあ取り敢えずニーチェは斬新だよね。

ここまで見た
  • 192
  •  
  • 2012/01/26(木) 22:27:18.43
日本とは何か、といふ最終的な答へは、左右の疑似ナショナリズムが完全に剥離したあとでなければ出ないだらう。
安保賛成も反共も、それ自体では、日本精神と何のかかはりもないことは、沖縄即時奪還も米軍基地反対も、
それ自体では、日本精神とかかはりのない点で同じである。そしてまたそのすべてが、どこかで日本的心情と馴れ合ひ、
ナショナリズムを錦の御旗にしてゐる点でも同格である。「反共」の一語をとつても、私はニューヨークで、
トロツキスト転向者の、祖国喪失者の反共屋をたくさん見たのである。私は自民党の生きる道は、真の
リベラリズムと国際連合中心の国際協調主義への復帰であり、先進工業国における共産党の生きる道は、
すつきりしたインターナショナリズムへの復帰しかないと考へる。真にナショナルなものは、そのいづれにも
本質的に欠けてゐるのである。
真にナショナルなものとは何か。それは現状維持の秩序派にも、現状破壊の変革派にも、どちらにも与(くみ)しない
ものだと思はれる。

三島由紀夫「『国を守る』とは何か」より

ここまで見た
  • 193
  •  
  • 2012/01/26(木) 22:28:40.74
現状維持といふのは、つねに醜悪な思想であり、また、現状破壊といふのは、つねに飢ゑ渇いた貧しい思想である。
自己の権力ないし体制を維持しようとするのも、破壊してこれに取つて代らうとするのも、同じ権力意志の
ちがつたあらはれにすぎぬ。権力意志を止揚した地点で、秩序と変革の双方にかかはり、文化にとつてもつとも
大切な秩序と、政治にとつてもつとも緊要な変革とを、つねに内包し保証したナショナルな歴史的表象として、
われわれは「天皇」を持つてゐる。実は「天皇」しか持つてゐないのである。中共の「文化」大革命に決定的に
欠けてゐる要因はこれであり、かれらは高度な文化の母胎として必要な秩序を、強引な権力主義的な政治的秩序で
代行するといふ、方法上の誤りを犯した。文化に積極的にかかはらうとしない自由主義諸国は、この誤りを
犯す心配はない代りに、文化の衰弱と死に直面し、共産主義諸国は、正に文化と政治を接着し、文化に積極的に
かかはらうとする姿勢において、すでに文化を殺してゐる。

三島由紀夫「『国を守る』とは何か」より

ここまで見た
  • 194
  •  
  • 2012/01/26(木) 22:29:56.90
(中略)
最近私は一人の学生にこんな質問をした。
「君がもし、米軍基地闘争で日本人学生が米兵に殺される現場に居合はせたらどうするか?」
青年はしばらく考へたのち答へたが、それは透徹した答へであつた。
「ただちに米兵を殺し、自分はその場で自決します」
これはきはめて比喩的な問答であるから、そのつもりできいてもらひたい。
この簡潔な答へは、複雑な論理の組合せから成立つてゐる。すなはち、第一に、彼が米兵を殺すのは、日本人としての
ナショナルな衝動からである。第二に、しかし、彼は、いかにナショナルな衝動による殺人といへども、殺人の責任は
直ちに自ら引受けて、自刃すべきだ、と考へる。これは法と秩序を重んずる人間的倫理による決断である。
第三に、この自刃は、拒否による自己証明の意味を持つてゐる。

三島由紀夫「『国を守る』とは何か」より

ここまで見た
  • 195
  •  
  • 2012/01/26(木) 22:30:49.00
なぜなら、基地反対闘争に参加してゐる群衆は、まづ彼の殺人に喝采し、かれらのイデオロギーの勝利を叫び、
彼の殺人行為をかれらのイデオロギーに包みこまうとするであらう。しかし彼はただちに自刃することによつて、
自分は全学連学生の思想に共鳴して米兵を殺したのではなく、日本人としてさうしたのだ、といふことを、
かれら群衆の保護を拒否しつつ、自己証明するのである。第四に、この自刃は、包括的な命名判断
(ベネンヌンクスウルタイル)を成立させる。すなはちその場のデモの群衆すべてを、ただの日本人として包括し、
かれらを日本人と名付ける他はないものへと転換させるであらうからである。
いかに比喩とはいひながら、私は過激な比喩を使ひすぎたであらうか。しかし私が、精神の戦ひにのみ剣を使ふとは
さういふ意味である。

三島由紀夫「『国を守る』とは何か」より

ここまで見た
ニーチェのニヒリズムの虚無主義の時代は終わったよね。

ここまで見た
  • 197
  •  
  • 2012/02/02(木) 23:03:46.71
日本近代知識人は、最初からナショナルな基盤から自分を切り離す傾向にあつたから、根底的にデラシネ
(根なし草)であり、大学アカデミズムや出版資本に寄生し、一方ではその無用性に自立の根拠を置きながら、
一方では失はれた有用性に心ひそかに憧憬を寄せてゐる。そこに知識人の複雑なコンプレックスがあり、こんなに
扱ひにくい人種はちよつと想像もできない。
知識人の自立を尊重するふりをしながら、その大衆操作の有用性をうまく利用し、かたがた彼らの有用性への
ひそかな憧れをみたしてやつた点では、政府よりも左翼のはうが何十倍も巧みであつた。戦後の知識人の役割が、
九割方、左翼の利用するところとなつたのは周知の事実であり、それなりに効果をあげたのである。
大学問題の勃発は、しかし、このやうな安定した進歩的知識人の天国に打撃を与へた。彼らの足もとに火がつき、
周章狼狽なすところを知らず、有用性の幻想は破壊されつつ、無用性の自立もすでに白昼夢となつた。進歩的知識人は
瓦礫と化した。

三島由紀夫「新知識人論」より

ここまで見た
  • 198
  •  
  • 2012/02/02(木) 23:04:13.94
(中略)
私はここでまたしても日本知識人が自己欺瞞に陥るくらゐなら、死んだはうがよからう、と嘲笑はれてゐる声を
きかなければ、知識人の資格はないと思つてゐる。知識人の唯一の長所は自意識であり、自分の滑稽さぐらゐは
弁へてゐなくてはならぬからである。
大学問題は、命を賭けて守れぬやうな思想は思想と呼ぶに値しないといふ、人間と思想とのもつとも重要な
「関係」に目をひらかせた。これは戦後もつとも軽視されてゐた問題であつた。(中略)
知識人はもはや国家有用の材ではありえないし、いはんや反国家有用の材でもありえない、といふ悲惨な現状を
直視して、そこから出発しないことには何もはじまらない。あらゆる有用性有効性の幻想をきつぱり捨て、
「いや、君だつて役に立つんだよ」
といふ甘言に一切耳を貸さず、有用性へのノスタルジアも己惚れも捨てなければならない。と同時に、無用性の
永遠の嘆き節からも訣別せねばならない。

三島由紀夫「新知識人論」より

ここまで見た
  • 199
  •  
  • 2012/02/02(木) 23:05:11.33
機動隊導入によつてやつと救はれながら、大学立法反対の面子を捨てかねてゐる、あの教授連の自己冒涜の轍を
踏んではならない。それはもう知識人としてでなく、人間としてダメになつた人たちなのだ。
知識人の任務は、そのデラシネ性を払拭して、日本にとつてもつとも本質的もつとも根本的な「大義」が何かを
問ひつめてゐればよいのである。安保賛成や反対は足下に踏み破り、有用性と無用性を乗りこえた地点で、
ただ精神のもつとも純粋、正義のもつとも正しいものを開顕しようと日夜励んでゐればよいのである。権力も
反権力も見失つてゐる、日本にとつてもつとも大切なものを凝視してゐればよいのである。暗夜に一点の蝋燭の火を
見詰めてゐればよいのである。断固として動かないものを内に秘めて、動揺する日本の、中軸に端座してゐれば
よいのである。私はこの端座の姿勢が、日本の近代知識人にもつとも欠けてゐたものであると思ふ。

三島由紀夫「新知識人論」より

ここまで見た
  • 200
  •  
  • 2012/02/04(土) 02:15:56.63
三島はミケランジェロの最後の審判に描かれたギリシャ神話のアポロンの如く勇敢であり
かつ三島の死を嘆いたイタリア人かフランス人かが言ってたように
旧来のイエスキリスト(救世主イエス)の自己犠牲を思わせる決断を決行したのである。
まさにミシマ・キリストと呼ぶに相応しい。

私は最近こう思う、三島は実は「S級戦犯」であると。
彼はあの靖国にまつられた戦犯を英雄として語り継がせる命を帯びて死んだのだと。
彼は靖国もとい東京裁判こそが日本のアメリカに対する復讐の始まりであると訴えたのだ。
私は三島を「名誉英霊」と呼びたい。

ここまで見た
  • 201
  •  
  • 2012/02/04(土) 11:35:49.44
なにが?

ここまで見た
  • 202
  •  
  • 2012/02/04(土) 13:16:31.47
訂正
×アポロンの如く
◎アポロンのように描かれたイエスの如く

ここまで見た
僕はニーチェのニヒリズムを乗り越えるよね。

ここまで見た
  • 204
  •  
  • 2012/02/09(木) 09:48:22.45
私が同志的結合といふことについて日頃考へてゐることは、自分の同志が目前で死ぬやうな事態が起つたとしても、
その死骸に縋(すが)つて泣く事ではなく、法廷においてさへ、彼は自分の知らない他人であると、証言出来る
ことであると思ふ。それは「非情の連帯」といふやうな精神の緊張を持続することによつてのみ可能である。
しかし、私はなにも死を以つてのみ同志あるひは同志愛の象徴とは考へない。また死を以つてのみ革命的な行動の
精華、成就とも考へるものではない。ただ真に内発的な激怒や行動だけが、ある目的のもとになされた行為の
有効性を持つのであるといふ考へ方だけは、私にとつて変ることのないものである。
死が自己の戦術、行動のなかで、ある目標を達するための手段として有効に行使されるのも、革命を意識するものに
とつては、けだし当然のことである。自らの行動によつてもたらされたところの最高の瞬間に、つまり、
劇的最高潮に、効果的に死が行使出来る保証があるならば、それは犬死ではない。

三島由紀夫「わが同志観」より

ここまで見た
  • 205
  •  
  • 2012/02/09(木) 09:49:34.96
(中略)
「われわれ」といふ集団の感覚の次元で行動し、同志的結合を持続する時、個人はすでに、超個人的契機を
掴んでゐることが前提になる。その超個人的契機とは、神のやうな個人に直結した形である場合と同時に、神と
個人とを繋ぐコミュニティのイメージが必要となつてくるのである。そこには、もはやニュートラルな心情は
崩壊してゐるのである。
人間は、このやうなコミュニティを媒介としてしか、つまり伝統的共同体を形づくるところの超個人的なもの――
絶対的な存在に接近することが出来ないといふ、逆説的な精神構造を持つてゐる。その個人的契機は、多様であるが、
その内的原因を探れば、遠く、古い価値と、それに繋がるところのコミュニティの投影が必ずある。この投影こそが、
内側の人間を外側の人間へ弾き出す力になるのである。
さう考へてゆくと、「われわれ」は危険ではあるが、誘惑に導く美しさが見えてきはしないか。この危険な誘ひに
私の興味は募る。しかしそれは、悲壮な自己陶酔と紙一重でなくて果して何であらうか。

三島由紀夫「わが同志観」より

ここまで見た
  • 206
  •  
  • 2012/02/09(木) 09:50:40.24
私は、いやしくも盟約を交はして事を起す同志であれば、動機の深浅、運動経歴のキャリア、性格の相違等を、
ことさら問題にしようとは思はない。男と男が誓ひ、行動を起さうとする集団が、栄辱をそれぞれ等分するのは
当然である。
つまり、日常的な同志愛から出発しながら、いかにして、最終目的のために、目前の甘美な同志愛に耐へ抜く心の
強さを得られるか。同志的決起へと至る極限状況は、ある面において、倫理的憤激の最終的な責任を、自己に負ふか、
他者に負はせるか、といふ方向へ引き裂かれて行かざるを得ない。究極的に、自己に負ふとすれば、自刃があり、
他者に負はせるとすれば、制度自体の破壊に行きつくしかない。
そのやうなクオリティを見分ける判断力は、人間の弱さと強さとの問題でもある。

三島由紀夫「わが同志観」より

ここまで見た
ニーチェの重点は大好きですね。

ここまで見た
  • 208
  •  
  • 2012/02/18(土) 10:07:12.79
ベケットでね、「ゴドーを待ちながら」ね、僕はゴドーが来ないというのはけしからんと思う。それは二十世紀文学の
悪い一面だよ。ゴドーが来ない。これはいやしくも芝居でゴドーが来ないというのはなにごとだと、僕は怒るのだ。


メトーデをだんだんマスターから教わって、マスターピースを作ってマスターになるのだよね。だけどそれは、
西洋の歴史はメトーデの伝承の歴史だね。日本はそうではない。秘伝だろう。秘伝というのは、じつは伝という
言葉のなかにはメトーデは絶対にないと思う。いわば日本の伝統の形というのは、ずっと結晶体が並んでいるような
ものだ。横にずっと流れていくものは、なんにもないのだ。そうして個体というのは、伝承される、至上の観念に
到達するための過渡的なものであるというふうに、考えていいのだろうと思う。

三島由紀夫
安部公房との対談「二十世紀の文学」より

ここまで見た
  • 209
  •  
  • 2012/02/18(土) 10:07:40.73
そうするとだね、僕という人間が生きているのは、なんのためかというと、僕は伝承するために生きている。
どうやって伝承したらいいかというと、僕は伝承すべき至上理念に向って無意識に成長する。無意識に、しかし
たえず訓練して成長する。僕が最高度に達したときになにかをつかむ。そうして僕は死んじゃう。次にあらわれて
くるやつは、まだなんにもわからないわけだ。それが訓練し、鍛錬し、教わる。教わっても、メトーデは
教わらないのだから、結局、お尻を叩かれ、一所懸命ただ訓練するほかない。なんにもメトーデがないところで
模索して、最後に、死ぬ前にパッとつかむ。パッとつかんだもの自体は、歴史全体に見ると、結晶体の上の
一点から、ずっとつながっているかも知れないが、しかし絶対流れていない。

三島由紀夫
安部公房との対談「二十世紀の文学」より

ここまで見た
ニーチェの思想哲学の性で死後の世界の認識に疑問が発生したよ。

ここまで見た
  • 211
  •  
  • 2012/02/22(水) 20:44:10.72
彼その人は実に愛すべき人で、誠実の点では彼におよぶ者はありません。
こんな人がキリスト教の最大の敵とならざるを得なかったということが、
そのままキリスト教国の実状を物語るものであり、これこそ悲しむべき点です。
--内村鑑三 (1917年3月6日 米国サラトガ D・Cベルにあてた手紙)




ここまで見た
  • 212
  •  
  • 2012/02/23(木) 16:21:07.48
……たしかに二・二六事件の挫折によつて、何か偉大な神が死んだのだつた。当時十一歳の少年であつた私には、
それはおぼろげに感じられただけだつたが、二十歳の多感な年齢に敗戦に際会したとき、私はその折の神の死の
怖ろしい残酷な実感が、十一歳の少年時代に直感したものと、密接につながつてゐるらしいのを感じた。(中略)
それをニ・ニ六事件の陰画とすれば、少年時代から私のうちに育まれた陽画は、蹶起将校たちの英雄的形姿であつた。
その純粋無垢、その勇敢、その若さ、その死、すべてが神話的英雄の原型に叶つてをり、かれらの挫折と死とが、
かれらを言葉の真の意味におけるヒーローにしてゐた。
(中略)
その雪の日、少年たちは取り残され、閑却され、無視されてゐた。少年たちが参加すべきどんな行為もなく、
大人たちに護られて、ただ遠い血と硝煙の匂ひに、感じ易い鼻をぴくつかせてゐた。悲劇の起つた邸の庭の、
一匹の仔犬のやうに。

三島由紀夫「二・二六事件と私」より

ここまで見た
  • 213
  •  
  • 2012/02/23(木) 16:21:39.35
(中略)かくも永く私を支配してきた真のヒーローたちの霊を慰め、その汚辱を雪ぎ、その復権を試みようと
いふ思ひは、たしかに私の裡に底流してゐた。しかし、その糸を手繰つてゆくと、私はどうしても天皇の
「人間宣言」に引つかからざるをえなかつた。
昭和の歴史は敗戦によつて完全に前期後期に分けられたが、そこを連続して生きてきた私には、自分の連続性の
根拠と、論理的一貫性の根拠を、どうしても探り出さなければならない欲求が生まれてきてゐた。これは文士たると
否とを問はず、生の自然な欲求と思はれる。そのとき、どうしても引つかかるのは、「象徴」として天皇を
規定した新憲法よりも、天皇御自身の、この「人間宣言」であり、この疑問はおのづから、二・二六事件まで、
一すぢの影を投げ、影を辿つて「英霊の声」を書かずにはゐられない地点へ、私自身を追ひ込んだ。自ら「美学」と
称するのも滑稽だが、私は私のエステティックを掘り下げるにつれ、その底に天皇制の岩盤がわだかまつてゐることを
知らねばならなかつた。それをいつまでも回避してゐるわけには行かぬのである。

三島由紀夫「二・二六事件と私」より

お絵かきランド
フリックラーニング
ここまで見た

★お気に入り追加

このページを共有する
facebook twitter hatena line google mixi email
おすすめワード