宗教弾圧の血塗られた歴史を持つ日本は野蛮国だよね [sc](★0)
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- 2009/08/11(火) 05:52:30
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アイヌや琉球の伝統宗教破壊、一向宗やキリシタンの弾圧、延暦寺はじめ天台宗寺院の焼き討ち、不受不施派や大本教の迫害、
徳川家康による豊国神社破壊や松永久秀による東大寺大仏殿の破却、上智大学学生に対する靖国神社参拝や朝鮮での神社参拝強要、など叩けばいくらでも出てくるという感じ。
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- 2010/06/08(火) 23:09:30
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より制限の加えられた法律が、カルロス1世時代の1526年と1527年に導入された。
モリスコは40年に渡り法律上の権利停止の罰を受けていた。
1567年、フェリペ2世は、モリスコに対し彼らのイスラム名と伝統的なイスラムの服、そしてアラビア語の禁止を要求する命令を出して、彼らに圧力を加えた。
モリスコには、モリスコの子供たちがカトリック聖職者によって教育されると説明された。
これが、1568年から1571年までアルプハラスで起きた反乱の引き金となった。
反乱征圧後、政府はグラナダのモリスコをグラナダの外へ強制移住させた。多くはバレンシア王国へ送られた。
王家の手先と共謀したほんの一握りのモリスコは、都市やグラナダの領域での滞在を許可された。
強制移住は、グラナダのモリスコだけでなく、当時全くキリスト教徒と同化されていたカスティーリャのモリスコにも影響を与えた。
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- 2010/06/09(水) 04:04:34
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>文明消滅させたのは正直すごいとおもったわw
ああ、なんだ。アイヌ・琉球の文化を消滅させた日本人のことじゃないか。
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- 2010/06/09(水) 05:28:36
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いやいやご冗談を、ライタイハン量産には脱帽です。
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- 2010/06/09(水) 05:34:33
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>ああ、なんだ。アイヌ・琉球の文化を消滅させた日本人のことじゃないか。
よう、ニッポン鬼畜CDU。
いつになったら>>120に答えるんだい?w
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- 2010/06/09(水) 20:20:42
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キリスト教化されたモリスコは、その信仰がしばしば疑わしいとみなされた。
彼らは、スペインに対して陰謀を企てるオスマン帝国やバルバリア海賊と接触している疑いがあった。
スパイは、オスマン帝国スルタンセリム2世がマルタを攻撃し、征服後にスペインへ移る計画であると報告してきた(既に1565年、マルタはトルコ軍の猛攻をしのいでいる)。
その構想では、スペインのイスラム教徒とモリスコの間で反乱を起こすことになっていた。
脅威を確信し、フェリペ2世はモリスコに対して制限的な処置を法律化した。
しかし、富裕で傑出した地位に上がっていた多くのモリスコは、当局の影響力に対抗する力を相当に行使した。
カトリック王は、モリスコと取引するという決意を強めた。
アラゴンとバレンシアの貴族は特にモリスコの労働力を必要とし、一連の忍耐と宗教的命令を主唱する追放から、モリスコを守ろうとした。
イスラム教徒の事業家と労働者は、バレンシアとムルシアの農業で特に欠かせない存在だったのである。
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- 2010/06/09(水) 20:23:31
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E7%95%B0%E7%AB%AF%E5%AF%A9%E5%95%8F
スペイン異端審問(-いたんしんもん)は15世紀以降、スペイン王の監督の下にスペイン国内で行われた異端審問のこと。
宗教的な理由というよりも政治的な思惑が設置に大きく関わっている。
15世紀末にフェルナンド2世が、コンベルソ(カトリック改宗したユダヤ教徒)に起因する民衆暴動を抑え、多民族であるスペインのカトリック的統一を目的にローマ教皇に特別な許可を願って設置された。
王権制約的であったアラゴン諸王国に対する王権行使の機関、中央集権機関としての側面もある。
設立当初の審問の対象者は主にコンベルソとモリスコ(カトリックに改宗したイスラム教徒)であった。
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- 2010/06/09(水) 20:36:55
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13世紀の「大レコンキスタ」以降、イベリア半島の大部分がイスラム教国家からキリスト教国家の領土となったが、依然グラナダなど南部を中心に多くのイスラム教徒たちが暮らしていた。
カスティーリャ王国では、信仰の自由と自治権を保障されたアルハマ(ユダヤ人共同体)があり、セビリャ、ムルシア地方にも多数のムデハル(キリスト教国支配下のイスラム教徒)が存在した。
またアラゴン王国でも、バレンシアなどに多くのムデハルが暮らしており、バルセロナなどに多くのユダヤ教徒がいた。
この頃は非キリスト教徒に対しても寛容な時代であった。
14世紀の半ば頃から、ペストの流行や経済的問題などにより、比較的富裕層が多かったユダヤ教徒に不満が集まった。
1391年のセビリャで大規模なポグロム(ユダヤ人虐殺)が起こると、それは各都市に飛び火した。
これによって多くのユダヤ教徒が虐殺され、改宗を強いられた。
けれどもユダヤ人への不信感は払拭されず、度々反ユダヤ暴動が起こった。
またアラゴン王国では他のヨーロッパ諸国と同様に教皇庁の任命した異端審問官が巡回する異端審問が行われていたが、それほど大掛かりには行われなかった。
またアラゴン王国の宮廷では多くのユダヤ人が仕えていた。
フェルナンドとイサベル1世の結婚を斡旋したのもペドロ・デ・ラ・カバレリャというユダヤ人家臣であった。
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- 2010/06/09(水) 20:42:52
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カスティーリャ王国のイザベルとアラゴン王国のフェルナンド2世の結婚(1469年)レコンキスタの完了(1492年)により、スペインに待望の統一王権が誕生した。
フェルナンド2世にとって国内の一致のためにも、表面上はキリスト教に改宗しながら実際には自分たちの信仰を守っていたモリスコ、コンベルソの存在が邪魔なものになっていた。
フェルナンド2世は異端審問のシステムを用いれば、これらの人々を排斥し、政敵を打ち倒すことができると考えた。
さらにフェルナンドはユダヤ人金融業者から多額の債務を負っていたため、もし金融業者たちを異端審問によって社会的に抹殺できれば債務が帳消しになるという思惑もあった。
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- 2010/06/09(水) 20:52:12
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フェルナンドはローマ教皇と親交を深めることで自らの王権を強化しようと考えていたが、同時に教皇の影響力を自国からできる限り排除したいとも思っていた。
異端審問はすべて教皇の管轄下で行われるため、もしフェルナンドがスペイン国内で異端審問を行っても自分の思い通りにはできず、教皇庁の介入を許すことになる。フ
ェルナンドは異端審問を自らの政治目的に沿って利用するためにも、教皇の監督行為を排除した異端審問を行いたいと考えていた。
そこでスペインにおいて王の監督のもとに独自に異端審問を行う許可を教皇シクストゥス4世に願った。
教皇は当然、世俗権力によって異端審問が政治的に利用されることの危険性を察知し、なかなか首を縦に振ろうとしなかった。
そこでフェルナンドはさまざまな方策を用いて、この許可を得ようとした。
ここで活躍したのがスペイン人枢機卿ロドリゴ・ボルハであった。
彼の奔走の甲斐もあって、1478年に教皇はしぶしぶながらカスティーリャ地方以外においてのみ独自の異端審問を行うことを許可した。
(これによってボルハ枢機卿は後年のコンクラーヴェでスペイン王の強力な後押しを受けることができた。
彼こそが堕落した中世教皇の筆頭にあげられるアレクサンデル6世である。)
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- 2010/06/10(木) 04:32:07
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ライタイハン量産ラインおそるべし・・
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- 2010/06/10(木) 06:11:35
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>ったく、相変わらず低脳の劣等民族イエローモンキー糞ジャップは
>スレ違いの長文コピペでスレを荒らすしか能がないんだな。w
そりゃお前だ。w
>以前に答えてやっただろうが。
ウソをつくなよ。
ただの逃亡宣言だろ。w
答えたと強弁するのなら、そのレスを示してみな。
>つ表現の自由、プライバシーの権利
実際は寺巡りなんてやってないんだろ?w
例によってハッタリがばれたということだな。w
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- 2010/06/10(木) 06:32:16
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都合の悪いことは全部見て見ぬ振りをして済まそうとするのが、卑劣なニッポン鬼畜CDUの常套手段だよね。
そんなことをしているから糞ジャップCDUはいつまで経っても他の2ちゃんねらーから信頼されない。
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- 2010/06/10(木) 07:19:05
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宗教にどっぷり漬かってるヤツは信頼に値しないからなぁ。都合が悪けりゃ悪魔。良い出来事は神
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- 2010/06/12(土) 04:17:07
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>>152
ハッタリじゃねえよクズ野郎。w
ったく、劣等民族は猜疑心ばかり強いんだなあ。
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- 2010/06/12(土) 06:12:58
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>ハッタリじゃねえよクズ野郎。w
>ったく、劣等民族は猜疑心ばかり強いんだなあ。
違うというのなら説明してみな。
猜疑心を持たれるような言動をしてきたお前自身を省みるような心掛けも
ないのかい?w
でよ、
「人類普遍の客観的正義」の定義が現代法学で明文化され、共有化されているかい?
法実証主義の関わりは?
「人種に限らず各人に公平な機会を与える必要が何故あるのか?」
「で、何でイエローモンキーを白人と平等に扱ってやらなければならないの?」
と人種・民族差別大好きなお前の主張を正当化する合理的な理由は?
毎日人工透析のケースは?
件の宇宙条約は?
どんな多神教信仰によって魔女狩りが扇動されたんだい?
キリスト教徒の間違った所業とやらはどんなものなんだい?
姦通罪で男は罰せられないとほざいたのは間違いだと認めるわけだな?
>例えばフランスの外国人部隊を組織しているのは、外国人といっても
>ほとんどか旧植民地の出身者で占められていたはず。
ソースは?w
>境内そのものへの立ち入りすらも謝絶している寺院が日本では多い。
全国の寺で境内立入禁止の寺が占める割合を、根拠を付けて出してくれや。
に、お前はいつ答えたんだい?w
はっきりと回答しろや、ニッポン鬼畜チキンCDUちゃん。w
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- 2010/06/12(土) 06:29:37
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ライタイハン量産ライン。オソリシス
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- 2010/06/12(土) 09:47:36
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「日本辺境論」内田 樹 (著) 新潮新書 価格:¥777-
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- 2010/06/12(土) 10:24:29
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こうしてユダヤ教徒とイスラム教徒に狙いを定めたフェルナンドとイザベルによって異端審問所の長官に任命されたのがトマス・デ・トルケマダである。
そもそも「異端」審問というものは、「キリスト教徒でありながら、正しい信仰を持っていないもの」を裁くためのものであり、ユダヤ教徒やイスラム教徒をその信仰ゆえに裁く権利はなかった。
しかし初期のスペイン異端審問所は、一旦改宗しながらユダヤ教、イスラム教の習慣を守るコンベルソ、モリスコを多く裁いた。
シクストゥス4世はセビリアから始められたスペイン異端審問がユダヤ人に的をしぼって行われていることに見かねて抗議したが、
フェルナンド王が自らの支配下にあるシチリア王国の兵力による教皇庁への支援打ち切りをほのめかして恫喝したため、引き下がらざるを得なかった。
教皇としてフェルナンド王の行きすぎた行動や見境のない処罰がキリスト教と異端審問の名を借りて行われていることを看過できず、スペイン異端審問を「ユダヤ人の財産狙いの行為である」と断言している。
「もっともカトリック的な王」という称号とは裏腹にフェルナンドは教皇を徹底的に利用し、教皇に対しては従順を装いながらも強圧的に臨んでいた。教皇がフェルナンドの要求を断れなかった背景には当時の地中海情勢がある。
勢い盛んだったオスマン帝国がギリシアを支配下においてイタリア本土を脅かし始めたのだ。
教皇領とイタリア半島の安全はシシリア王国の軍事力によって保障されていた。
シシリア王国の主でもあるフェルナンドはこれを対教皇折衝の切り札としていたのである。
教皇はフェルナンドの要求を飲まざるを得ない状況に追い込まれた。
こうしてスペイン異端審問に教皇の正式なお墨付きを得たフェルナンドは、教皇の干渉なしに自由に異端審問を利用できるようになった。
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- 2010/06/12(土) 10:34:21
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スペイン異端審問の変遷
1484年に死去したシクストゥス4世の後を継いだインノケンティウス8世は2度にわたって回勅を発布し、スペインにおける異端審問の行き過ぎを批判し、被疑者への寛大な措置を願っている。
そもそも異端審問のシステムにおいては裁くのは教会関係者であっても、処罰を行うのは世俗の権力であるのが通例であった。
拷問は自白を引き出すために用いられ、被疑者が自白すると刑罰が執行された。
刑罰も一律ではなく、人前で異端であることを示す服を着せられて見世物にされる程度の軽い刑から火刑による処刑までさまざまであった。
異端審問を受けた被告の処罰はしばしば都市の広場で行われた。
異端判決宣告式(アウト・デ・フェ)そしてそれに続く火刑は、公権力の存在を人々に知らしめるものであった。
異端審問は告発者が秘密であることが特色であったため、しばしば異端と関係ない無実の人々が恨みなどから、あるいは王室から与えられる報奨金目当てに訴えられることも多かった。
裕福なフダイサンテ(隠れユダヤ教徒)の告発は王室自身が行っていたであろうことは裁判後に資産が王室に没収されたことからうかがえる。
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- 2010/06/12(土) 11:01:11
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宗教改革の時代に入ると、異端審問所はその照準をフダイサンテから「古くからのキリスト教徒」へ移す。
彼らの宗教生活を監視し、少数ではあったがプロテスタントや照明派に対しても審問が行われ、スペイン反宗教改革の中心的役割を負った。
またスペインにおいては魔女は異端審問ではほとんど扱われず、訴えがあった場合でも精神異常者ということで釈放されることが多かった。
17世紀に入ると、審理件数は減少の一途をたどり、18世紀になるとほとんど機能しなくなる。
スペインにおける異端審問が正式に廃止されたのはナポレオン・ボナパルトの支配を受けた1808年である。
ナポレオンの元でスペイン王となったジョゼフ・ボナパルトは、異端審問の廃止を決定したが、その決定には反発も根強く、
その後いったん復活するが、もはや実効性はなく、1834年摂政マリア・クリスティーナのもと、完全に廃止となった。
スペイン異端審問の正確な被害者数を知ることは難しいが、ある研究者はトマス・デ・トルケマダの15年の在職期間中に2000人ほどのユダヤ人が火刑になったと考えている。
イスラム教徒やイスラムからの改宗者の犠牲者はそれよりずっと少なかったと考えられている。
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- 2010/06/13(日) 08:24:38
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%82%B3%E8%BF%BD%E6%94%BE
モリスコ追放(モリスコついほう、スペイン語:Expulsión de los moriscos)は1609年4月9日にスペイン王フェリペ3世が発令したモリスコ追放の布告である。
背景
モリスコとキリスト教徒との間の猜疑心と緊張は、しばらくの間高かった。
一部のモリスコたちが影響力と力を手にして、バレンシア貴族やアラゴン貴族のような一部の人々(彼らはモリスコの安い労働力に依存していた)と協力関係にあった時、スペインにおけるモリスコたちの全体的な政治的・経済的な比重は低かった。
キリスト教徒住民は絶えず、彼らのキリスト教信仰が本当ではないとモリスコたちを疑っていた。
モリスコたちが改宗か亡命の選択を迫られると、彼らの多くはむしろ王家か教会に対する忠誠をほとんど示すことはなかった。一部の暴徒は反乱を起こした。
これはフェリペ2世がアラビア語・アラビア語名の禁止、モリスコの子供たちを手元で育てずカトリック聖職者に教育させることを要求する勅令に反抗した、
1568年-1571年のアルプハラスの反乱(es:Rebelión de las Alpujarras)として非常によく知られている。
反乱の制圧後、フェリペ2世はグラナダのモリスコを他地域へ四散させるよう命じた。
フェリペ2世は、この措置がモリスコ共同体を分解し、キリスト教徒住民への同化を促進すると期待していた。
この措置はグラナダのモリスコに対して起きたことかもしれないが、バレンシアやアラゴンでは、本物の隠れイスラム教徒の飛び地がまだ実在していた。
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- 2010/06/13(日) 08:26:55
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同じ時期に前後して、スペインはプロテスタントのネーデルラント連邦共和国に対して、低地諸国における自身の領土の半分以上損失したことを認めていた。
スペイン支配階級は、スペインをカトリック・キリスト教界の弁護者と既に考えており、このネーデルラントでの敗北は、彼らのカトリック思想の過激化と、スペインの名誉を回復するために一矢報いたいと考える原因となった[2]。
プロテスタント諸国からのスペインへの一部の批判は、スペイン人とされているイスラム教徒と偽イスラム教徒らを、個人的に雇っているスペイン貴族の一部は堕落しているという、スペイン人への侮辱を含んでいた。
1600年代初頭に事態はさらに悪化した。
1604年の不況で金の価値が打撃を受け、スペイン帝国がアメリカ大陸に所有する宝の没落が起きたのである。
生活水準の縮小が、キリスト教徒と、貴重な仕事をするモリスコとの間に緊張を増大させた[2]。
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- 2010/06/13(日) 12:32:55
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地方ごとの対モリスコ姿勢
1609年、850万人の総人口の他におよそ325,000人のモリスコがスペインにいた。彼らはかつてのアラゴン王国領に集まっていた。
そこではモリスコは人口の20%を占め、バレンシア王国では特にその傾向が強く、総人口の33%を占めていた。
加えて、モリスコの人口増加は、キリスト教徒の人口増加に比べていくらか高かった。
バレンシアでは、モリスコ人口は、昔からのキリスト教徒の44.7%と比較して約69.7%の成長率を持っていた。
モリスコたちが田園地帯と都市の郊外貧困地区での人口を占める間、都市で暮らしていたのは金持ちとほとんどのキリスト教徒だった[3]。
かつてのカスティーリャ王国では、状況は全く違っていた。
カスティーリャは600万人の人口を持っていたが、モリスコ住民はわずかに10万人ほどだった。
モリスコはほとんど大きい存在でなかったので、カスティーリャでのモリスコへの不満は、アラゴンのキリスト教住民のモリスコに対する不満より遙かに小さかった[1]。
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- 2010/06/13(日) 12:35:18
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『イスラム教は脅威であり、打破すべきである』とする全般的な合意が事実上スペインにはあった。
しかし、公式にはキリスト教徒となっているモリスコたちに対し、どのような方法でイスラム教徒か否か照会するかは不明であった。
王家の参事官であるルイス・デ・アリアガ(1619年-1621年には異端審問所長官を務めた)のような一部の聖職者たちは、同化して、完全なキリスト教徒となるよう時間を与えて支援すべきとした[1] 。
この意見は、ローマの教皇庁も敏速に支持していた。
モリスコの最も熱心な援護者はバレンシアとアラゴンの貴族たちで、この姿勢には彼らの利己心が含まれていた。
これらの貴族は、モリスコが提供する乏しく安い労働力から最も利益を得ていたのである。
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- 2010/06/13(日) 12:38:50
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この見解に反対したのは、様々な名士と階級の人々だった。
アリアガに反対する聖職者にはハイメ・ブレダが含まれていた。
彼はバレンシアでの異端審問の最も著名な人物だった。
ブレダは初期にフェリペ3世に対して数回の申し入れを行い、モリスコ問題を消すかさもなければ終わらせるかを進言した。
彼はジェノサイドまでも勧めていた[1]。
最初、この種の嘆願は成功に結びつかなかった。
1596年、フェリペ3世の財政担当者であるレルマ公フランシスコ・デ・サンドバル・イ・ロハス(es)は、モリスコはイスラム教徒のバルバリア海賊と共謀していると告発した。
しかし、この意見に多くの住民が固執する間、残りの人々はこの脅威はずっと以前に終わってしまったとみなした。モ
リスコへのどんな懲罰的措置にも反対するアラゴン議会は、たとえモリスコたちがスペインを裏切りたかったとしても、
『モリスコはトルコ艦隊のために武器も軍用必要物資も所有しないし、守備も固めないし、基地も持たない』のでそのような状況にないと書いた。
その時に何も起きなかったが、レルマ公はモリスコに対する自らの反感を持ち続けた[2]。
一般庶民のうち、バレンシアの小作農らはこの件に最も関心を抱いていた。
彼らはモリスコを敵意のまなざしで見、彼らを経済的・社会的な競争相手とみなしていた[1]。
この不満は1520年以前、バレンシア一般大衆がバレンシア貴族だけでなくイスラム教徒のムデハルらに対しても反乱を起こした
ヘルマニア反乱(en:Revolt of the Brotherhoods)の時に沸き立った。
暴徒はバレンシアのモリスコを構成するイスラム教徒人口の多くを殺害し、生存者に大規模な洗礼と改宗を強いた。
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- 2010/06/13(日) 14:05:07
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レルマ公は結局、バレンシア大司教フアン・デ・リベラ(en:Juan de Ribera)の助けを借りてフェリペ3世を納得させた。
大司教はモリスコを全般的に異教徒・裏切り者であるとみなす人物であった。
大司教は王に、より説得力があるよう計画をたてる構想を与えた。
王はモリスコらの資産と不動産を没収でき、このことによって王家の財源にかつてのような劇的な後押しが提供された。
大司教は『良心のうちのどんな良心の呵責もない』のでこのようなことができたのだが、
彼は王に、モリスコを奴隷にしてガレー船、鉱山、アメリカ大陸植民地で働かせるようにも勧めたが、この提案は拒否された[1]。
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- 2010/06/13(日) 14:08:25
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1609年4月9日、モリスコ追放の勅令が署名された[3] 。
政府は、それほど多くのモリスコを追放することには問題があると知っていた。
モリスコ住民数が最大であるバレンシアから追放が始められることが決まっていた。
準備は厳正に秘密裡になされた。
9月に入り、イタリアからテルシオの大軍が到着した[4]。
彼らはバレンシアの主要港、アルファケス、デニア、アリカンテに配置された。
9月22日、バレンシア副王・バレンシア大司教フアン・デ・リベラが、勅令の公表を命令した。
モリスコ労働者を失えば自分たちの農業収入は崩壊してしまうと、バレンシア上流階級は追放に抗議するため政府と会見した。
政府は、彼らの損失と引き替えにモリスコの資産と土地の一部を提供したが、損失の補償となるには不足だった。
モリスコは、持ち運べるものなら何でも持っていくよう許された。
しかし、彼らの住宅と土地は彼らの主人のものとなった。
移動の前に自宅に火をつけたり壊したら、死を覚悟しろと禁じられた[4]。
特定の例外が与えられた。
全ての100世帯のうちの6世帯は、皆が去った後に残り、モリスコが優勢であった町での基盤を維持して良いと許された。
ごく少数しかこの特例に該当せず、彼らも後でいずれは追放されるだろうと考えられていた。
加えて、4歳未満の子供たちの追放は選択自由であった。これは後に16歳まで拡大された。
リベラ大司教は、強くこの解釈の一部に反対した。
彼は、少なくとも、子供たちが両親とともに去ることを禁じ、『彼らの魂の救いのために』隷属させ、キリスト教徒にさせなくてはならないと働きかけた[4]。
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- 2010/06/13(日) 14:14:50
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9月30日、最初の亡命者たちが港へ連行され、そこでは最後の侮辱として、彼らに旅行代金を支払うよう強制した[4]。
モリスコたちは北アフリカへ輸送された。
そこで彼らは時に、受け入れ側の人々から侵略者だとして非難された。
別の時には、小さな反乱が船上で起こり、船員との戦闘で亡命者の数人が殺害された。
これが、バレンシアに残ったモリスコ住民の恐怖を引き起こし、10月20日に追放に反対する反乱が起きた。
6,000人を数えた反乱軍は、人里離れたアヨラ谷とムエラ・デ・コルテスを占拠した。
5日後、新たな反乱がバレンシア南岸で起こり、15,000人の反乱軍がルガル谷を占拠した[5]。
11月に反乱軍は制圧された。
わずか3ヶ月間で、11万6千人ものモリスコがバレンシアから北アフリカへ輸送された。
1610年にアラゴン王国でモリスコ追放が始まった(特定の地域としてのアラゴンであり、元のアラゴン王国領全土ではない)。
41,952人がアルファケス経由で北アフリカへ送られ、13,470人がピレネー山脈を越えてフランスへ送られた[5]。
アグドの港にモリスコの大半が送られたことにフランス人は憤慨し、そして陸路をとった人々は通過料と海上料金を請求された[5]
9月、カタルーニャ君主国のモリスコたちが追放された。同様にアンダルシアは32,000人のモリスコを追放した[5]。
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- 2010/06/13(日) 18:41:23
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カスティーリャでのモリスコ追放は、最も困難な作業だった。
どの場所にも固まって住まず、むしろ1571年のモリスコ反乱以後、モリスコたちはカスティーリャ国内に分散していたのである。
このために、モリスコは自発的な出立という最初の選択自由を与えられた。
彼らは自分たちの一番価値のある財産を売ったり他のことをすることができた。
カスティーリャでのモリスコ追放は1611年から1614年までの3年間続けられた。
全体の32,000人ほどのモリスコがカスティーリャを去った。
一部は追放を避けてスペインにとどまることさえできた。
公式に追放が完了された後、おおよそ1万人ほどのモリスコがスペインに残ったと見積もられており、その大部分はカスティーリャにいた[5]。
追放は印象的に作用した。
国家は、居住者の地位の目録を注意深く保管し、官僚機構は短期間で国からあのような膨大な人数のモリスコを追い出すために、効率的に機能したのである。
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- 2010/06/13(日) 18:43:58
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カスティーリャ議会は1619年の追放を評価し、国にとっての経済的影響はないと結論づけた。
これはカスティーリャにとって基本的な真実であった。
一部の学者がモリスコ人口が重要であった部門で経済的結果を何も見いださなかったからである[6]。
しかし、バレンシア王国では農地は打ち捨てられ、キリスト教徒がおそらく満たすことができなかったであろう空白が経済分野に残された。
バレンシア王国の住民の33%を取り除いたことで、アリカンテ北部にある一部の郡では事実上その住民全てを失った。
経済・社会基盤は凋落し、キリスト教徒貴族と大地主たちは支払いの滞り状態となった。
現金に困ったバレンシア貴族の多くが、かつての収入に近いほどの返済をしなければならない借地料を、キリスト教徒の小作人らに対して増額した。
借地料の増加は、どんな新しい借地人でも取り替えられるために、支払いのできない借地人は追い払われるようになった。
その結果、バレンシアの農業生産高はすさまじく下がったのである[7]。
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- 172
- 2010/06/13(日) 18:49:12
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人口の4%の追放は少数に見えるかもしれない。
しかし、モリスコ人口は、考えられていたよりも大きな一般の労働人口であったことに留意しなければならない。
実際、モリスコは貴族、兵士または聖職者になるほど信用されていなかった。
これは、徴税において目立って税金収入が低下したことを示していた。
そして最も大きな被災地であるバレンシアとアラゴンは、数十年に渡って経済的に損害を受けた。
追放は、バレンシアとアラゴンの経済というだけでなく、貴族の権力にとっても大打撃であった。
しばらくの間かつてのアラゴン王国は、より豊かで人口の多いカスティーリャ王国の影であった。
しかしこのモリスコ追放で、バレンシアとアラゴンの成長はさらに減退した。
イベリア半島東部の王国のうち、カタルーニャ貴族は今や傑出し、彼らの収入は上記の2カ国よりはるかにモリスコ追放の影響を受けなかった。
このように、モリスコ追放は、バレンシアとアラゴンの伝統的な経済中心地からカタルーニャへと力を移すのを助けた[8]。
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- 173
- 2010/06/13(日) 18:55:00
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断固としてカトリック教徒のままいることを望んだモリスコたちは、だいたいにおいて新たな家をイタリア(特にリヴォルノ)で見つけることができた。
しかし、追放された人々の圧倒的多数は、イスラム教徒が掌握している北アフリカに定着した。
2008年に実施された遺伝子研究によると、モリスコを先祖に持つ人の一部がスペインに残るのが目立ち、追放がそれほど効果的でなかったかもしれないことを示している。
これは、『宗教上の改宗(任意か強制かにかかわらず)を高水準で示す』北アフリカ出身者(10.6%)を先祖に持つ平均割合の高さを示している。
彼らは、社会的・宗教的偏見の歴史的な出来事によって追いたてられ、最終的には子孫の同化に至った[9][10]。
数世紀後、謝罪の手段として、もう一度、モリスコの子孫であるスペイン市民は申し出てほしいとする提案が2006年になされた。
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- 174
- おてんば私立学院総長
- 2010/06/17(木) 01:52:21
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>>173
逆にモロッコやチュニジア・アルジェリアなどの「マグリブ」の国々には
ラテン系の遺伝子を持つ人々が一定数はいるのでは?
モリスコとして追放された人々のほかに「ムサラベ」となってしまったがために
イベリア半島から追放されたラテン系や旧西ゴート王国系の人々の末裔が。
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- 175
- 2010/06/17(木) 20:55:07
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「モサラベ」はイスラム教政府支配下のキリスト教徒。
追放されるとしたら先ずフランスかイタリアに逝く。
又いっちょ噛みどすかへ?
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- 176
- 2010/06/17(木) 22:12:36
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http://www.tufs.ac.jp/21coe/area/insatsu/pmg_workshop_030927_aiba.pdf
「追放後のモリスコ(北アフリカを中心として)」
報告者 愛場百合子
今回の、追放後のモリスコについての発表では、モリスコが移住した地域の中でも、特に多数の
モリスコが移住したと考えられる北アフリカの三つの地域、モロッコ、アルジェリア、チュニジアを中
心に話をすることにした。
追放後のモリスコについて説明する前に、まず、モリスコ研究の中でこの分野がどのように位置づ
けられるかをまとめた。従来のモリスコ研究のほとんどは追放前の、つまりイベリア半島におけるモリ
スコに関するもので占められていたが、近年になって追放後のモリスコに関する研究は欧米の研究
者およびアラブ世界の研究者双方の協力により、著しい発展を続けている。参考として、主な研究
者、主要な研究機関、雑誌を紹介しておいた。
次に、モリスコ追放の歴史を概観した。追放は1609 年から1614 年にかけて行われ、およそ30 万
人のモリスコがイベリア半島を離れたと考えられている。バレンシアのモリスコがOran に向けて出航
し、その後アンダルシア、カスティーリャ、アラゴン、ムルシアなど、スペイン各地のモリスコが陸路フ
ランスを経由してトルコへ、または海路、北アフリカやエジプトなどへ移住したのである。
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- 177
- 2010/06/17(木) 22:14:22
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さて、モロッコは、当時、他のマグリブ地域とは異なり、地中海に勢力を拡大していたオスマントル
コの脅威、さらにポルトガルやスペインの脅威に脅かされながらも独立を保持していた。追放令の
後にモロッコに移住した大勢のモリスコはスペイン文化の深い影響を受けていたため、それ以前に
半島から間断なく海を渡って来ていたムスリムが比較的緩やかにモロッコ社会に同化したのに対し、
モロッコの社会組織に大きな変化を及ぼしたとされる。代表的なモリスコの町としては、Sale‐Rabat
とTetuan が挙げられる。この2 つの港町は、当初モリスコが自分たちのための独自の社会構造を
形成するために政治的な自立を実現させたが、その後、既存の構造に順応させざるを得なくなっ
た。これらの町には、主としてHornachos やExtremadura のモリスコが移住している。移住した最初
のモリスコはアラビア語を知らなかったとしても、徐々に口語、俗アラビア語を使用し、ムスリム社会
に順応していったと考えられる。一方では、モリスコの中にはスペイン風の苗字を現代に至るまで
保持している者も少なくない。
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- 178
- 2010/06/17(木) 22:22:53
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モロッコと同様にアルジェリアにおいても、モリスコ追放以前から、すでに数多くのムスリムたちが
移住していた。当時オスマントルコ領となっていたアルジェリアは、キリスト教徒との戦いに備えて移
住者たちを受け入れていたと考えられる。追放されたモリスコが到来した町には、まずOran がある。
ここにはスペインの要塞があったために、そこからFez、Tlemecen への移住が試みられた。モリスコ
が定住した地域は、Alger、Tlemecen など、トルコの支配の及ぶ地域で、トルコと敵対関係にあった
山岳部の部族の住む地域や、スペインと同盟関係にあるような地域には定住していない。また、モ
リスコが作ったすばらしい農園で有名なMitidja や、モリスコが廃墟から復興を果たしたCherchel の
町がある。モリスコは農業、手工業に従事し、また、海賊行為や奴隷貿易に関与していたという記
録もある。アルジェリアに移住したモリスコは、バレンシア出身の者が多かったため、イスラム社会へ
の同化、言語の習得に多くの時間を要することはなかっただろうと考えられる。
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- 179
- おてんば私立学院総長
- 2010/06/19(土) 01:12:02
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>>175
まあ、そう怒るな。
勘違いしてしまったのさ。
まあ、こちらとしてはイスパニアを宗教的にムスリムの手で再々征服させてやりたいと。
アムステルダムやロンドンなんか以上に重要なムスリム都市をイベリア半島のどこかに出現させることから始めちゃうの。
尤も、今更コルドバやグラナダをムスリム拠点の街にということもないだろうけど。
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- 180
- 2010/06/19(土) 11:21:34
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次回予告 「グラナダ陥落」 次々回予告 「地中海の柱〜ジブラルタル封鎖〜」 次々々回予告 「バスク呼応」
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- 181
- 2010/06/19(土) 16:04:03
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>>179 そんなあるかないか分からぬような曖昧な話より、モリスコ追放後植民地化されるまで
海賊によって拉致されてきたモロッコ王国宮廷に使役される白人奴隷の明確な記録がある。
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- 182
- 2010/06/19(土) 16:11:27
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チュニジアへのモリスコの移住は、上記のモロッコやアルジェリアの場合と異なり、17 世紀とそれ
以降に集中している。この時、約8 万人のモリスコが到着したとされる。多数の、しかもスペイン文化
の強い影響を受け、アラビア語もほとんど使用できないモリスコのこの地への同化は困難であった。
そのため、チュニジアのモリスコ共同体は、今日までその特異性を保持していると考えられる。主な
モリスコの町としては、Tunez、Bizerta、その郊外の町Hawmat‐al‐Andalus(アンダルシアの人たち
の地区)などがある。チュニジアへ逃れてきたモリスコの多くは、カスティーリャ、アラゴン、カタルー
ニャの者であった。彼らは、移住後もしばらくの間スペイン語を話していたという記録も残っており、
また、スペイン的な名前を保持するものも少なくなく、現在に至っている。
以上、北アフリカの三つの地域について見てきたが、モリスコの移住先として、他には、イスラム圏
の諸地域、バルカン、アナトリア、エジプト、シリア、リビアなど、また、フランスやイタリア、さらにはカナリア諸島や中南米などもあることを付言した。
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- 183
- 2010/06/19(土) 16:17:45
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最後に、追放後のモリスコに関する今後の課題としていくつかの点を指摘した。まず、北アフリカ
におけるモリスコに関しては、17 世紀およびそれ以降の同時代人による当時のマグリブ社会の記
録が多く残されているので、それらを整理してまとめ、モリスコたちの実態を知る資料としてさらに活
用していくことができるだろう。同時代人としては、例えば、Al ‐Maqqari, Diego de Haedo,
Francisco Ximenez、Show、Venture du Paradis などがモリスコについて言及している。また、北アフ
リカのモリスコについて、特にその軌跡、影響について考える場合、マグリブ世界はイベリア半島と
距離的に非常に近い位置にあり、また地中海貿易においても交流が盛んで、イベリア半島のムスリ
ムやキリスト教徒とマグリブ社会の者との接触は常に行われていたため、マグリブ世界に見られるさ
まざまな痕跡をモリスコの影響として特定すること、どの時代の影響なのかを特定することは非常に
困難であると言わなければならないだろう。また、北アフリカ以外の地域のモリスコに関して、近年、
多岐にわたる研究が精力的に行われており、それらの研究についても十分に検討していく必要が
あるだろう。__
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- 184
- 2010/06/19(土) 16:24:10
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%82%BF
レコンキスタ(スペイン語:Reconquista)は、718年から1492年までに行われたキリスト教国によるイベリア半島の再征服活動の総称である。
ウマイヤ朝による西ゴート王国の征服と、それに続くアストゥリアス王国の建国から始まり、1492年のグラナダ陥落で終わる。
レコンキスタはスペイン語で「(国土の)回復」を意味する。
ポルトガル語では同綴でルコンキシュタという。
日本語では国土回復運動(こくどかいふくうんどう)または、再征服運動(さいせいふくうんどう)と訳される。
目次 [非表示]
1 ムスリム勢力のイベリア侵攻
1.1 ウマイヤ朝の侵攻と西ゴート王国の滅亡
1.2 アストゥリアスの反乱と後ウマイヤ朝の建国
1.3 フランクの侵攻とイベリア北部の独立
1.4 レオン王国の建国とアブド・アッラフマーン3世の治世
1.5 カスティーリャ伯領の設置とマンスールの台頭
1.6 後ウマイヤ朝の滅亡とタイファ時代の開幕
2 キリスト教勢力の南進
2.1 カスティーリャ王国の内紛と興隆
2.2 ムラービト朝の上陸とタイファ諸国の併合
2.3 アラゴン王国の興隆とポルトガルの建国
2.4 アルフォンソ7世の分裂策とムラービト朝の滅亡
2.5 教皇の呼びかけとラス・ナバス・デ・トロサの戦い
2.6 ムワッヒド朝の衰退とイベリア南部の征服
2.7 ナスル朝の建国とその生存戦略
3 レコンキスタの終焉
3.1 キリスト教勢力の分裂とマリーン朝との戦い
3.2 カスティーリャの内乱とスペイン王国の誕生
3.3 グラナダ陥落
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- 185
- 2010/06/19(土) 16:31:05
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%90%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AD%E3%82%B5%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
ナバス・デ・トロサの戦い(スペイン語: Batalla de Las Navas de Tolosa 、アラビア語: معركة العقاب )は、
1212年7月16日にイベリア半島、現アンダルシア州ハエン近郊のナバス・デ・トロサで、カスティーリャ王をはじめとするカトリック諸国連合軍とムワッヒド朝のカリフ率いるイスラム諸国連合軍の間で行なわれた戦いである。
この戦いの意義の大きさから当時の年代記作者たちは単に「あの戦い」(La Batalla)と記すことが多い。
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- 2010/06/19(土) 16:58:43
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戦前のイベリア半島情勢 [編集]
1195年、アラコルスの戦いでカスティーリャ王アルフォンソ8世は、
勢いに乗るムワッヒド朝のカリフ・ヤアクーブ・マンスールに敗れ、
この戦いでムワッヒド朝はトルヒーヨ(現エストレマドゥーラ州)、
プラセンシア(同)、タラベラ(現カスティーリャ・ラ・マンチャ州)、クエンカ(同)などの重要な町を奪った。
そのためタホ川流域以南は依然としてイスラム勢力の支配下に置かれることになった。
しかも同年、その敗戦につけこんだレオン王アルフォンソ9世から攻撃を受けた。
これは退けたものの、このようにカスティーリャ王国は、
東隣のアラゴン連合王国とは条約で国境を定めていたが、西隣のレオン王国やポルトガル王国とは国境紛争が繰り返されている状況であった。
カトリック連合軍の集結と脱落者の続出 [編集]
1199年にヤアクーブ・マンスールを継いだムハンマド・ナースィルは1211年、10万を越える大軍を率いてジブラルタル海峡を渡り、
カラトラヴァ騎士団の守るサルヴァティエラの要塞を占領して、カトリック諸国の心胆寒からしめた。
ムワッヒド朝が新たに攻撃の準備をしていることを知ると、教皇インノケンティウス3世とトレドの大司教は、
カトリック諸国間で争うのをやめ、カスティーリャ王アルフォンソ8世の指揮下で一致団結して対イスラム戦争を戦うように命じた。
教皇の仲裁の下で、カスティーリャ王アルフォンソ8世、ナバラ王サンチョ7世、アラゴン王ペドロ2世は同盟を確約した。
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- 187
- 2010/06/19(土) 17:05:48
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カトリック連合軍の構成は次のようであった。
アルフォンソ8世の指揮する軍勢はカスティーリャの20の町の軍団の連合であった。
メディナ・デル・カンポ、マドリード、ソリア、アルマサン、メディナセリとサン・エステバン・デ・ゴルメスなどの町が含まれていた。
ビスカヤ(Vizcaya)の領主ディエゴ・ロペス2世デ・アロ(Diego López II de Haro)が旗の持ち手になった。
そしてナバラ王サンチョ7世、アラゴン王ペドロ2世、ポルトガル王アフォンソ2世の軍である。
ポルトガル軍はこの戦いには参戦したものの、王自身は参戦しなかった。
それからテンプル騎士団、サンチャゴ騎士団、カラトラヴァ騎士団、オスピタル騎士団などの騎士修道会や、フランスの司教に率いられた騎士らが加わった。
レオン王アルフォンソ9世はアルフォンソ8世と敵対していたために来なかったが、レオン王国の騎士たちは王の名代としてはせ参じた。
1212年の夏にこうしてカトリック連合軍はトレドに集結した。
そしてムハンマド・ナースィル率いる親征軍と歴史的な決戦をすべく南方へ向かって進軍した。
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- 2010/06/19(土) 17:09:56
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アルフォンソ8世にとってはアラコルスの雪辱を果たす好機でもあった。
しかし、教皇至上主義の騎士たちの一部が連合軍から刃こぼれするように脱落していった。
つまり、キリスト教連合軍の指揮官アルフォンソ8世に従ってついてきただけの義勇兵的な騎士たちには、政治的な了解などの強い動機があったわけではなかった。
彼らにとって暑くて不快な慣れない気候は耐えられないものだったのである。このように、カトリック連合軍は必ずしも足並みが揃っているわけではなく、当初6万を超えた兵力は5万程度まで減少した[1]。
ナバス・デ・トロサの戦闘経過 [編集]
アンダルシア地方のハエンの住民の間の小競り合いに半ば介入する形で、1212年7月16日にハエン近郊のナバス・デ・トロサで両軍は戦闘を開始した。
カトリック連合軍の配置は、カスティーリャ王と騎士修道会の軍勢が中央に陣取り、ナバラ王、アヴィラ市、セゴビア市、メディナ・デル・カンポ(バリャドリッド)市の軍勢が右翼、左翼にアラゴン王の軍勢が陣取っていた。
はじめは小競り合いのような戦いが繰り返された。
カトリック連合軍は約5万、ムワッヒド軍は約12万5千の兵力であった。
ムワッヒド軍は正面からの衝突をなるべく避けて、カトリック連合軍が疲れてくるのを待つ戦術をとった。
イスラム軍はカトリック軍の2倍をはるかに凌駕する兵力であり、後退するように見せかけて、主力の厚みを生かして一気に反攻するつもりであった。
つまり、カトリック連合軍を挑発しておいて混乱しているところを、アンダルスと本国のベルベル人で構成された圧倒的な戦力をもってイベリア半島から一気に叩き出すつもりであった。
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- 2010/06/19(土) 17:16:00
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イスラム教徒軍が後退を始めた時、それを見ていたカトリック連合軍の陣中では、アルフォンソ8世が臣下である騎士たちや王子の正面にいた。
アルフォンソ8世はカトリック王たち共通の、そして自分自身に課せられた使命を果たすチャンスと見てとった。
アルフォンソ8世は、ムハンマド・ナースィルの本陣の反対側の脇腹に突撃をかけた[2]。
この攻撃はカトリック連合軍の士気を奮い立たせた。
一方、ムワッヒド軍は大混乱に陥った。
アラゴン軍やナバラ軍の小競り合いのような戦いも形勢が一気に傾いた。
この時、伝説のように語られるナバラ王サンチョ7世の突撃が行なわれた。
ナバラ王は揮下の精鋭を率いてムハンマド・ナースィルの本陣めがけて突攻し、本陣のテントを鎖のように守る屈強な奴隷による親衛隊を打ち破って、テントまで斬り込んだ。
ムハンマド・ナースィルとその軍勢は慌てふためいて、9万とも10万ともいえる犠牲者を出して敗走した。
一方、カトリック連合軍の戦死者は2000人ほどであった。
主な犠牲者は騎士修道会に集中していた。カラトラヴァ騎士団の旗手であるペドロ・ゴメス・デ・アセベド(Pedro Gomez de Acevedo)、
サンチャゴ騎士団修道長(comendator)アルフォンソ・フェルナンデス・デ・バリャドーレス(Alfonso Fernandez de Valladares)、
サンチャゴ騎士団隊長ペドロ・アリアス(Pedro Arias、大怪我を負い8月3日死亡)、テンプル騎士団隊長ゴメス・ラミレス(Gomez Ramirez)、
カラトラヴァ騎士団隊長ルイ・ディアス(Ruy Diaz)は、指揮ができないほどの悲惨な怪我をしていた。
一方、敗北したムハンマド・ナースィルは本国へ逃げ帰ることはできたものの、翌年マラケシュで事故死した。
戦後のナバラ王国の新たな盾形紋章ナバラ王国の盾形紋章はこの戦いを契機に、赤地に金の鎖が描かれて中央にエメラルドが配される図柄となった。
この紋章は今もスペイン王国の紋章の右下部分に見ることができる。
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- 2010/06/19(土) 17:30:45
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ナバス・デ・トロサの戦いのもたらした影響 [編集]
ナバス・デ・トロサの戦いでムワッヒド朝の受けた打撃は壊滅的ともいえるもので、以後イベリア半島のイスラム勢力は衰退と後退の一途をたどることになった。
そしてムワッヒド朝の本国であるマグリブにおいても、やや時期が遅れたものの、衰退に拍車をかけることになった。
一方でカトリック諸国のレコンキスタの進展にははずみをつけることになった。
カトリック諸国間の内紛や1225年の大飢饉がなければ、もっとレコンキスタが加速したであろうと言われている。
ナバス・デ・トロサの戦いの後、カスティーリャ王国はバエサとウベダを獲得した。
これはナバス・デ・トロサ近郊の主要な砦であり、アンダルシアへ侵入する玄関口ともいえる拠点であった。
カスティーリャ王国のレコンキスタは フェルナンド3世の時代、1236年にコルドバ、1246年にハエン、1248年にセビリャを占領して飛躍的に進展した。
新たにアルコス、メディナ=シドニア、ヘレス、カディスを獲得している。
1251年にはナスル朝グラナダ王国を除いて、タイファ諸国はすべて併合された。
一方、アラゴン王国はハイメ1世の時代、1228年から4年をかけてバレアレス諸島を征服し、1238年9月にバレンシアを占領した。
バレンシアは13世紀の地中海においてジェノヴァやヴェネツィアに次ぐ商業都市となった。アラゴン王国は、バレアレス諸島からサルデーニャやシチリアまでの西地中海域を支配する「帝国」へと成長した。
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- 2010/06/19(土) 19:28:32
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ナスル朝の建国とその生存戦略 [編集]
1230年頃、ムハンマド・イブン・ユースフ・イブン・ナスルがアルホーナで蜂起しナスル朝を建国した。
ナスル朝は1235年にグラナダを攻略し、1238年に遷都した。このためグラナダ王国とも言う。
グラナダはシエラネバダ山脈の天険を最大の防御としており、キリスト教勢力も容易にこれを突破することはできなかった。
彼らの生存戦略は巧妙な外交によるもので、常に最適な同盟(あるいは臣従)の相手を選択した。
1246年からのセビリャ攻囲に、ナスル朝はカスティーリャの指揮下で参加した。
1264年、カスティーリャの圧力が強まると、北アフリカのマリーン朝を引き込んでこれに対抗させた。
こうした巧みな立ち回りと地理的優勢によって、ナスル朝はイベリアにおける最後のムスリム勢力として1492年まで存続した。
グラナダには、キリスト教徒に追われた多くのムスリムやユダヤ人が移り住み、彼らの貢献によって経済的にも文化的にも繁栄した。
イベリア・イスラーム建築の精華ともいえる世界遺産のアルハンブラ宮殿は、ナスル朝の統治下でおおむね現在の形となった。
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