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  • 2010/11/07(日) 10:43:33
11月5日になって、太平洋戦争についての大本営海軍部の最初の命令が出た。
これは山本長官にたいして、12月上旬に開戦できるように準備を命じたものであった。
この「大海令第一号」の冒頭に「奉勅伝宣 軍令部総長永野修身」と発令者の名をしるしてある。
奉勅伝宣とは、天皇の直接の命令を、天皇の言葉に従って伝えるという意味である。

12月1日。天皇のまえで開かれた御前会議で、日本は、アメリカ、イギリス、オランダと戦うことに決まった。
その後で、陸海軍にたいして、それぞれ開戦の命令が伝えられた。
これらの、命令は、すべて奉勅であり、允裁(天皇の裁可)を得ていた。

允裁のしるしの天皇の印鑑のついた大海令は、敗戦後まで保存された。
これを保管した当時の海軍軍令部課長の富岡定俊海軍大佐は、つぎのようにいっている。

私は終戦直前の命令に反して、大海令を焼かなかった。
なぜか。それは軍部といえども、天皇の命令なしに戦争できなかったという証拠を残しておきたかったからだ。」
これは、高木俊郎という作家が昔、書いたものだ。

この文章によると、天皇の命令なしでは軍部でも戦争できないと書いてあるじゃないか。
ということは、裕仁がA級戦犯No.1ということになるんじゃないか。


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