宗教弾圧の血塗られた歴史を持つ日本は野蛮国だよね [sc](★0)
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- 2009/08/11(火) 05:52:30
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アイヌや琉球の伝統宗教破壊、一向宗やキリシタンの弾圧、延暦寺はじめ天台宗寺院の焼き討ち、不受不施派や大本教の迫害、
徳川家康による豊国神社破壊や松永久秀による東大寺大仏殿の破却、上智大学学生に対する靖国神社参拝や朝鮮での神社参拝強要、など叩けばいくらでも出てくるという感じ。
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- 2010/06/13(日) 12:35:18
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『イスラム教は脅威であり、打破すべきである』とする全般的な合意が事実上スペインにはあった。
しかし、公式にはキリスト教徒となっているモリスコたちに対し、どのような方法でイスラム教徒か否か照会するかは不明であった。
王家の参事官であるルイス・デ・アリアガ(1619年-1621年には異端審問所長官を務めた)のような一部の聖職者たちは、同化して、完全なキリスト教徒となるよう時間を与えて支援すべきとした[1] 。
この意見は、ローマの教皇庁も敏速に支持していた。
モリスコの最も熱心な援護者はバレンシアとアラゴンの貴族たちで、この姿勢には彼らの利己心が含まれていた。
これらの貴族は、モリスコが提供する乏しく安い労働力から最も利益を得ていたのである。
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- 2010/06/13(日) 12:38:50
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この見解に反対したのは、様々な名士と階級の人々だった。
アリアガに反対する聖職者にはハイメ・ブレダが含まれていた。
彼はバレンシアでの異端審問の最も著名な人物だった。
ブレダは初期にフェリペ3世に対して数回の申し入れを行い、モリスコ問題を消すかさもなければ終わらせるかを進言した。
彼はジェノサイドまでも勧めていた[1]。
最初、この種の嘆願は成功に結びつかなかった。
1596年、フェリペ3世の財政担当者であるレルマ公フランシスコ・デ・サンドバル・イ・ロハス(es)は、モリスコはイスラム教徒のバルバリア海賊と共謀していると告発した。
しかし、この意見に多くの住民が固執する間、残りの人々はこの脅威はずっと以前に終わってしまったとみなした。モ
リスコへのどんな懲罰的措置にも反対するアラゴン議会は、たとえモリスコたちがスペインを裏切りたかったとしても、
『モリスコはトルコ艦隊のために武器も軍用必要物資も所有しないし、守備も固めないし、基地も持たない』のでそのような状況にないと書いた。
その時に何も起きなかったが、レルマ公はモリスコに対する自らの反感を持ち続けた[2]。
一般庶民のうち、バレンシアの小作農らはこの件に最も関心を抱いていた。
彼らはモリスコを敵意のまなざしで見、彼らを経済的・社会的な競争相手とみなしていた[1]。
この不満は1520年以前、バレンシア一般大衆がバレンシア貴族だけでなくイスラム教徒のムデハルらに対しても反乱を起こした
ヘルマニア反乱(en:Revolt of the Brotherhoods)の時に沸き立った。
暴徒はバレンシアのモリスコを構成するイスラム教徒人口の多くを殺害し、生存者に大規模な洗礼と改宗を強いた。
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- 2010/06/13(日) 14:05:07
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レルマ公は結局、バレンシア大司教フアン・デ・リベラ(en:Juan de Ribera)の助けを借りてフェリペ3世を納得させた。
大司教はモリスコを全般的に異教徒・裏切り者であるとみなす人物であった。
大司教は王に、より説得力があるよう計画をたてる構想を与えた。
王はモリスコらの資産と不動産を没収でき、このことによって王家の財源にかつてのような劇的な後押しが提供された。
大司教は『良心のうちのどんな良心の呵責もない』のでこのようなことができたのだが、
彼は王に、モリスコを奴隷にしてガレー船、鉱山、アメリカ大陸植民地で働かせるようにも勧めたが、この提案は拒否された[1]。
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- 2010/06/13(日) 14:08:25
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1609年4月9日、モリスコ追放の勅令が署名された[3] 。
政府は、それほど多くのモリスコを追放することには問題があると知っていた。
モリスコ住民数が最大であるバレンシアから追放が始められることが決まっていた。
準備は厳正に秘密裡になされた。
9月に入り、イタリアからテルシオの大軍が到着した[4]。
彼らはバレンシアの主要港、アルファケス、デニア、アリカンテに配置された。
9月22日、バレンシア副王・バレンシア大司教フアン・デ・リベラが、勅令の公表を命令した。
モリスコ労働者を失えば自分たちの農業収入は崩壊してしまうと、バレンシア上流階級は追放に抗議するため政府と会見した。
政府は、彼らの損失と引き替えにモリスコの資産と土地の一部を提供したが、損失の補償となるには不足だった。
モリスコは、持ち運べるものなら何でも持っていくよう許された。
しかし、彼らの住宅と土地は彼らの主人のものとなった。
移動の前に自宅に火をつけたり壊したら、死を覚悟しろと禁じられた[4]。
特定の例外が与えられた。
全ての100世帯のうちの6世帯は、皆が去った後に残り、モリスコが優勢であった町での基盤を維持して良いと許された。
ごく少数しかこの特例に該当せず、彼らも後でいずれは追放されるだろうと考えられていた。
加えて、4歳未満の子供たちの追放は選択自由であった。これは後に16歳まで拡大された。
リベラ大司教は、強くこの解釈の一部に反対した。
彼は、少なくとも、子供たちが両親とともに去ることを禁じ、『彼らの魂の救いのために』隷属させ、キリスト教徒にさせなくてはならないと働きかけた[4]。
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- 2010/06/13(日) 14:14:50
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9月30日、最初の亡命者たちが港へ連行され、そこでは最後の侮辱として、彼らに旅行代金を支払うよう強制した[4]。
モリスコたちは北アフリカへ輸送された。
そこで彼らは時に、受け入れ側の人々から侵略者だとして非難された。
別の時には、小さな反乱が船上で起こり、船員との戦闘で亡命者の数人が殺害された。
これが、バレンシアに残ったモリスコ住民の恐怖を引き起こし、10月20日に追放に反対する反乱が起きた。
6,000人を数えた反乱軍は、人里離れたアヨラ谷とムエラ・デ・コルテスを占拠した。
5日後、新たな反乱がバレンシア南岸で起こり、15,000人の反乱軍がルガル谷を占拠した[5]。
11月に反乱軍は制圧された。
わずか3ヶ月間で、11万6千人ものモリスコがバレンシアから北アフリカへ輸送された。
1610年にアラゴン王国でモリスコ追放が始まった(特定の地域としてのアラゴンであり、元のアラゴン王国領全土ではない)。
41,952人がアルファケス経由で北アフリカへ送られ、13,470人がピレネー山脈を越えてフランスへ送られた[5]。
アグドの港にモリスコの大半が送られたことにフランス人は憤慨し、そして陸路をとった人々は通過料と海上料金を請求された[5]
9月、カタルーニャ君主国のモリスコたちが追放された。同様にアンダルシアは32,000人のモリスコを追放した[5]。
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- 2010/06/13(日) 18:41:23
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カスティーリャでのモリスコ追放は、最も困難な作業だった。
どの場所にも固まって住まず、むしろ1571年のモリスコ反乱以後、モリスコたちはカスティーリャ国内に分散していたのである。
このために、モリスコは自発的な出立という最初の選択自由を与えられた。
彼らは自分たちの一番価値のある財産を売ったり他のことをすることができた。
カスティーリャでのモリスコ追放は1611年から1614年までの3年間続けられた。
全体の32,000人ほどのモリスコがカスティーリャを去った。
一部は追放を避けてスペインにとどまることさえできた。
公式に追放が完了された後、おおよそ1万人ほどのモリスコがスペインに残ったと見積もられており、その大部分はカスティーリャにいた[5]。
追放は印象的に作用した。
国家は、居住者の地位の目録を注意深く保管し、官僚機構は短期間で国からあのような膨大な人数のモリスコを追い出すために、効率的に機能したのである。
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- 171
- 2010/06/13(日) 18:43:58
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カスティーリャ議会は1619年の追放を評価し、国にとっての経済的影響はないと結論づけた。
これはカスティーリャにとって基本的な真実であった。
一部の学者がモリスコ人口が重要であった部門で経済的結果を何も見いださなかったからである[6]。
しかし、バレンシア王国では農地は打ち捨てられ、キリスト教徒がおそらく満たすことができなかったであろう空白が経済分野に残された。
バレンシア王国の住民の33%を取り除いたことで、アリカンテ北部にある一部の郡では事実上その住民全てを失った。
経済・社会基盤は凋落し、キリスト教徒貴族と大地主たちは支払いの滞り状態となった。
現金に困ったバレンシア貴族の多くが、かつての収入に近いほどの返済をしなければならない借地料を、キリスト教徒の小作人らに対して増額した。
借地料の増加は、どんな新しい借地人でも取り替えられるために、支払いのできない借地人は追い払われるようになった。
その結果、バレンシアの農業生産高はすさまじく下がったのである[7]。
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- 172
- 2010/06/13(日) 18:49:12
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人口の4%の追放は少数に見えるかもしれない。
しかし、モリスコ人口は、考えられていたよりも大きな一般の労働人口であったことに留意しなければならない。
実際、モリスコは貴族、兵士または聖職者になるほど信用されていなかった。
これは、徴税において目立って税金収入が低下したことを示していた。
そして最も大きな被災地であるバレンシアとアラゴンは、数十年に渡って経済的に損害を受けた。
追放は、バレンシアとアラゴンの経済というだけでなく、貴族の権力にとっても大打撃であった。
しばらくの間かつてのアラゴン王国は、より豊かで人口の多いカスティーリャ王国の影であった。
しかしこのモリスコ追放で、バレンシアとアラゴンの成長はさらに減退した。
イベリア半島東部の王国のうち、カタルーニャ貴族は今や傑出し、彼らの収入は上記の2カ国よりはるかにモリスコ追放の影響を受けなかった。
このように、モリスコ追放は、バレンシアとアラゴンの伝統的な経済中心地からカタルーニャへと力を移すのを助けた[8]。
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- 173
- 2010/06/13(日) 18:55:00
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断固としてカトリック教徒のままいることを望んだモリスコたちは、だいたいにおいて新たな家をイタリア(特にリヴォルノ)で見つけることができた。
しかし、追放された人々の圧倒的多数は、イスラム教徒が掌握している北アフリカに定着した。
2008年に実施された遺伝子研究によると、モリスコを先祖に持つ人の一部がスペインに残るのが目立ち、追放がそれほど効果的でなかったかもしれないことを示している。
これは、『宗教上の改宗(任意か強制かにかかわらず)を高水準で示す』北アフリカ出身者(10.6%)を先祖に持つ平均割合の高さを示している。
彼らは、社会的・宗教的偏見の歴史的な出来事によって追いたてられ、最終的には子孫の同化に至った[9][10]。
数世紀後、謝罪の手段として、もう一度、モリスコの子孫であるスペイン市民は申し出てほしいとする提案が2006年になされた。
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- 174
- おてんば私立学院総長
- 2010/06/17(木) 01:52:21
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>>173
逆にモロッコやチュニジア・アルジェリアなどの「マグリブ」の国々には
ラテン系の遺伝子を持つ人々が一定数はいるのでは?
モリスコとして追放された人々のほかに「ムサラベ」となってしまったがために
イベリア半島から追放されたラテン系や旧西ゴート王国系の人々の末裔が。
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- 175
- 2010/06/17(木) 20:55:07
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「モサラベ」はイスラム教政府支配下のキリスト教徒。
追放されるとしたら先ずフランスかイタリアに逝く。
又いっちょ噛みどすかへ?
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- 176
- 2010/06/17(木) 22:12:36
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http://www.tufs.ac.jp/21coe/area/insatsu/pmg_workshop_030927_aiba.pdf
「追放後のモリスコ(北アフリカを中心として)」
報告者 愛場百合子
今回の、追放後のモリスコについての発表では、モリスコが移住した地域の中でも、特に多数の
モリスコが移住したと考えられる北アフリカの三つの地域、モロッコ、アルジェリア、チュニジアを中
心に話をすることにした。
追放後のモリスコについて説明する前に、まず、モリスコ研究の中でこの分野がどのように位置づ
けられるかをまとめた。従来のモリスコ研究のほとんどは追放前の、つまりイベリア半島におけるモリ
スコに関するもので占められていたが、近年になって追放後のモリスコに関する研究は欧米の研究
者およびアラブ世界の研究者双方の協力により、著しい発展を続けている。参考として、主な研究
者、主要な研究機関、雑誌を紹介しておいた。
次に、モリスコ追放の歴史を概観した。追放は1609 年から1614 年にかけて行われ、およそ30 万
人のモリスコがイベリア半島を離れたと考えられている。バレンシアのモリスコがOran に向けて出航
し、その後アンダルシア、カスティーリャ、アラゴン、ムルシアなど、スペイン各地のモリスコが陸路フ
ランスを経由してトルコへ、または海路、北アフリカやエジプトなどへ移住したのである。
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- 177
- 2010/06/17(木) 22:14:22
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さて、モロッコは、当時、他のマグリブ地域とは異なり、地中海に勢力を拡大していたオスマントル
コの脅威、さらにポルトガルやスペインの脅威に脅かされながらも独立を保持していた。追放令の
後にモロッコに移住した大勢のモリスコはスペイン文化の深い影響を受けていたため、それ以前に
半島から間断なく海を渡って来ていたムスリムが比較的緩やかにモロッコ社会に同化したのに対し、
モロッコの社会組織に大きな変化を及ぼしたとされる。代表的なモリスコの町としては、Sale‐Rabat
とTetuan が挙げられる。この2 つの港町は、当初モリスコが自分たちのための独自の社会構造を
形成するために政治的な自立を実現させたが、その後、既存の構造に順応させざるを得なくなっ
た。これらの町には、主としてHornachos やExtremadura のモリスコが移住している。移住した最初
のモリスコはアラビア語を知らなかったとしても、徐々に口語、俗アラビア語を使用し、ムスリム社会
に順応していったと考えられる。一方では、モリスコの中にはスペイン風の苗字を現代に至るまで
保持している者も少なくない。
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- 178
- 2010/06/17(木) 22:22:53
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モロッコと同様にアルジェリアにおいても、モリスコ追放以前から、すでに数多くのムスリムたちが
移住していた。当時オスマントルコ領となっていたアルジェリアは、キリスト教徒との戦いに備えて移
住者たちを受け入れていたと考えられる。追放されたモリスコが到来した町には、まずOran がある。
ここにはスペインの要塞があったために、そこからFez、Tlemecen への移住が試みられた。モリスコ
が定住した地域は、Alger、Tlemecen など、トルコの支配の及ぶ地域で、トルコと敵対関係にあった
山岳部の部族の住む地域や、スペインと同盟関係にあるような地域には定住していない。また、モ
リスコが作ったすばらしい農園で有名なMitidja や、モリスコが廃墟から復興を果たしたCherchel の
町がある。モリスコは農業、手工業に従事し、また、海賊行為や奴隷貿易に関与していたという記
録もある。アルジェリアに移住したモリスコは、バレンシア出身の者が多かったため、イスラム社会へ
の同化、言語の習得に多くの時間を要することはなかっただろうと考えられる。
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- おてんば私立学院総長
- 2010/06/19(土) 01:12:02
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>>175
まあ、そう怒るな。
勘違いしてしまったのさ。
まあ、こちらとしてはイスパニアを宗教的にムスリムの手で再々征服させてやりたいと。
アムステルダムやロンドンなんか以上に重要なムスリム都市をイベリア半島のどこかに出現させることから始めちゃうの。
尤も、今更コルドバやグラナダをムスリム拠点の街にということもないだろうけど。
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- 2010/06/19(土) 11:21:34
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次回予告 「グラナダ陥落」 次々回予告 「地中海の柱〜ジブラルタル封鎖〜」 次々々回予告 「バスク呼応」
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- 181
- 2010/06/19(土) 16:04:03
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>>179 そんなあるかないか分からぬような曖昧な話より、モリスコ追放後植民地化されるまで
海賊によって拉致されてきたモロッコ王国宮廷に使役される白人奴隷の明確な記録がある。
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- 182
- 2010/06/19(土) 16:11:27
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チュニジアへのモリスコの移住は、上記のモロッコやアルジェリアの場合と異なり、17 世紀とそれ
以降に集中している。この時、約8 万人のモリスコが到着したとされる。多数の、しかもスペイン文化
の強い影響を受け、アラビア語もほとんど使用できないモリスコのこの地への同化は困難であった。
そのため、チュニジアのモリスコ共同体は、今日までその特異性を保持していると考えられる。主な
モリスコの町としては、Tunez、Bizerta、その郊外の町Hawmat‐al‐Andalus(アンダルシアの人たち
の地区)などがある。チュニジアへ逃れてきたモリスコの多くは、カスティーリャ、アラゴン、カタルー
ニャの者であった。彼らは、移住後もしばらくの間スペイン語を話していたという記録も残っており、
また、スペイン的な名前を保持するものも少なくなく、現在に至っている。
以上、北アフリカの三つの地域について見てきたが、モリスコの移住先として、他には、イスラム圏
の諸地域、バルカン、アナトリア、エジプト、シリア、リビアなど、また、フランスやイタリア、さらにはカナリア諸島や中南米などもあることを付言した。
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- 2010/06/19(土) 16:17:45
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最後に、追放後のモリスコに関する今後の課題としていくつかの点を指摘した。まず、北アフリカ
におけるモリスコに関しては、17 世紀およびそれ以降の同時代人による当時のマグリブ社会の記
録が多く残されているので、それらを整理してまとめ、モリスコたちの実態を知る資料としてさらに活
用していくことができるだろう。同時代人としては、例えば、Al ‐Maqqari, Diego de Haedo,
Francisco Ximenez、Show、Venture du Paradis などがモリスコについて言及している。また、北アフ
リカのモリスコについて、特にその軌跡、影響について考える場合、マグリブ世界はイベリア半島と
距離的に非常に近い位置にあり、また地中海貿易においても交流が盛んで、イベリア半島のムスリ
ムやキリスト教徒とマグリブ社会の者との接触は常に行われていたため、マグリブ世界に見られるさ
まざまな痕跡をモリスコの影響として特定すること、どの時代の影響なのかを特定することは非常に
困難であると言わなければならないだろう。また、北アフリカ以外の地域のモリスコに関して、近年、
多岐にわたる研究が精力的に行われており、それらの研究についても十分に検討していく必要が
あるだろう。__
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- 2010/06/19(土) 16:24:10
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%82%BF
レコンキスタ(スペイン語:Reconquista)は、718年から1492年までに行われたキリスト教国によるイベリア半島の再征服活動の総称である。
ウマイヤ朝による西ゴート王国の征服と、それに続くアストゥリアス王国の建国から始まり、1492年のグラナダ陥落で終わる。
レコンキスタはスペイン語で「(国土の)回復」を意味する。
ポルトガル語では同綴でルコンキシュタという。
日本語では国土回復運動(こくどかいふくうんどう)または、再征服運動(さいせいふくうんどう)と訳される。
目次 [非表示]
1 ムスリム勢力のイベリア侵攻
1.1 ウマイヤ朝の侵攻と西ゴート王国の滅亡
1.2 アストゥリアスの反乱と後ウマイヤ朝の建国
1.3 フランクの侵攻とイベリア北部の独立
1.4 レオン王国の建国とアブド・アッラフマーン3世の治世
1.5 カスティーリャ伯領の設置とマンスールの台頭
1.6 後ウマイヤ朝の滅亡とタイファ時代の開幕
2 キリスト教勢力の南進
2.1 カスティーリャ王国の内紛と興隆
2.2 ムラービト朝の上陸とタイファ諸国の併合
2.3 アラゴン王国の興隆とポルトガルの建国
2.4 アルフォンソ7世の分裂策とムラービト朝の滅亡
2.5 教皇の呼びかけとラス・ナバス・デ・トロサの戦い
2.6 ムワッヒド朝の衰退とイベリア南部の征服
2.7 ナスル朝の建国とその生存戦略
3 レコンキスタの終焉
3.1 キリスト教勢力の分裂とマリーン朝との戦い
3.2 カスティーリャの内乱とスペイン王国の誕生
3.3 グラナダ陥落
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- 2010/06/19(土) 16:31:05
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%90%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AD%E3%82%B5%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
ナバス・デ・トロサの戦い(スペイン語: Batalla de Las Navas de Tolosa 、アラビア語: معركة العقاب )は、
1212年7月16日にイベリア半島、現アンダルシア州ハエン近郊のナバス・デ・トロサで、カスティーリャ王をはじめとするカトリック諸国連合軍とムワッヒド朝のカリフ率いるイスラム諸国連合軍の間で行なわれた戦いである。
この戦いの意義の大きさから当時の年代記作者たちは単に「あの戦い」(La Batalla)と記すことが多い。
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- 2010/06/19(土) 16:58:43
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戦前のイベリア半島情勢 [編集]
1195年、アラコルスの戦いでカスティーリャ王アルフォンソ8世は、
勢いに乗るムワッヒド朝のカリフ・ヤアクーブ・マンスールに敗れ、
この戦いでムワッヒド朝はトルヒーヨ(現エストレマドゥーラ州)、
プラセンシア(同)、タラベラ(現カスティーリャ・ラ・マンチャ州)、クエンカ(同)などの重要な町を奪った。
そのためタホ川流域以南は依然としてイスラム勢力の支配下に置かれることになった。
しかも同年、その敗戦につけこんだレオン王アルフォンソ9世から攻撃を受けた。
これは退けたものの、このようにカスティーリャ王国は、
東隣のアラゴン連合王国とは条約で国境を定めていたが、西隣のレオン王国やポルトガル王国とは国境紛争が繰り返されている状況であった。
カトリック連合軍の集結と脱落者の続出 [編集]
1199年にヤアクーブ・マンスールを継いだムハンマド・ナースィルは1211年、10万を越える大軍を率いてジブラルタル海峡を渡り、
カラトラヴァ騎士団の守るサルヴァティエラの要塞を占領して、カトリック諸国の心胆寒からしめた。
ムワッヒド朝が新たに攻撃の準備をしていることを知ると、教皇インノケンティウス3世とトレドの大司教は、
カトリック諸国間で争うのをやめ、カスティーリャ王アルフォンソ8世の指揮下で一致団結して対イスラム戦争を戦うように命じた。
教皇の仲裁の下で、カスティーリャ王アルフォンソ8世、ナバラ王サンチョ7世、アラゴン王ペドロ2世は同盟を確約した。
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- 2010/06/19(土) 17:05:48
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カトリック連合軍の構成は次のようであった。
アルフォンソ8世の指揮する軍勢はカスティーリャの20の町の軍団の連合であった。
メディナ・デル・カンポ、マドリード、ソリア、アルマサン、メディナセリとサン・エステバン・デ・ゴルメスなどの町が含まれていた。
ビスカヤ(Vizcaya)の領主ディエゴ・ロペス2世デ・アロ(Diego López II de Haro)が旗の持ち手になった。
そしてナバラ王サンチョ7世、アラゴン王ペドロ2世、ポルトガル王アフォンソ2世の軍である。
ポルトガル軍はこの戦いには参戦したものの、王自身は参戦しなかった。
それからテンプル騎士団、サンチャゴ騎士団、カラトラヴァ騎士団、オスピタル騎士団などの騎士修道会や、フランスの司教に率いられた騎士らが加わった。
レオン王アルフォンソ9世はアルフォンソ8世と敵対していたために来なかったが、レオン王国の騎士たちは王の名代としてはせ参じた。
1212年の夏にこうしてカトリック連合軍はトレドに集結した。
そしてムハンマド・ナースィル率いる親征軍と歴史的な決戦をすべく南方へ向かって進軍した。
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- 2010/06/19(土) 17:09:56
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アルフォンソ8世にとってはアラコルスの雪辱を果たす好機でもあった。
しかし、教皇至上主義の騎士たちの一部が連合軍から刃こぼれするように脱落していった。
つまり、キリスト教連合軍の指揮官アルフォンソ8世に従ってついてきただけの義勇兵的な騎士たちには、政治的な了解などの強い動機があったわけではなかった。
彼らにとって暑くて不快な慣れない気候は耐えられないものだったのである。このように、カトリック連合軍は必ずしも足並みが揃っているわけではなく、当初6万を超えた兵力は5万程度まで減少した[1]。
ナバス・デ・トロサの戦闘経過 [編集]
アンダルシア地方のハエンの住民の間の小競り合いに半ば介入する形で、1212年7月16日にハエン近郊のナバス・デ・トロサで両軍は戦闘を開始した。
カトリック連合軍の配置は、カスティーリャ王と騎士修道会の軍勢が中央に陣取り、ナバラ王、アヴィラ市、セゴビア市、メディナ・デル・カンポ(バリャドリッド)市の軍勢が右翼、左翼にアラゴン王の軍勢が陣取っていた。
はじめは小競り合いのような戦いが繰り返された。
カトリック連合軍は約5万、ムワッヒド軍は約12万5千の兵力であった。
ムワッヒド軍は正面からの衝突をなるべく避けて、カトリック連合軍が疲れてくるのを待つ戦術をとった。
イスラム軍はカトリック軍の2倍をはるかに凌駕する兵力であり、後退するように見せかけて、主力の厚みを生かして一気に反攻するつもりであった。
つまり、カトリック連合軍を挑発しておいて混乱しているところを、アンダルスと本国のベルベル人で構成された圧倒的な戦力をもってイベリア半島から一気に叩き出すつもりであった。
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- 2010/06/19(土) 17:16:00
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イスラム教徒軍が後退を始めた時、それを見ていたカトリック連合軍の陣中では、アルフォンソ8世が臣下である騎士たちや王子の正面にいた。
アルフォンソ8世はカトリック王たち共通の、そして自分自身に課せられた使命を果たすチャンスと見てとった。
アルフォンソ8世は、ムハンマド・ナースィルの本陣の反対側の脇腹に突撃をかけた[2]。
この攻撃はカトリック連合軍の士気を奮い立たせた。
一方、ムワッヒド軍は大混乱に陥った。
アラゴン軍やナバラ軍の小競り合いのような戦いも形勢が一気に傾いた。
この時、伝説のように語られるナバラ王サンチョ7世の突撃が行なわれた。
ナバラ王は揮下の精鋭を率いてムハンマド・ナースィルの本陣めがけて突攻し、本陣のテントを鎖のように守る屈強な奴隷による親衛隊を打ち破って、テントまで斬り込んだ。
ムハンマド・ナースィルとその軍勢は慌てふためいて、9万とも10万ともいえる犠牲者を出して敗走した。
一方、カトリック連合軍の戦死者は2000人ほどであった。
主な犠牲者は騎士修道会に集中していた。カラトラヴァ騎士団の旗手であるペドロ・ゴメス・デ・アセベド(Pedro Gomez de Acevedo)、
サンチャゴ騎士団修道長(comendator)アルフォンソ・フェルナンデス・デ・バリャドーレス(Alfonso Fernandez de Valladares)、
サンチャゴ騎士団隊長ペドロ・アリアス(Pedro Arias、大怪我を負い8月3日死亡)、テンプル騎士団隊長ゴメス・ラミレス(Gomez Ramirez)、
カラトラヴァ騎士団隊長ルイ・ディアス(Ruy Diaz)は、指揮ができないほどの悲惨な怪我をしていた。
一方、敗北したムハンマド・ナースィルは本国へ逃げ帰ることはできたものの、翌年マラケシュで事故死した。
戦後のナバラ王国の新たな盾形紋章ナバラ王国の盾形紋章はこの戦いを契機に、赤地に金の鎖が描かれて中央にエメラルドが配される図柄となった。
この紋章は今もスペイン王国の紋章の右下部分に見ることができる。
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- 2010/06/19(土) 17:30:45
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ナバス・デ・トロサの戦いのもたらした影響 [編集]
ナバス・デ・トロサの戦いでムワッヒド朝の受けた打撃は壊滅的ともいえるもので、以後イベリア半島のイスラム勢力は衰退と後退の一途をたどることになった。
そしてムワッヒド朝の本国であるマグリブにおいても、やや時期が遅れたものの、衰退に拍車をかけることになった。
一方でカトリック諸国のレコンキスタの進展にははずみをつけることになった。
カトリック諸国間の内紛や1225年の大飢饉がなければ、もっとレコンキスタが加速したであろうと言われている。
ナバス・デ・トロサの戦いの後、カスティーリャ王国はバエサとウベダを獲得した。
これはナバス・デ・トロサ近郊の主要な砦であり、アンダルシアへ侵入する玄関口ともいえる拠点であった。
カスティーリャ王国のレコンキスタは フェルナンド3世の時代、1236年にコルドバ、1246年にハエン、1248年にセビリャを占領して飛躍的に進展した。
新たにアルコス、メディナ=シドニア、ヘレス、カディスを獲得している。
1251年にはナスル朝グラナダ王国を除いて、タイファ諸国はすべて併合された。
一方、アラゴン王国はハイメ1世の時代、1228年から4年をかけてバレアレス諸島を征服し、1238年9月にバレンシアを占領した。
バレンシアは13世紀の地中海においてジェノヴァやヴェネツィアに次ぐ商業都市となった。アラゴン王国は、バレアレス諸島からサルデーニャやシチリアまでの西地中海域を支配する「帝国」へと成長した。
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- 2010/06/19(土) 19:28:32
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ナスル朝の建国とその生存戦略 [編集]
1230年頃、ムハンマド・イブン・ユースフ・イブン・ナスルがアルホーナで蜂起しナスル朝を建国した。
ナスル朝は1235年にグラナダを攻略し、1238年に遷都した。このためグラナダ王国とも言う。
グラナダはシエラネバダ山脈の天険を最大の防御としており、キリスト教勢力も容易にこれを突破することはできなかった。
彼らの生存戦略は巧妙な外交によるもので、常に最適な同盟(あるいは臣従)の相手を選択した。
1246年からのセビリャ攻囲に、ナスル朝はカスティーリャの指揮下で参加した。
1264年、カスティーリャの圧力が強まると、北アフリカのマリーン朝を引き込んでこれに対抗させた。
こうした巧みな立ち回りと地理的優勢によって、ナスル朝はイベリアにおける最後のムスリム勢力として1492年まで存続した。
グラナダには、キリスト教徒に追われた多くのムスリムやユダヤ人が移り住み、彼らの貢献によって経済的にも文化的にも繁栄した。
イベリア・イスラーム建築の精華ともいえる世界遺産のアルハンブラ宮殿は、ナスル朝の統治下でおおむね現在の形となった。
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- 2010/06/19(土) 19:37:08
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キリスト教勢力の分裂とマリーン朝との戦い [編集]
ナスル朝が約250年にわたって存続した理由は、彼ら自身の生存戦略はもちろんのこと、敵対者であるキリスト教勢力が分裂していたのも大きな原因とされている。
アラゴン王国はバレンシアとバレアレス諸島を制圧したことによって、地中海への進出を狙うようになった。
大西洋に開けたポルトガル王国は、海洋立国を目指してアフリカや北海方面へ乗り出していた。
ナバーラ王国はそもそもイスラム勢力と隣接しておらず、カスティーリャとアラゴンの間で生き残りに必死だった。
つまり、この時点でナスル朝と本気で対峙していたのはカスティーリャ王国だけだった。
そのカスティーリャ王国にしたところで、決して他を圧するほど強大な存在ではなかった。
1212年から1251年の間に、カスティーリャの版図はほぼ倍増していたが、このために国内の統治は困難になっていた。
また、この時代の王権はそれほど強固ではなく、レオンやトレド、コルドバといった旧王国が大きな発言力を有していたため、政治的に分裂しやすかった。つまるところ、カスティーリャ王国とは、1人の王の下に統一された王国ではなく、諸国家の連合体にすぎなかった。
国内の政治的不統一は、後継者争いや権力争いと容易に結びつき、カスティーリャでは内紛が絶えなかった。
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- 2010/06/19(土) 19:44:34
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1260年、カスティーリャの視線はグラナダではなく北アフリカに向いていた。
カスティーリャ王アルフォンソ10世は、ムワッヒド朝の弱体化を好機と見て、ジブラルタル海峡を渡りモロッコへ侵攻した。
同じ頃、北アフリカではマリーン朝が勢力を拡大しつつあった。両者に挟撃される形になったムワッヒド朝は急激に衰退し、1269年、マリーン朝によって首都マラケシュを占拠されて滅亡した。
これによってカスティーリャとマリーン朝は直接対峙することとなった。
1275年、マリーン朝はイベリア半島に逆侵攻し、戦線は北アフリカとイベリアの両方に広がった。
両者の戦いは14世紀半ばまで慢性的に続き、最終的にはマリーン朝の内紛もあって、カスティーリャの優勢下で終わった。
マリーン朝による侵攻は、ムスリム勢力による最後のイベリア侵攻となった。
カスティーリャの内乱とスペイン王国の誕生 [編集]
1474年、イサベル1世が即位した当時のイベリア半島の状況
1350年に即位したペドロ1世が、王権の強化を狙って継承権を持つ親族の排除を開始したため、カスティーリャ王国は内乱に突入した。
トラスタマラ伯のエンリケは、アラゴン王国の支援を得てペドロ1世に対抗した。
この頃、ヨーロッパでは百年戦争が進行中であり、両者とも支援を求めてフランスやイングランドに接触したため、国外勢力が多数流れ込み、必然的に内乱は激化した。
1369年、エンリケはペドロ1世を排除し、エンリケ2世として即位した。
これによって、カスティーリャ王国の王統はトラスタマラ家に交代した。
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- 2010/06/19(土) 19:57:47
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1474年、イサベル1世がカスティーリャ女王に即位した。
彼女の夫はアラゴン王太子のフェルナンドであり、共同統治者としてフェルナンド5世と称される。
1479年、フェルナンドがフェルナンド2世としてアラゴン王に即位。
これによって両国は実質的に統合され、スペイン王国(イスパニア王国)が誕生した。
1492年、グラナダ陥落
1482年、グラナダで内乱が発生した。
これを好機と見て、カスティーリャ王国はグラナダへの侵攻を開始した。
1486年までにグラナダの西半分を制圧、1489年までには残りの東半分も制圧した。
1490年、カスティーリャはムスリム勢力最後の拠点グラナダを包囲した。
グラナダは2年間にわたる攻囲戦を戦い、その間にカスティーリャは軍事拠点としてサンタフェを建設した。
1492年1月6日、アルハンブラ宮殿が陥落し、ナスル朝は滅亡、レコンキスタはここに終結した。
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- 2010/06/20(日) 14:30:51
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>>1いつでも日本から出て行くがよい。
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- 196
- 2010/06/26(土) 09:03:17
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>いつでも日本から出て行くがよい。
祖国に帰ったら特権がなくなるだろが。
こんなこともわからないのか低脳の劣等民族イエローモンキー糞ジャップ(プ。
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- 197
- 2010/07/28(水) 16:47:07
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ようやく劣等民族であるという自覚が芽生えてきたみたいだな。w
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- 198
- 2010/07/29(木) 03:07:20
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よう、loser鬼畜CDU。
いつになったら
「人類普遍の客観的正義」の定義が現代法学で明文化され、共有化されているかい?
法実証主義の関わりは?
「人種に限らず各人に公平な機会を与える必要が何故あるのか?」
「で、何でイエローモンキーを白人と平等に扱ってやらなければならないの?」
と人種・民族差別大好きなお前の主張を正当化する合理的な理由は?
毎日人工透析のケースは?
件の宇宙条約は?
どんな多神教信仰によって魔女狩りが扇動されたんだい?
キリスト教徒の間違った所業とやらはどんなものなんだい?
姦通罪で男は罰せられないとほざいたのは間違いだと認めるわけだな?
>例えばフランスの外国人部隊を組織しているのは、外国人といっても
>ほとんどか旧植民地の出身者で占められていたはず。
ソースは?w
>境内そのものへの立ち入りすらも謝絶している寺院が日本では多い。
全国の寺で境内立入禁止の寺が占める割合を、根拠を付けて出してくれや。
お前、寺巡りやったことあるのかい?
あれほど仏教に苛烈な敵愾心を抱いていたお前なのに。
寺巡りをやったというのなら、いつ、どのような順路で何を目的に
実行したのか公表してくれや。
に答えるんだい?
逃げっぱなしなのか?w
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- 199
- 2010/07/29(木) 04:35:22
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メキシコ連邦検察当局は25日、北部ドゥランゴ州の刑務所長らが収監中の
受刑者たちに武器と車を与えて一時解放した結果、18人の市民が殺された
と発表した。今年2月以降、同様の事件による犠牲者は計35人に上る。
殺害の動機は、対立する麻薬密売組織への復讐(ふくしゅう)。殺人を
終えた受刑者たちは監房に戻り、通常通りに服役している。
ttp://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20100727-OHT1T00038.htm
宗教はローマ・カトリックが89%、プロテスタントが6%、その他(ユダヤ教、
仏教、イスラーム教など)が5%である。
メキシコはブラジルに次いで世界で二番目にカトリック人口が多い国である。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%AD%E3%82%B7%E3%82%B3#.E5.AE.97.E6.95.99
CDU、感想頼むよ。
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- 200
- 2010/07/29(木) 21:22:52
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http://www.geocities.jp/furen1002/KoreaHistory.html
http://plaza.rakuten.co.jp/khiroba/diary/200509120002/
日本統治前の朝鮮の姿
土人というより動物レベル
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- 201
- 2010/07/30(金) 04:56:05
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バカの一つ覚えみたいに同じ質問を何度も繰り返しているような低脳をいちいち相手してられっかよクズ民族が。w
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- 202
- 2010/07/30(金) 04:59:42
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キリスト教のような血も涙もない宗教によって弾圧を受けると屑民族になるんですが、
弾圧したキリスト教のほうが一方的に悪いと思うよ。
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- 203
- 2010/07/30(金) 05:34:57
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>>201
答えられないのか。
さすがloser鬼畜CDU。w
で、お前はどの民族に属しているのだい?w
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- 204
- 2010/08/04(水) 13:35:56
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日本は弾圧を受けようが受けまいが関係なく、生まれながらにもともとからクズ民族だった。w
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- 205
- 2010/08/15(日) 21:18:50
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>日本は弾圧を受けようが受けまいが関係なく、生まれながらにもともとからクズ民族だった。w
論証してみな。w
お前自身、日本人なんだろぉ?w
鬼畜CDUが超下種なのは周知の事実だが。
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- 206
- 2010/09/18(土) 20:43:50
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明白なことを論証しろといわれてもなw
太陽が東の空から昇ることを論証しろ、といっているようなもん。ww
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- 207
- ジャスワラグランドゥ
- 2010/09/18(土) 21:07:57
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フライパンでパ〜〜〜ン
フライパンでパ〜〜〜ン
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- 208
- 2010/09/19(日) 04:51:40
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>>206
よう、鬼畜CDU、一月以上経ってからの返答がそれか。w
>明白なことを論証しろといわれてもなw
それならキリスト教が殺人暴虐宗教というのも明白なことだしな。w
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- 209
- 2010/09/19(日) 05:07:13
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でよ、ニッポン鬼畜CDUよ。
「人類普遍の客観的正義」の定義が現代法学で明文化され、共有化されているかい?
法実証主義の関わりは?
「人種に限らず各人に公平な機会を与える必要が何故あるのか?」
「で、何でイエローモンキーを白人と平等に扱ってやらなければならないの?」
と人種・民族差別大好きなお前の主張を正当化する合理的な理由は?
毎日人工透析のケースは?
件の宇宙条約は?
どんな多神教信仰によって魔女狩りが扇動されたんだい?
キリスト教徒の間違った所業とやらはどんなものなんだい?
姦通罪で男は罰せられないとほざいたのは間違いだと認めるわけだな?
>例えばフランスの外国人部隊を組織しているのは、外国人といっても
>ほとんどか旧植民地の出身者で占められていたはず。
ソースは?w
>境内そのものへの立ち入りすらも謝絶している寺院が日本では多い。
全国の寺で境内立入禁止の寺が占める割合を、根拠を付けて出してくれや。
お前、寺巡りやったことあるのかい?
あれほど仏教に苛烈な敵愾心を抱いていたお前なのに。
寺巡りをやったというのなら、いつ、どのような順路で何を目的に
実行したのか公表してくれや。
いつになったら答えるんだい?
そうそう、
売春容認か否認かでドイツとバチカンが対立している問題で、鬼畜CDUは
否定派のバチカンを支持すると表明していたが、売春容認のドイツの制度を
「同時に売春婦たちには団結権などの労働基本権を保障することで彼女達の
権利をも高めようという実に優れた制度だつうこったw。」
と賞賛するのはなぜ?w
本当はどっちに付いているのだい?
小判鮫鬼畜CDUちゃん。w
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- 210
- 2010/09/19(日) 12:09:05
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毎日チェックしにきてるお前とは違うんでな。w1カ月つうたってレス番は続いているだろ。
別に仏教は敵ではないが、仮に敵だとしても敵のことをよく知ることは必要なこと。
教会はおろか寺にさえもほとんど訪問したこともないくせに偉そうに宗教について妄言を吐き続けているお前みたいな厚顔無恥民族とは違う。w
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- 211
- 2010/09/19(日) 20:06:22
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おや、鬼畜CDU、つまらん言い訳しに出てきたのか?w
気の利いた化物はそろそろ引っ込む時分だというのに。w
まあ、せっかくだから相手してやるか。
>別に仏教は敵ではないが、仮に敵だとしても敵のことをよく知ることは必要なこと。
へえ。暴虐キリシタンは仏教を敵と見ていたのかい?そうではないのかい?
答えろや。
>教会はおろか寺にさえもほとんど訪問したこともないくせに偉そうに宗教に
>ついて妄言を吐き続けているお前みたいな厚顔無恥民族とは違う。w
実力もないのにふんぞり返るなよ。w
足下がふらついてひっくり返るぞ。
イエスの「剣投げ込み」発言も知らなかった低能はしおらしくしていれば
いいんだよ。
自明灯、法明灯もろくすっぽ理解していなかったくせに。w
でよ、>>209にはしっかり答えろよ。w
いい加減、こそこそ逃げまわるのは止めるこったな。
チキン鬼畜CDUちゃん。w
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- 212
- 2010/09/20(月) 14:28:36
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>おや、鬼畜CDU、つまらん言い訳しに出てきたのか?w
アホか。
同じ質問を何度も繰り返している単細胞バカがいるから答えてやったまでのことだ。
ったく、自分が質問したことも忘れているのかよ。健忘症民族はこれだからw
>自明灯、法明灯もろくすっぽ理解していなかったくせに。w
きっちり説明してやっただろうが。その言葉すら知らなかったお前がよく言うよな。さすが厚顔無恥民族。w
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- 213
- 2010/09/20(月) 17:42:48
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>同じ質問を何度も繰り返している単細胞バカがいるから答えてやったまでのことだ。
>ったく、自分が質問したことも忘れているのかよ。健忘症民族はこれだからw
で、いつきちんと答えるのだい?w
>きっちり説明してやっただろうが。その言葉すら知らなかったお前がよく言うよな。さすが厚顔無恥民族。w
間違いを大真面目にぶちあげて大恥かいていただけやん。w
俺がその言葉すら知らなかった?
何を根拠にそう抜かす?
答えろや。
いつまでも逃げをうってんじゃねえぞ。w
ニッポンチキン鬼畜CDUちゃん。w
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- 214
- 2010/09/20(月) 17:47:46
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まあ、CDUも以前は論客気取りだったようだが、その珍ぶりが
明らかになってからはただの笑いものでしかないからな。
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- 215
- 2010/09/23(木) 06:34:50
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“バチカン銀行”がマネーロンダリングか
< 2010年9月22日 13:56 >
ローマ法王庁の莫大(ばくだい)な資金を管理する組織が、マネーロンダリング
(資金洗浄)を行った疑いでイタリア司法当局の摘発を受け、約26億円が押収
された。
摘発されたのはローマ法王庁の資金を握る「宗教事業協会」で、一般には
「バチカン銀行」と呼ばれている。
バチカン銀行は、イタリアの銀行に預けていた資金を送金者の名前や理由を
明かさずに送金し、マネーロンダリングを防ぐ法律に違反した疑いが持たれて
いる。イタリア司法当局は、バチカン銀行の預金26億円を押収し、総裁を
含む銀行幹部から事情を聴いているが、詳しい背景はわかっていない。
バチカン銀行は、去年11月にも約65億円の不明瞭(ふめいりょう)な
送金が発覚している。
ttp://www.news24.jp/articles/2010/09/22/10167220.html
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