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■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

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  • 神も仏も名無しさん
  • 2012/12/14(金) 20:25:21.99
さてエホバの証人長老としもべのスレに執拗に出てきて誰にも相手にされない「糖質ですが」氏。
さぞかし歯がゆい思いをしていることでしょう。
JWは高等教育を受けていないゆえに誰も相手にできないのが実情です。
しかし仲間は他にいるはずですのでこちらで宗派を超えて話し合うことができます。
ではどうぞ。

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  • 2012/12/14(金) 20:31:55.53
今は「スタンフォード哲学百科事典」の方が間違いなく強いんだ。
教祖になりたい奴はここを毎日にらんでろよ。
http://plato.stanford.edu/

すでに翻訳済みのスタンフォード哲学百科事典。こんな感じでやるんです。
http://hougakukyoushitu.cocolog-nifty.com/thirdroundthriller/cat45817404/index.html

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  • 2012/12/14(金) 20:33:28.36
「つんくさんの作った悲劇」
悲劇の特徴は「欲望」「深刻さ」「出口がない」の三つの要素からできている。
これをうまく作れば人間は死の恐怖すら克服できるとも言われる。
"Indigo Blue Love"
http://www.youtube.com/watch?v=MPvwHg_itCY

”銀色の永遠"
http://www.youtube.com/watch?v=Mrq5ik3IiZU


「つんくさんの、父親の書斎とデカい家の風景」
子育ての秘密は「父親の書斎」と「大きな家」だ。その環境さえあれば子供は15歳ぐらいで人に認められたいという
遺伝子が「自然に動き出す」のだ。その風景はまさにこの曲の中にある。
"涙Girl"藤本美貴
http://www.youtube.com/watch?v=m8Lw5UBvc1Y


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  • 2012/12/14(金) 20:36:06.70
人間が中世ヨーロッパで復活を信じなくなった時に、市民であることが強く自覚されるようになった。
それまでは、市民であることとクリスチャンであることは同じ意味であったが、復活という概念が
なくなってから、ヒューマニズムと市民であることが共和制を通じて結びついたのだ。
ヒューマニズムは、その人の人生のプロセスを見るのではなく「瞬間のショット」を見ることにした。
今まで生きてきたことと、喜怒哀楽のすべてを瞬間に賭けたのだ。
これがヒューマニズムの基本だと言っていい。
eminem Lose Yourself
http://www.youtube.com/watch?v=Lp99IGfHIkA


「復活」というキリスト教社会の概念が消えてから、個人というものが自覚されて、今までの古典的学問が
再編された。
これがルネッサンスの「人文主義」の正体なのだ。
アクティブな市民が生まれ、そこからコミュニティーへの愛が生まれ、この個人主義はプロテスタンティズムにまで向かうことになる。
プロテスタンティズムによって再編された個人主義はやがて産業革命を経て資本主義につながる。
そのように生まれたヒューマニズムはかつての意味とは全く内容が変わっていたのだ。
ワイマール共和国においては、ヒトラーに対する愛国主義レジスタンスがイタリアのミラノの富と結びついた。
命がけの連中こそが、ミラノの富を背景に暴力的推進力で文化を豊かにしたのだ。
これがむしろヒトラーの知的財産となる。
ドイツナショナリズムが確立し、それに抗する愛国心レジスタンスが命がけで「いい生活」を夢見て豊かな文化を
作り出すという構図が、のちに世界の発信源となったのだ。
ドイツのヒューマニズムはその後、ドイツ系のユダヤ人がアメリカに持って行った。
彼らは禁欲主義や信仰への忠実さなどをすでに克服しており、彼らの知的財産を「富」に向けたのだ。
これがアメリカのユダヤ人の正体なのだ。

この空間が思想を発展させた。抗日なんて甘っちょろいのがよく分かる。
http://www.youtube.com/watch?v=HDPLsxvwUxY


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  • 2012/12/14(金) 20:37:07.33
欧米で共有されたヒューマニズムは、まず、政治コミュニティーがマキャベリとアリストテレスに注目したのだ。
彼らの古典が、人間の命の有限性を語るうえで実に心に響いたのだ。
誰だって一度きりのいい人生を歩みたい。
そんな中で、ユダヤ人の死は現代人にとってはピューリタン革命の二番煎じにしか見えなかった。
マキャベリは「権力の空白」から何が生じるかを語った人だった。
勝手に自分の兵隊を作った連中をどうにかしなければならないことを感じていたのだ。
現代人は、中央集権と議会制に、「勝手な真似をする兵隊」の問題の解決を委ねた。
また、個人の利益は、銀行・製造業・貿易・赤字国債などに委ねた。政府の金は個人が欲しがるものだ。
英国では「王室からの独立」も勝手な真似をする兵隊の問題から求められたのだ。
"God Save the Queen" Sex Pistols
http://www.youtube.com/watch?v=8z2M_hpoPwk


王室を批判したこの英国の曲は、アーティストが鉄パイプで半殺しにされている。
ユダヤの死から学んだ「一度きりのいい人生を歩みたい」という発想を各家庭はさしたる抵抗もなく受け入れた。
コミュニティーへの愛や、個と公、主観と客観、知識と現実などのいろんな要素が家庭に持ち込まれた。
そうやって「帝国主義段階」は古典を踏まえることで終わりを迎えているのだ。

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  • 2012/12/14(金) 20:51:03.86
「殺されてたまるか」という学問がスタンフォードに流れたらしいんだよ。

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  • 2012/12/14(金) 20:55:54.22
「スタンフォード哲学百科事典を読む秘訣」
とにかく意味が分からなくても「心眼で読む」つもりで読むんだ。
最初のころは体が痛いぐらいつらいのだが慣れるまでやる。
そうすれば教祖になれる。

健康状態は、脳の疲労を心拍数で測る技術を使う。
血圧も見る。手首の血圧計を買おう。

AV比率というのを明らかにしたい。
最低血圧と最高血圧の比率なのだが、
3:4なら完璧な健康。
1:2になったら、越えてはならない黄色い車線を越えたということ。
1:3なら臓器の交流をする「銅線」が消滅したということ。
1:4ならかなり命に危険があるということ。

1:2以上に悪化した人間が考えることは「死んじゃえ。死んじゃえ」ということなんだ。
そういう奴が立てる企画立案なんて聞けないということなんだ。

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  • 2012/12/14(金) 21:56:06.29
日枝神社の鳥居のクロスバーにある三角形の写真。
http://hougakukyoushitu.cocolog-nifty.com/photos/boxing/hie.html

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  • 2012/12/15(土) 00:12:54.83
俺の盟友。「野田内閣総理大臣対半蔵門」
http://hougakukyoushitu.cocolog-nifty.com/thirdroundthriller/2012/11/post-cd96.html

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統失と解離の違いを教えてください。

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分裂して統合できないら人格がバラバラの基地碍なんだろ?
まあそれはいいとする
多重人格ということと自作自演ということが、ある自覚の下にIDを切り替えながら行う新型人格障害を
私は2ちゃんで発見しました

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心理学とメンヘルと精神医学界をゆるがす大発見かも

この病気を、架神型人格障害と名づける仮に

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  • 2012/12/15(土) 10:21:57.44
「正当化できないケガ」というのは反戦運動の発信源でね、アウトレイジはこれをうまく描いているね。
平和というのは時には「力に屈して」もたらされるものだ。
アウトレイジは力に屈しない人間を描いたともいえる。
恐怖からお互いに手出しができないという局面は人生に必ずあるんだ。
そういう状態がやがてお互いを疲れさせて感覚が鈍って平和に向かうんだ。
しかし、敵対心は残るとされる。
これが課題だな。
混乱した連中に「満足」を与えて平和をもたらす方法もある。
アウトレイジはまさに平和の学問でもあるんだ。
「連帯」「お互いの尊敬」「必要性の満足」がある身内同士では暴力はないだろう。
これらを失った時に暴力が起きていることも指摘していい。
アウトレイジに平和を求めるのにも「絶対か身内内部か」「最大か最低限か」「全体か一部分か」という観点が
重要だ。
そうやってみんなを治めていくのに非常にいい学問になる。
「絶対的か身内内部か」という平和の問題も、絶対的な平和のためには強烈なモラルが必要で、
みんながしたがうには時には神が必要になる。
ところが人間は「食べる」生き物だ。その「食べる」ことから「やるかやられるか」という基本が存在するのだ。
人間が「食べる」生き物であるから、カネの動かし方やルールを見抜けば平和をもたらすことができるという
発想は当然持っていいだろうな。
タカ派は好戦的だけど、ハト派はカネにうるさい。タカ派だってハト派のお世話にならないと戦えない仕組みだ。

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  • 2012/12/15(土) 10:22:55.37
「最大か最低限か」という平和の問題も、しっかりと身内内部の教育を徹底させて行うという発想もあるし、
ヨハネパウロ二世は「罪のあるものもないものも一貫した人生を歩んでいる。まるで縫い目のない私の衣服のようだ」
と言って善人と悪人の区別をしなかった。
寛大さ私大で平和は大きくも小さくもなるのだ。
指導者が「間違った戦争」を始めると、部下も間違った戦いをしなければならなくなる。
背景には強烈な道徳が求められるのだ。
間違った戦いには裏切り者も生まれるし、戦いへの忍耐力もなくなるのだ。
あるいは、「だいたいの平和でいいんじゃないか?」という発想があり、そこから正当防衛を認める発想につながる。
それは暴力を最後の手段とする考えになり、非常に信頼感の置ける指導者が生まれる。
こういう発想は確かに必要だろう。

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  • 2012/12/15(土) 11:15:59.04
映画の哲学というのがスタンフォードにある。
基本的に「どのようなフィールドで」「どのような理由で」作られた作品なのかを見るが、
基本的には人々に支持された作品に哲学者は注目する。
人々に支持された作品を分析したいというのが哲学者の本能なのだ。
映画というのは映像技術ではあるが、舞台を撮影するわけでもなければ日常を撮影するわけでもない。
ナレーションを入れて聴衆の共通認識を作ったり、クローズアップを使って何に注目すべきかを作ったり、
編集技術を使って、客観的に明らかにしたいものを表現するのだ。
我々はフィクションから感情を刺激される。
しかし、実際はそのような経験をしたくないけれども、そのようなシチュエーションの感情を味わいたいのだ。
だから映画を見るとされる。
時には我々の行動に勇気を与えて強烈な動機を与えることもある。
映画のキャラクターは美しく、勇敢で、情報に満ちている。
また、女性を美しく描けるのも映画の特徴だ。
映画が終わるとクレジットに大勢の名前が列挙されるだろう。
役者や映像監督、構成作家、いろんな技術者の名前が出てくる。
しかし、どんな表現をするかを全体的に理解しているのは監督だ。
サウンドトラックを作れる映画は強いし、ナレーション、クローズアップ、編集などを駆使して、
あとはいい役者をそろえてお金をかけて映画は作られる。
ハンディカムでいろんなものをとっておくといろんな基本の学習が可能だ。

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  • 2012/12/15(土) 11:25:55.33
「家庭内の法律〜受験生をもった家庭とは」
強い意志を持った人間が「右翼的」にプロジェクトを動かしていき、
理想だけをもった連中が「左翼的」に理想を求めていく。
理想をもった人間はゴールの意味は理解しているけど、目的達成の手段はいろんな人から批判を受ける。
左翼的な人はコロコロ立場を変えたり方法を批判されたりしているんだ。
そういう受験の仕組みは大人になって政治で意味が分かるようになる。
敵への嫉妬や知識への欲望は家庭内での否定的要素だ。
これらを受験生をもった家庭は持つことになる。
これが家庭内の誤った判断を引き起こしやすい。
知識のフィールドは果てしなく広い。
これを正確に理解して、家庭内の文化やドクトリンができた家庭だけが東大合格者を出すのだ。
ルックスや才能は人それぞれだ。しかし、すべての人間が知識を求めている。
だが、いろんなものがそれを妨害する。
人間はそれらの妨害だけは簡単に見つけてしまうのだ。
それが、浪人生が成績が伸びにくい理由なのだろう。
人間は経験や直観によって、幻や誤解を感じるものだ。
人の批判もこれらの空間にある。
この空間が人の才能を潰すのだ。
うまくこの幻や誤解の空間をいいものに保って自分の才能を伸ばしていくのだ。

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  • 2012/12/15(土) 11:26:19.88
「家庭内のキャノン〜知識と信じること」
我々はすべての客観的なものを見ることができる。しかし、家庭内ではいろいろな合意を作っていく。
お互いに説得をする。しかし、説得は幻。
それを真実だと思い込むのだ。
そうやってできた合意はプライベートな妥当性しか持たない。
それが家庭内の合意だ。
合意は家庭内のメンバー内部での妥当性しか持たないのだ。
そうやって家はできている。
家に偉大な哲学者の本を置こう。
そうすれば、最高の存在のスピリットが家に出来上がる。
意見・信じること・知識は各メンバーによって異なる。
誰の意見が強いか、誰の信念が強いか、誰の知識が深いかの角度は各メンバーによって異なる。
そうやってすべてのメンバーに妥当な合意か形成されるのだ。
意見は主観的には満たされている。
信念は主観的には満たされているけど、客観性に欠ける。
知識は主観的にも客観的にも満たされているだ。
それを踏まえて合意というのは作られている。

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  • 2012/12/15(土) 11:26:43.98
よく、テレビなどでは、「性欲を理性で抑えられる」とか言うが、この「理性」という
言葉を明確にしたのがカントだ。
たとえば、理性というのは固定的なものであるという従来の発想を批判し、
ヒュームの理性に関する議論を「純粋理性批判」により批判し、イギリス経験論から
「実践理性批判」を書いている。
理性というのは、美しさや、分析、対話などと言った、解釈を必要とする困難な
探求が必要であるとし、さらには道徳や経験などともかかわるし、その純粋理性と
実践理性の統合という作業も必要とされる。
我々の知識は感受性と理解から得られるし、また、世界は意味不明な議論から
成立していて、目に見えない空間が成立している。
カントはその世界の中で理性の役割を否定しなかった。
理性の限界は認識しながらも、知識の限界とは異なると考えたようだ。
理性と経験的真実との関係はどうなのか。
科学的な探求。
理性の限界を知ることにどんなメリットがあるのか。
などを探求した。
知識を得る作業は無限に続くが、それが理性の形成と関わっているのだ。
我々は、真実の代わりに理性を用いて判断していると考えていたが、
この点に関するカントの記述はあっさりとしている。
むしろ、幻想にもとづく夢によって物事を判断していると考えたのだ。
それは感覚が間違いを起こさないのに判断を間違えることがあることから、
判断の基盤になる感覚が夢にもとづいているのだろうと考えたのだ。
まるで、太陽が地球を回っていると人間が考えるのと同じことだ。
我々は感覚では太陽が地球の周りをまわっていると考えるだろう。
しかし、惑星と星を見てようやく地球が太陽の周りをまわっていることを悟るんだ。
それが「イデア」を知るということだよ。
ニュートンが発見した重力や慣性の法則、さらには、ガリレオが「天国を見てみよう」
と思って作った望遠鏡などがあったからこそ、惑星と星を見てわかるんだ。

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  • 19
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  • 2012/12/15(土) 11:27:06.47
我々は神を信じることを望んでいるのだ。
なぜならそのような発想が「理性」というものの必要性と利益をもたらすからだ。
神は、天国へ通じるバベルの塔を作ろうとした人間を罰したが、カントはこれを批判した。
カントは理性のバベルの塔を作ろうとしたのだ。
我々は感覚によって知識を得るが、経験と哲学の仮説は対立するものだ。
我々は世界の経験すべてを味わうことはできないのだ。
見聞を広げて、それでも限界があるから仮説を立てるのだ。
「ここは自由の国アメリカだ。お前の家で何をやろうが自由だが、タクシーで人を殴るのはよくない」(タクシードライバー)
さて、人間には自由がある。
しかし、自由という言葉から現実世界を説明するのは案外難しいのではないだろうか。
人間には他者への尊敬と多様性がある。
自分の家では純粋理性があるし、外に出れば実践理性がある。
カントの本を読んでこれらを磨いていくのは非常に人間の理性を磨くのに必要な営みだ。
人間には理性がある。しかし、もっともいいもの(最高善)を求めると我を忘れて理性を忘れることがある。
これが理性の限界だ。
しかし、人間には「幸福」というものがあるではないか。
この幸福が人間の理性を維持するのではないだろうかとカントは考えた。
ところが、カントの考えは疑わしかった。
現実世界の行動が幸福とつながっているのだから、幸福が理性を制御できるとは思われなかったからだ。
そこで、神聖なるもの、つまり「神」の存在を必要とした。
神聖なるものこそが人間の理性を保つのではないかとしたのだ。
人間は自由な活動を続けたいから、実践理性(外・公)では神聖なものに従うのだ。
これが実践理性の定言命令にしたがっている状態だとされた、
「実践理性の定言命令」とは刑法の構成要件だとも言われる。

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  • 2012/12/15(土) 13:16:42.92
「選民思想と秋篠宮」
秋篠宮は選民思想を基盤にしている。
選民思想とは「完璧な人間」であるという発想をベースに自分がスーパーマンであることを標榜し、
そのために「体重ゼロ」の人間を演じなければならない宿命なのだ。
実物はともかく関わりにくい奴だ。
人より優越するからスーパーマンだという発想は何かを獲得しようとするが、比較不能な完璧さを標榜すると
その人は人生でもはや何も仕事をしなくなることを意味する。
スーパーマンは、地道で価値のない仕事を嫌うことが多い。
問題は、人との比較を怖れるということであり、競争を好むのか、あるいは、人間というものをどう見るのか
という観点から関わっていかなければならないのだ。

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  • 2012/12/15(土) 15:22:15.30
お笑いの研究というのはいろんな方向で役に立つ。
たとえば、酒井法子が全盛期に資金を回しきった時には「対象」を想定して
男性ファンのリビドーを狙い続けたことが明らかになっている。
http://www.youtube.com/watch?v=uWIZf15cYQg


「選挙は最後の五分間」と言われるが、先ほど久里浜は小泉進次郎の猛烈な戦車攻撃を受けた。
選挙最終日まで資金を回し続けていたのだ。
対する林公太郎は資金が切れたそうだ。
いろんなアーティストが資金を回し続けて作品を完成させるが、基本には哲学がある。
AKB48は「世代間セックスの禁止」を基盤に作品作りをやっているが、「リビドー狙い」を
徹底すればかなり永続的に人気を保てると思う。
私の若い頃を「イケメンピエロ」に設定した松浦亜弥の曲。
http://www.youtube.com/watch?v=LxqWMCWdanc


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  • 2012/12/15(土) 15:24:20.44
「お笑いの研究」
http://hougakukyoushitu.cocolog-nifty.com/thirdroundthriller/2012/11/post-a87d.html

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  • 23
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  • 2012/12/15(土) 15:38:43.73
今はAKB48を聴いても「退屈な授業参観だな」としか思わない。
昔のアイドルはもっと攻撃的にリビドーを狙っていたのだ。

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  • 24
  • 神も仏も名無しさん
  • 2012/12/16(日) 19:10:02.08
水を得た魚のようでつね

ところでアメリカでの小学校銃乱射事件に関してどうぞ

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  • 2012/12/17(月) 17:13:12.88
「姓名判断で人を否定するな」
名前というのは「セマンティック」にしたがって名づけられる。
ブルックリンブリッジというと、ブルックリンにある橋という意味だが、ゴールデンゲートブリッジという名前が
はたして何をさすのかは明確ではない。
名前というのは人々が何度も反復して呼ぶことで確立する。これを「ダビングセレモニー」という。
また、宵の明星も明けの明星も同じ「金星」を意味するが、「宵の明星」と「明けの明星」が
同じものなのかも名前の研究に使われるようだ。
「アリストテレス」という名を「アレキサンダー大王の先生」というように、より高い秩序で説明することもある。
名前というのはそのように明らかになっていくのだ。
名前というのは、その人が「私の名前は人生において非常に有効に機能した」と考えれば成立するものであり、
姓名判断で運命を決めることに対しては私は批判的だ。

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  • 2012/12/17(月) 18:08:19.35
「光太郎」という名前が「徳仁」に勝てるとは誰もが思わなかった時代があった。
しかし、光太郎は東大文?に合格してサンデー毎日で同窓生や先生に「ダビングセレモニー」を行ってから
学校知を出ている。
ここが出発点だ。
また、「光太郎」は「ノーベル文学賞作家」であり、「徳仁」は「三文文士」である、というように高いレベルでの
秩序でも戦って伝説を潰しに行った。
これが「姓名判断」との戦い方だった。
「徳仁」という名前は「感覚と説明に勝っていた」という点が非常に困難な問題だった。
ましてや歴史まで辿って名前を語っていたのだ。
非常にフェアなゲームが「名前」で行われたのだ。
アリストテレスはなぜ「プラトンの最も優秀な生徒」ではなく「アレクサンダー大王の先生」なのかというと、
現実社会で最も価値の高い説明をするからだ。
そうやって歴史上の人物は自分の価値を高める説明がなされるのだ。

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  • 2012/12/21(金) 18:31:07.54
「ロータススートラ(法華経)の意味」
ロータスの花というのは最も美しい花であり、それを語ったスートラが法華経だ。
たとえ世界が汚染されていても白い花を咲かせる。
それは真理ではなくとも不朽のものであり、結局、仏教はそこに収斂して行くものと考えられた。
ブッダが、インド北部の山で8万人に囲まれてロータススートラを唱えた時に、
世界で8万人だけが光に包まれた。
これがロータススートラの意味だ。

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  • 2012/12/21(金) 18:31:26.92
「立正安国論」
日蓮が北条時頼に献呈した書物だが、内容は、旅人と先生の対話だ。
旅人が世の中の天変地異への不満を先生に語る。
先生は法然の浄土宗を批判した。
旅人は「法然を批判して殺された人を大勢見た。お前も気を付けろ」と言う。
先生は「間違った法が跋扈した事例は中国で山ほどある」と主張する。
旅人は「仏教は複雑すぎてよく分からない。有名な経典を引用してくれ」と言う。
先生は好きな部分を引用する。
結局、立正安国論のテーマは「天変地異と正しい法」を語った書物だと言っていい。

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  • 2012/12/22(土) 17:47:44.39
「ロータススートラ(法華経)と日蓮」
http://hougakukyoushitu.cocolog-nifty.com/thirdroundthriller/2012/12/post-8356.html

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  • 2012/12/23(日) 18:26:57.15
先日、衆議院が解散され、総選挙が行われたが、これは憲法7条によるものだ。
さて、この「7条解散」が初めて行われたときに、ある問題が起きた。
吉田茂は、いわゆる「抜き打ち解散」と呼ばれるこの選挙を行ったが、進歩党の苫米地義三が、
落選し、7条解散の是非をめぐって争ったのだ。
この時に裁判所はあることを発見した。
吉田茂は、解散において閣議を招集しておらず、6名の閣僚で解散を決め、署名したのは佐藤・池田・山崎
の三名だけだったのだ。
この署名をもって吉田は那須御用邸を訪れ、天皇裕仁の署名をもらい、解散を行ったのだ。
この選挙は結局「高度統治行為」と呼ばれる天皇の権能を良く表現している。

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  • 2012/12/24(月) 15:49:38.76
浄土真宗セクトは、明治時代に宗教界独占を狙って「神道は宗教ではない」といったんだけど、
その思想的基盤は「聖徳太子カルト」なんですよ。
聖徳太子崇拝が親鸞の思想的基盤なんです。
浄土真宗セクトは本地垂迹という立場だ。これは聖徳太子を神と位置付けるために唱えられている。
皇室の流れと仏教の流れから生じたものだ。
聖徳太子の研究を深めたのが親鸞であり、天皇の次男の研究と信仰からカリスマとなったのだ。

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  • 2012/12/29(土) 02:23:17.92
「高度統治行為」という天皇の政治的実践は日本の民主主義の問題点の位置側面でね。
他にも「部落」「在日」「沖縄」などのマイノリティーについて資料から書いていきたい。
私の資料によると、「部落」の最大の特徴は「下水がないこと」なんですよ。
これで判断できます。
日本政府はこれを基盤にした差別の隠ぺいをしているのですよ。
「在日」というのは日露戦争での韓国併合がきっかけで帝国に朝鮮を加えたことが発端なんですよ。
いちばんのトラウマが「関東大震災での大虐殺」なんです。
これを正確に理解しなければならないんだ。
部落民は170万人。在日は100万人。
これらに「ロータススートラによる仏教連合」という法華経の思想が食い込んだために、創価学会員が多い。
大阪は特に部落民が多いね。今回の選挙でも公明党は強かったしな。
差別だ差別だと言って言論を抹殺するのも「問題の隠ぺい」に加担することなんですよ。
問題は「下水が引けない地域」だということだ。
部落の問題は「いろいろな問題があって下水が引けない」ということだと私は考えている。
「沖縄」というのもエスニックグループなんですよ。
琉球王国としてはじまって、江戸時代に薩摩が搾取をしている。
1879年に日本に編入されて、「在日」「部落」「沖縄」「アイヌ」というのが基本的にエスニックグループなんです。
「下水がない」とか「地震が起きたら殺される」という問題の本質を隠ぺいする言論が「差別だ差別だ」という議論なのだ。
87万人の朝鮮人が戦時中に労働力として日本に連れてこられ、
14万人が陸軍に徴兵され、10万人が海軍に徴兵された。
20万人が従軍慰安婦となったのだ。

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  • 2012/12/29(土) 02:23:52.41
「右翼の思想」
本来、自由民主党がテキストブックにしたのが右翼の思想だ。
高校の「現代社会」に自由民主党が圧力を加えることでこの思想は展開された。
自衛隊は合憲であるとか、労働時間の短縮などを主張した。
また、外国人の指紋押捺拒否を一方的な議論であるとして、外国人の特定のために必要であるとした。
さらに、女性が男性と対等に働きたいのであれば一定のモラルを求めたりした。
1982年に中国から戦時中の侵略性の指摘を受けた時には「頭を欠いた豚」と官僚を位置付けた。
1988年には高校二年生のテキストに日本軍の残虐性を欠いた記述を「マイフェアレディー」に差し替えたのは
国家基本問題研究所の亀井静香の圧力だとされる。
税制改革を推進することを教育したり、リクルート事件の記述を省いたり、日の丸君が代を推進したり、
北方領土問題を紹介したり、古事記や日本書紀を紹介して日本が「くにつくり」にのっとることを
明確にしたのが平成の始まりであった。
自由民主党の文教族がやったことだ。
教科書は自由民主党文教族が主導して書いたものだが、日本の軍国主義の肯定や天皇カルトを
基盤にするものであった。
これは自由民主党の思想を表現するものであるとして、中国や韓国が批判を加えたのだ。
海部俊樹はこの教科書検定に関して日本の「真の意図」を中国に告げている。
「その方が試験に受かりやすい仕組みである」としたのだ。
教科書にしたがっていれば試験に受かりやすい仕組みを作り、情報力を身につけるには英語を
用意した。

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  • 2012/12/29(土) 02:24:29.37
今の天皇は大嘗祭に20億円の予算措置を政府に要求している。宮内庁がこれを行った。
即位の際に国民に課した負担は合計221億円にも上る。
このファイナンスを担当したのは中曽根康弘元内閣総理大臣だとされる。
大嘗祭においては、社会党・共産党・公明党・社民連が出席を拒否し、16の県知事もこれを拒んだ。
内閣のもとで大嘗祭を行うのか、それとも独自に行うのかで神道の側から天皇は内閣のもとにはないとして
皇室独自に行うべきであるという主張がなされたようだ。
晩餐会にすら共産党の全メンバーと社会党の一部の議員は出席していない。

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  • 2012/12/29(土) 15:55:42.88
専修念仏という思想は阿弥陀仏陀の名前を唱えるものだが、この簡素に集約された思想が
末法思想を背景に一気に広まり、比叡山の嫉妬を買った。
比叡山はもともと念仏を唱えるという思想を始めたところだが、この「専修念仏」の弾圧を後鳥羽天皇
とともに行ったのだ。
親鸞はこの専修念仏の弾圧を回避するために聖徳太子に注目したとも言われる。
朝廷とのつながりを必要としていたのだ。
親鸞を語るうえで「末法」は欠かせない。
末法とは仏陀の入滅から時間が経ちすぎると人々が悟れなくなるのではないかという思想だ。
この思想が、比叡山の僧が秘技を用いて資金を得ていることなどの現状から広まり、
親鸞が阿弥陀仏陀に頭を下げる理由になる。
親鸞は、48回頭を下げるときに18回目だけに集中して深く頭を下げることなどを提唱している。
聖徳太子は「観音」の化身とされた。
法然の念仏カルトも弾圧されたが、親鸞は「天皇家の次男」としての聖徳太子をカルトにすることで
念仏カルトの弾圧を防いだのかもしれないね。
浄土真宗は「太子信仰」を基盤にしているのだ。
「親鸞の夢」
親鸞は個人的に原体験をもっていた。
六角堂に百日間滞在した時に聖徳太子の夢を見たのだ。恵信尼の夢も見たとされる。
そのあとに法然の念仏カルトに帰依している。
六角堂で見た夢がのちに聖徳太子カルトとして浄土真宗の核心を形成していくのだ。
「太子信仰の歴史」
平安時代は、後期に入って権力構造が変わった。
地方に荘園ができて武士が底を資金源に台頭してきたのだ。
寺は皇室を資金源にするようになった。
仁和寺などは、皇室を支持し、アンチ藤原を標榜した代表格だ。
藤原道長は、自分を聖徳太子の化身としている。
この頃から太子信仰はあったようだ。
頼朝が鎌倉幕府を作った時には、頼朝も「聖徳太子の生まれ変わり」と言っている。
武士にとって聖徳太子は権力の正統性に関わる存在であり、それは天皇の次男としての立場にとどまらず、
彼の作った十七条憲法が権力腐敗を戒める強烈な意味をもったからだ。
鎌倉の大仏は「菩薩観音」「聖徳太子」「聖武天皇」の意思で作られたと位置づけられた。

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  • 2012/12/29(土) 16:00:02.83
聖徳太子がなぜ「仏教の父」と呼ばれるようになったかというと「カルマの法則」と「本正話(ほんじょうわ)」
について語ったからだ。
本正話とは「ブッダが生まれ変わる前の話」という意味だ。
ヒマラヤボーイが悪魔の掌の上に落ちて、マハーサットバ王子が飢えた虎の上に落ちて、
両者が似たような姿勢をしていて仏陀として生まれたという話なのだ。
聖徳太子は、うまやどの王子という名前は知られているが、宮殿の南ウィングで推古天皇の職務の
すべてを代行したために「上宮太子」とも言われている。
実は「虎」というのは「本能のままに生きた人」を意味するし、
「悪魔」=閻魔大王というのは「権力を利用して部下を顧みずに天上界に戦争を仕掛けては敗北する人」を
意味します。
ゴータマはお父さまとお母さまをそのように見ていたのでしょうか。
専修念仏というのは「念仏を唱えるだけで悟りが開ける」という思想だ。
仏陀が入滅してから時間が経ちすぎるともはや悟りが開けないのではないかという末法思想を背景に
阿弥陀が愛したピュアランドで念仏を唱えればその土地に生まれ変われるという思想が広まったのだ。
空海は「大日如来の語った言葉を唱えれば悟りを開ける」と言ってお経を唱えさせたが、
念仏というのは「自分が今いる土地に生まれ変われる」から唱えるという違いがあるのだ。
五木寛之の「親鸞」も読んだんだけどね。
「浄土」(ピュアランド)の解釈がちょっと違う。
現在生きている土地のことを「浄土」と言って、その土地で念仏を唱えればそこに生まれ変われるという思想が
親鸞の思想だ。
「浄土往生」とは「今いる場所に生まれ変わる」という意味なのだ。
人が死んだら「南無阿弥陀仏」といって「俺はこの土地にとどまるよ」というのだ。
法然上人は、多くの経典を読んだ結果、経典は「知識・瞑想・教訓」の三つに集約されているとした。
法然上人の死との向き合い方について書きたい。
我々は死ぬときには悪魔に魂を売り渡してでも生きたいと思うだろう。しかし、そのあとに平穏が訪れ、
阿弥陀仏陀が深く頭を下げて、ファーストランクの扱いで船に乗せるだろう。
そうやって浄土に導かれると法然は説明した。
この「浄土」というのが「我々が今まで生きていた土地」と親鸞は言っているのだ。

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  • 2012/12/30(日) 00:12:24.52
計算しきれない無限の心。しかし肉体は目に見えるものだ。そのデュアリズムから
宗教は「心の需給ギャップ」を埋める必要があるというのが私の見解だ。
宗教の側にも協議を洗練させる努力が求められるのだ。

「震えるハートを抱いてください」

お前ら。この論文を読めばどの女を狙えばいいのかが分かるよ。
http://plato.stanford.edu/entries/astell/

スタンフォードの論文。「肉体的完全性のない女は、高い教育を与えないと神を語るようになる」
女性は豊富な形而上学的教育を受けていないし、何が真実かという知識にも欠ける。
また、彼女たちの意思をどのように用いていいかもわからない。
その代わり、肉体的完全性を求めたり、他の女性の肉体的完全性を褒めたりする。
したがって、むなしさとプライドという「女性の悪」を生み出す。
まさに「サルベーション(救済)」が問題となるのだ。

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  • 2012/12/30(日) 00:13:27.58
「世界中の微笑を集めてもかなわない」
http://www.youtube.com/watch?v=0m_kStQQC0w


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  • 2012/12/30(日) 01:02:04.48
法然上人の死との向き合い方について書きたい。
我々は死ぬときには悪魔に魂を売り渡してでも生きたいと思うだろう。しかし、そのあとに平穏が訪れ、
阿弥陀仏陀が深く頭を下げて、ファーストランクの扱いで船に乗せるだろう。
そうやって浄土に導かれると法然は説明した。
この「浄土」というのが「我々が今まで生きていた土地」と親鸞は言っているのだ。

法然上人は、子供の頃に母に言った。
「私は生まれ変わって栄光に包まれる宿命だ。父の言いつけもあって比叡山にのぼらなければならない。
朝起きて夕方に生活は高揚する。これがすばらしいことだ。
親に感謝することはいいことだけど、自分の名前を永遠にすることはもっといい親孝行だ」

法然の母は、夫の忘れ形見である法然の言葉を「合理性を失っている」として、床のわきで泣いた。
修行のために作られた寝苦しい寝床だった。
母は息子が比叡山に行くことを認めたのだ。

法然は言った。
「あなたは自分の将来すらわからないでしょう? 他の人の将来なんてなおさらわからないよ。
座ってみなさい。そんなことすらわからないのが人間なんだよ」

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  • 2012/12/30(日) 01:19:59.08
法然の語る言葉に理があったからこそ、日蓮の立正安国論で旅人は先生に「法然の悪口を言っていると殺されんぞ」
と言っているのだ。
法然の言葉はのちに書いていきたい。

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  • 2012/12/30(日) 01:46:12.81
法然がなぜ比叡山にのぼれたかというと、僧「寛学」の紹介状があったからだ。
紹介状には、天台宗の元弘あてに「文殊の聡明さと偉大さの肖像をここに送る」と書かれていた。

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  • 2012/12/30(日) 02:00:01.85
法然は「念仏の唱え方」も語っている。
我々の目や耳はいろんなものに注目しているし、日常のストレスにさらされている。
そんな中で念仏を唱えると、目と耳がいろんなことを忘れることができる。
念仏は心と体を刺激する。
部屋をきれいにしてお香をたき、一日6回から12回念仏を唱える。
複数の人で実践する場合は、いろんな人の都合を考えて7回がいいとした。
我々の心はいろんな宗教の妨害にさらされているので、魂をまっすぐに保つのに念仏はいいとした。

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  • 2012/12/30(日) 02:06:29.71
「自力と他力」
念仏を一度か二度唱えて念仏だけで救いを得ようとするなら「自力」だ。
何千回も唱えたり、たった一度でも心を込めて唱え、阿弥陀の救済を得るなら「他力」だ。
この区別を法然は行っている。

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  • 2012/12/30(日) 02:46:40.60
法然は、魚を食べると浄土に行けないのではないかという議論にも答えを与えている。
彼は「猿は魚を食べない」ということに注目し、猿は猿として生まれ変わるとした。
そこで、やはり念仏という神聖な名前を唱えると浄土に行けると論じたのだ。

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  • 2012/12/30(日) 02:55:22.64
念仏を唱えるということは「阿弥陀を信頼する」ということだ。
他の仏陀や菩薩があなたに慈愛に満ちた頭を下げてもそれは一方的だし、
あなたが頭を下げるのも一方的だ。
つまり、阿弥陀を信頼してさえいれば他の宗派とは関係をもたないとしたのだ。

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  • 2012/12/30(日) 03:16:00.68
法然の直筆「南無阿弥陀仏」
http://hougakukyoushitu.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2012/12/30/nennbutu.jpg

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  • 2012/12/30(日) 03:49:09.37
親鸞は、9歳の時に延暦寺に入るというエリートだった。慈円に教わって20年間念仏を唱えた。
しかし、天台宗の「サンガ」の腐敗に不満を持ち、延暦寺を去っている。
六角堂に入り、95日目に、聖徳太子の夢を見た。
聖徳太子は「偉大な人物との出会い」を予言した。
それが「法然上人」だったのだ。

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  • 2012/12/30(日) 04:29:48.79
神とは「ファーストインテリジェンス」のことである。
その本質は無限の完璧さをもっている。
「知恵」「善良さ」「正義」「神聖さ」「インテリジェンス」「存在感」「力」「己の存在」これらをリストアップできる。
女性は、存在感と完璧さと神を生み出す力の創造力を必要としている。
神を知るためには単純さと、区別された認識力と、適切,な考えであることと、直観により証明すること
などが必要とされ、また、言葉と考えの関係も必要となる。
疑えるものと疑う余地のないものが存在し、神の完璧さと、因果関係と、美しさが世界を構成している。
これらを、>>37の女性たちは議論するのだ。

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  • 2012/12/30(日) 05:38:56.90
法然は、経典のページをめくるたびに「阿弥陀」のことしか頭に入らなくなった。
寝ても覚めても阿弥陀のことが頭にあった。
仏陀が入滅してどんなの時間が経過しようともひたすら阿弥陀にすがろうという発想につながり、
他の宗教のあらゆる実践を捨てて念仏を唱えたのだ。

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  • 2012/12/30(日) 16:33:29.66
「南無阿弥陀仏」というのは「ああ!阿弥陀仏陀。私を救ってください」という意味だ。

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