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  • 2009/08/11(火) 05:52:30
アイヌや琉球の伝統宗教破壊、一向宗やキリシタンの弾圧、延暦寺はじめ天台宗寺院の焼き討ち、不受不施派や大本教の迫害、
徳川家康による豊国神社破壊や松永久秀による東大寺大仏殿の破却、上智大学学生に対する靖国神社参拝や朝鮮での神社参拝強要、など叩けばいくらでも出てくるという感じ。

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  • 2010/06/05(土) 17:14:31

昨年はモリスコ追放400周年。


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  • 2010/06/05(土) 18:40:42
宗教弾圧の血塗られた歴史を持つキリスト教は邪教だよね

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  • 2010/06/05(土) 19:41:27
2000年の歴史は伊達じゃないな・・

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  • 2010/06/05(土) 20:59:32

今夜のTBS系「世界不思議発見」はスペイン。


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  • 2010/06/06(日) 12:47:17

インディアスの破壊についての簡潔な報告 (岩波文庫) (文庫)
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  • 2010/06/06(日) 12:59:15
マヤ・アステカ・インカと立て続けに3つの文明滅ぼしたからなぁ。もしかしたら北米の文明も壊したかもしれん。

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  • 2010/06/06(日) 13:33:43

メキシコもグァテマラもパナマ以北はれっきとした「北米」どすよってに。

ラテンアメリカ=中南米ではおまへん罠。

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  • 2010/06/06(日) 15:21:13
メキシコからパナマまで中米かとおもってたw 指摘さんくす

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  • 2010/06/06(日) 18:00:24
1614年、徳川家康はスペイン、ポルトガルの宣教師、貿易商人に
日本の門戸を閉じた。この鎖国の決定に影響を与えた要因として、
高度に発達した文明をもつインカ帝国をヨーロッパ人が破壊したことを
家康が知っていたという事実がある。彼にこのことを教えたのはイギリスの
あるプロテスタントで、スペインやポルトガルのカトリックの影響力を
妬んでのことだろうが、宣教師のあとには必ず軍隊がくる、インディアンの
支配者は殺され、住民は奴隷にさせられ、病気で滅んでいったという
ヨーロッパ人の征服の様子を家康に語ったのだった。中南米のインディオの
運命から教訓を学びとった日本人は、同じ運命をたどることを辛うじて避け、
独立を保つことができたのである。
ttp://www.aritearu.com/Influence/Native/NativeBookPhoto/WagaDaichi.htm

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  • 2010/06/06(日) 18:06:36
ウンデッド・ニー占拠事件 1973年
抜粋

白人一味が逮捕されたが、AIMが要求した「第一級謀殺罪」は適用
されず、懲役はたったの4年(女は2年)だった。が、ゴードン市と
ネブラスカ州は様々な法的不当なインディアンの処遇についての
改善を約束し、「インディアンと白人双方での人種差別検討協議会を
設置すること」、「市の警官がインディアン女性を強姦しても、捜査が
終わるまで釈放しないこと」などの同意がなされ、事件はインディアンの
完全勝利に思われた。

>「市の警官がインディアン女性を強姦しても、捜査が終わるまで釈放しないこと」などの同意がなされ、
おい・・・

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  • 2010/06/06(日) 19:24:02

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB
中央アメリカ(中米、スペイン語 América central)は、メキシコの南東部の国境からコスタリカとパナマとの国境までの地域を指す。
西インド諸島を含み、メキシコや南アメリカと併せてラテンアメリカ(中南米)と呼ばれる。
地理的には、メキシコのテワンテペック地峡からパナマ地峡までである。

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  • 2010/06/07(月) 21:02:27

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%9A%E3%82%AF%E5%9C%B0%E5%B3%A1
テワンテペク地峡 (Istmo de Tehuantepec) は、メキシコに位置する地峡であり、メキシコ湾から太平洋までの距離が最も短い場所である。
テワンテペクの名前は、ナワトル語でジャガーの丘を意味するtecuani-tepecに由来する。

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  • 2010/06/08(火) 21:32:09

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%82%B3
モリスコ (スペイン語morisco、ポルトガル語:mourisco)は、イベリア半島でレコンキスタが行われていた時代に、カトリックに改宗したイスラム教徒を指す名称。
用語はさらに転換され、秘密裡にイスラム教を信仰した疑いをかけられた人々に適用される軽蔑語となった。
秘密裡にユダヤ教を信仰する改宗ユダヤ人(コンベルソ)はマラーノと呼ばれた[1]。

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  • 2010/06/08(火) 21:34:38

レコンキスタ後の1500年代初頭に、ムデハル(イベリア半島出身者のイスラム教徒)はカトリックを受け入れるかスペインを離れるか強制された。
改宗を拒んだイスラム教徒は、イスラム教に固執したために死刑、追放、監禁などの懲罰に直面した。
改宗したイスラム教徒はモリスコとして知られるようになった。
しかし、多くのモリスコは隠れイスラム教徒として信仰し続けた。
イスラム教支持者らは、モリスコの間の文化と信仰の再生を経験していた。
この活動を不安に感じたスペイン王家が、新しく再征服されたスペイン領からイスラム教徒とユダヤ教徒どちらも追放しようと努めたのである。
1610年、スペイン王家はついに残っていたイスラム教徒住民を追放した。
難民のほとんどが、オスマン帝国支配下の土地か北アフリカへと逃れていった。

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  • 2010/06/08(火) 22:32:47
キリスト・・ 恐ろしい子・・・

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  • 2010/06/08(火) 22:57:39

ムデハルの厳密な地位は、多様な地域および後の勅令のカピチュレーションに依存していた。
1492年にグラナダが陥落すると、イスラム住民はグラナダ条約によって信仰の自由を授けられた。
しかし、その約束は短期間だけだった。
グラナダ初代大司教エルナンド・デ・タラベラ側の平和な改宗努力がなされ、シスネロスはより強力な手段をつくった:強制改宗、イスラム教文書焼却と一部のグラナダ・イスラム教徒迫害である。
これらの措置とその他の条約違反に反発して、グラナダのイスラム教徒(モリスコ)は1499年に反乱を起こした。
反乱は1501年初頭まで続き、スペイン当局は降伏条約において残りの約定を無効にした。

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  • 2010/06/08(火) 23:00:01

1501年、スペイン当局はグラナダのイスラム教徒に、改宗か追放を選べという最後通牒をした。
彼らの多くは改宗したが、それは通常表面だけの改宗だった。
彼らは以前からそうしたように、イスラム教徒の服を着てイスラム教徒の言葉を話し続け、秘密裡にイスラム教を信仰し続けた。
彼らの多くはアルハミヤーという、アラビア語を用いアラビア語の表現をちりばめた、カスティーリャ語またはアラゴン語文書のことでもある、独自の筆記法を使用した。
1502年、当局はカスティーリャ・イ・レオンのムデハルに適用された最後通告の延長をした。1508年、当局はイスラム教徒の伝統的な服を禁止した。
ナバーラのムデハルは1515年に改宗か亡命を迫られ、1525年には同様のことがアラゴンのムデハルの身に起きた。

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  • 2010/06/08(火) 23:09:30

より制限の加えられた法律が、カルロス1世時代の1526年と1527年に導入された。

モリスコは40年に渡り法律上の権利停止の罰を受けていた。
1567年、フェリペ2世は、モリスコに対し彼らのイスラム名と伝統的なイスラムの服、そしてアラビア語の禁止を要求する命令を出して、彼らに圧力を加えた。
モリスコには、モリスコの子供たちがカトリック聖職者によって教育されると説明された。
これが、1568年から1571年までアルプハラスで起きた反乱の引き金となった。
反乱征圧後、政府はグラナダのモリスコをグラナダの外へ強制移住させた。多くはバレンシア王国へ送られた。
王家の手先と共謀したほんの一握りのモリスコは、都市やグラナダの領域での滞在を許可された。
強制移住は、グラナダのモリスコだけでなく、当時全くキリスト教徒と同化されていたカスティーリャのモリスコにも影響を与えた。

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  • 2010/06/09(水) 04:04:34
>文明消滅させたのは正直すごいとおもったわw
ああ、なんだ。アイヌ・琉球の文化を消滅させた日本人のことじゃないか。

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  • 2010/06/09(水) 05:28:36
いやいやご冗談を、ライタイハン量産には脱帽です。

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  • 2010/06/09(水) 05:34:33
>ああ、なんだ。アイヌ・琉球の文化を消滅させた日本人のことじゃないか。
よう、ニッポン鬼畜CDU。
いつになったら>>120に答えるんだい?w

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  • 145
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  • 2010/06/09(水) 20:20:42

キリスト教化されたモリスコは、その信仰がしばしば疑わしいとみなされた。
彼らは、スペインに対して陰謀を企てるオスマン帝国やバルバリア海賊と接触している疑いがあった。
スパイは、オスマン帝国スルタンセリム2世がマルタを攻撃し、征服後にスペインへ移る計画であると報告してきた(既に1565年、マルタはトルコ軍の猛攻をしのいでいる)。
その構想では、スペインのイスラム教徒とモリスコの間で反乱を起こすことになっていた。
脅威を確信し、フェリペ2世はモリスコに対して制限的な処置を法律化した。
しかし、富裕で傑出した地位に上がっていた多くのモリスコは、当局の影響力に対抗する力を相当に行使した。
カトリック王は、モリスコと取引するという決意を強めた。
アラゴンとバレンシアの貴族は特にモリスコの労働力を必要とし、一連の忍耐と宗教的命令を主唱する追放から、モリスコを守ろうとした。
イスラム教徒の事業家と労働者は、バレンシアとムルシアの農業で特に欠かせない存在だったのである。

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  • 2010/06/09(水) 20:23:31

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E7%95%B0%E7%AB%AF%E5%AF%A9%E5%95%8F
スペイン異端審問(-いたんしんもん)は15世紀以降、スペイン王の監督の下にスペイン国内で行われた異端審問のこと。
宗教的な理由というよりも政治的な思惑が設置に大きく関わっている。
15世紀末にフェルナンド2世が、コンベルソ(カトリック改宗したユダヤ教徒)に起因する民衆暴動を抑え、多民族であるスペインのカトリック的統一を目的にローマ教皇に特別な許可を願って設置された。
王権制約的であったアラゴン諸王国に対する王権行使の機関、中央集権機関としての側面もある。
設立当初の審問の対象者は主にコンベルソとモリスコ(カトリックに改宗したイスラム教徒)であった。

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  • 147
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  • 2010/06/09(水) 20:36:55

13世紀の「大レコンキスタ」以降、イベリア半島の大部分がイスラム教国家からキリスト教国家の領土となったが、依然グラナダなど南部を中心に多くのイスラム教徒たちが暮らしていた。
カスティーリャ王国では、信仰の自由と自治権を保障されたアルハマ(ユダヤ人共同体)があり、セビリャ、ムルシア地方にも多数のムデハル(キリスト教国支配下のイスラム教徒)が存在した。
またアラゴン王国でも、バレンシアなどに多くのムデハルが暮らしており、バルセロナなどに多くのユダヤ教徒がいた。
この頃は非キリスト教徒に対しても寛容な時代であった。
14世紀の半ば頃から、ペストの流行や経済的問題などにより、比較的富裕層が多かったユダヤ教徒に不満が集まった。
1391年のセビリャで大規模なポグロム(ユダヤ人虐殺)が起こると、それは各都市に飛び火した。
これによって多くのユダヤ教徒が虐殺され、改宗を強いられた。
けれどもユダヤ人への不信感は払拭されず、度々反ユダヤ暴動が起こった。

またアラゴン王国では他のヨーロッパ諸国と同様に教皇庁の任命した異端審問官が巡回する異端審問が行われていたが、それほど大掛かりには行われなかった。
またアラゴン王国の宮廷では多くのユダヤ人が仕えていた。
フェルナンドとイサベル1世の結婚を斡旋したのもペドロ・デ・ラ・カバレリャというユダヤ人家臣であった。

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  • 2010/06/09(水) 20:42:52

カスティーリャ王国のイザベルとアラゴン王国のフェルナンド2世の結婚(1469年)レコンキスタの完了(1492年)により、スペインに待望の統一王権が誕生した。
フェルナンド2世にとって国内の一致のためにも、表面上はキリスト教に改宗しながら実際には自分たちの信仰を守っていたモリスコ、コンベルソの存在が邪魔なものになっていた。
フェルナンド2世は異端審問のシステムを用いれば、これらの人々を排斥し、政敵を打ち倒すことができると考えた。
さらにフェルナンドはユダヤ人金融業者から多額の債務を負っていたため、もし金融業者たちを異端審問によって社会的に抹殺できれば債務が帳消しになるという思惑もあった。

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  • 149
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  • 2010/06/09(水) 20:52:12

フェルナンドはローマ教皇と親交を深めることで自らの王権を強化しようと考えていたが、同時に教皇の影響力を自国からできる限り排除したいとも思っていた。
異端審問はすべて教皇の管轄下で行われるため、もしフェルナンドがスペイン国内で異端審問を行っても自分の思い通りにはできず、教皇庁の介入を許すことになる。フ
ェルナンドは異端審問を自らの政治目的に沿って利用するためにも、教皇の監督行為を排除した異端審問を行いたいと考えていた。
そこでスペインにおいて王の監督のもとに独自に異端審問を行う許可を教皇シクストゥス4世に願った。

教皇は当然、世俗権力によって異端審問が政治的に利用されることの危険性を察知し、なかなか首を縦に振ろうとしなかった。
そこでフェルナンドはさまざまな方策を用いて、この許可を得ようとした。
ここで活躍したのがスペイン人枢機卿ロドリゴ・ボルハであった。
彼の奔走の甲斐もあって、1478年に教皇はしぶしぶながらカスティーリャ地方以外においてのみ独自の異端審問を行うことを許可した。
(これによってボルハ枢機卿は後年のコンクラーヴェでスペイン王の強力な後押しを受けることができた。
彼こそが堕落した中世教皇の筆頭にあげられるアレクサンデル6世である。)

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  • 2010/06/10(木) 03:44:28
ったく、相変わらず低脳の劣等民族イエローモンキー糞ジャップはスレ違いの長文コピペでスレを荒らすしか能がないんだな。w

>>144
以前に答えてやっただろうが。

>>120
>何を目的に?w
つ表現の自由、プライバシーの権利

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  • 2010/06/10(木) 04:32:07
ライタイハン量産ラインおそるべし・・

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  • 2010/06/10(木) 06:11:35
>ったく、相変わらず低脳の劣等民族イエローモンキー糞ジャップは
>スレ違いの長文コピペでスレを荒らすしか能がないんだな。w
そりゃお前だ。w

>以前に答えてやっただろうが。
ウソをつくなよ。
ただの逃亡宣言だろ。w
答えたと強弁するのなら、そのレスを示してみな。

>つ表現の自由、プライバシーの権利
実際は寺巡りなんてやってないんだろ?w
例によってハッタリがばれたということだな。w

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  • 153
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  • 2010/06/10(木) 06:32:16
都合の悪いことは全部見て見ぬ振りをして済まそうとするのが、卑劣なニッポン鬼畜CDUの常套手段だよね。
そんなことをしているから糞ジャップCDUはいつまで経っても他の2ちゃんねらーから信頼されない。

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  • 154
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  • 2010/06/10(木) 07:19:05
宗教にどっぷり漬かってるヤツは信頼に値しないからなぁ。都合が悪けりゃ悪魔。良い出来事は神

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  • 155
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  • 2010/06/12(土) 04:17:07
>>152
ハッタリじゃねえよクズ野郎。w
ったく、劣等民族は猜疑心ばかり強いんだなあ。

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  • 2010/06/12(土) 06:12:58
>ハッタリじゃねえよクズ野郎。w
>ったく、劣等民族は猜疑心ばかり強いんだなあ。
違うというのなら説明してみな。
猜疑心を持たれるような言動をしてきたお前自身を省みるような心掛けも
ないのかい?w

でよ、

「人類普遍の客観的正義」の定義が現代法学で明文化され、共有化されているかい?
法実証主義の関わりは?
「人種に限らず各人に公平な機会を与える必要が何故あるのか?」
「で、何でイエローモンキーを白人と平等に扱ってやらなければならないの?」
と人種・民族差別大好きなお前の主張を正当化する合理的な理由は?
毎日人工透析のケースは?
件の宇宙条約は?
どんな多神教信仰によって魔女狩りが扇動されたんだい?
キリスト教徒の間違った所業とやらはどんなものなんだい?
姦通罪で男は罰せられないとほざいたのは間違いだと認めるわけだな?
>例えばフランスの外国人部隊を組織しているのは、外国人といっても
>ほとんどか旧植民地の出身者で占められていたはず。
ソースは?w
>境内そのものへの立ち入りすらも謝絶している寺院が日本では多い。
全国の寺で境内立入禁止の寺が占める割合を、根拠を付けて出してくれや。

に、お前はいつ答えたんだい?w
はっきりと回答しろや、ニッポン鬼畜チキンCDUちゃん。w

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  • 2010/06/12(土) 06:29:37
ライタイハン量産ライン。オソリシス

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  • 158
  •  
  • 2010/06/12(土) 09:47:36

「日本辺境論」内田 樹 (著) 新潮新書 価格:¥777-






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  • 159
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  • 2010/06/12(土) 10:24:29

こうしてユダヤ教徒とイスラム教徒に狙いを定めたフェルナンドとイザベルによって異端審問所の長官に任命されたのがトマス・デ・トルケマダである。
そもそも「異端」審問というものは、「キリスト教徒でありながら、正しい信仰を持っていないもの」を裁くためのものであり、ユダヤ教徒やイスラム教徒をその信仰ゆえに裁く権利はなかった。
しかし初期のスペイン異端審問所は、一旦改宗しながらユダヤ教、イスラム教の習慣を守るコンベルソ、モリスコを多く裁いた。

シクストゥス4世はセビリアから始められたスペイン異端審問がユダヤ人に的をしぼって行われていることに見かねて抗議したが、
フェルナンド王が自らの支配下にあるシチリア王国の兵力による教皇庁への支援打ち切りをほのめかして恫喝したため、引き下がらざるを得なかった。
教皇としてフェルナンド王の行きすぎた行動や見境のない処罰がキリスト教と異端審問の名を借りて行われていることを看過できず、スペイン異端審問を「ユダヤ人の財産狙いの行為である」と断言している。
「もっともカトリック的な王」という称号とは裏腹にフェルナンドは教皇を徹底的に利用し、教皇に対しては従順を装いながらも強圧的に臨んでいた。教皇がフェルナンドの要求を断れなかった背景には当時の地中海情勢がある。
勢い盛んだったオスマン帝国がギリシアを支配下においてイタリア本土を脅かし始めたのだ。
教皇領とイタリア半島の安全はシシリア王国の軍事力によって保障されていた。
シシリア王国の主でもあるフェルナンドはこれを対教皇折衝の切り札としていたのである。
教皇はフェルナンドの要求を飲まざるを得ない状況に追い込まれた。
こうしてスペイン異端審問に教皇の正式なお墨付きを得たフェルナンドは、教皇の干渉なしに自由に異端審問を利用できるようになった。

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  • 2010/06/12(土) 10:34:21

スペイン異端審問の変遷
1484年に死去したシクストゥス4世の後を継いだインノケンティウス8世は2度にわたって回勅を発布し、スペインにおける異端審問の行き過ぎを批判し、被疑者への寛大な措置を願っている。
そもそも異端審問のシステムにおいては裁くのは教会関係者であっても、処罰を行うのは世俗の権力であるのが通例であった。
拷問は自白を引き出すために用いられ、被疑者が自白すると刑罰が執行された。
刑罰も一律ではなく、人前で異端であることを示す服を着せられて見世物にされる程度の軽い刑から火刑による処刑までさまざまであった。
異端審問を受けた被告の処罰はしばしば都市の広場で行われた。
異端判決宣告式(アウト・デ・フェ)そしてそれに続く火刑は、公権力の存在を人々に知らしめるものであった。

異端審問は告発者が秘密であることが特色であったため、しばしば異端と関係ない無実の人々が恨みなどから、あるいは王室から与えられる報奨金目当てに訴えられることも多かった。
裕福なフダイサンテ(隠れユダヤ教徒)の告発は王室自身が行っていたであろうことは裁判後に資産が王室に没収されたことからうかがえる。


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  • 2010/06/12(土) 11:01:11

宗教改革の時代に入ると、異端審問所はその照準をフダイサンテから「古くからのキリスト教徒」へ移す。
彼らの宗教生活を監視し、少数ではあったがプロテスタントや照明派に対しても審問が行われ、スペイン反宗教改革の中心的役割を負った。
またスペインにおいては魔女は異端審問ではほとんど扱われず、訴えがあった場合でも精神異常者ということで釈放されることが多かった。

17世紀に入ると、審理件数は減少の一途をたどり、18世紀になるとほとんど機能しなくなる。
スペインにおける異端審問が正式に廃止されたのはナポレオン・ボナパルトの支配を受けた1808年である。
ナポレオンの元でスペイン王となったジョゼフ・ボナパルトは、異端審問の廃止を決定したが、その決定には反発も根強く、
その後いったん復活するが、もはや実効性はなく、1834年摂政マリア・クリスティーナのもと、完全に廃止となった。

スペイン異端審問の正確な被害者数を知ることは難しいが、ある研究者はトマス・デ・トルケマダの15年の在職期間中に2000人ほどのユダヤ人が火刑になったと考えている。
イスラム教徒やイスラムからの改宗者の犠牲者はそれよりずっと少なかったと考えられている。


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  • 2010/06/13(日) 08:24:38

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%82%B3%E8%BF%BD%E6%94%BE
モリスコ追放(モリスコついほう、スペイン語:Expulsión de los moriscos)は1609年4月9日にスペイン王フェリペ3世が発令したモリスコ追放の布告である。

背景
モリスコとキリスト教徒との間の猜疑心と緊張は、しばらくの間高かった。
一部のモリスコたちが影響力と力を手にして、バレンシア貴族やアラゴン貴族のような一部の人々(彼らはモリスコの安い労働力に依存していた)と協力関係にあった時、スペインにおけるモリスコたちの全体的な政治的・経済的な比重は低かった。
キリスト教徒住民は絶えず、彼らのキリスト教信仰が本当ではないとモリスコたちを疑っていた。
モリスコたちが改宗か亡命の選択を迫られると、彼らの多くはむしろ王家か教会に対する忠誠をほとんど示すことはなかった。一部の暴徒は反乱を起こした。
これはフェリペ2世がアラビア語・アラビア語名の禁止、モリスコの子供たちを手元で育てずカトリック聖職者に教育させることを要求する勅令に反抗した、
1568年-1571年のアルプハラスの反乱(es:Rebelión de las Alpujarras)として非常によく知られている。
反乱の制圧後、フェリペ2世はグラナダのモリスコを他地域へ四散させるよう命じた。
フェリペ2世は、この措置がモリスコ共同体を分解し、キリスト教徒住民への同化を促進すると期待していた。
この措置はグラナダのモリスコに対して起きたことかもしれないが、バレンシアやアラゴンでは、本物の隠れイスラム教徒の飛び地がまだ実在していた。


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  • 2010/06/13(日) 08:26:55

同じ時期に前後して、スペインはプロテスタントのネーデルラント連邦共和国に対して、低地諸国における自身の領土の半分以上損失したことを認めていた。
スペイン支配階級は、スペインをカトリック・キリスト教界の弁護者と既に考えており、このネーデルラントでの敗北は、彼らのカトリック思想の過激化と、スペインの名誉を回復するために一矢報いたいと考える原因となった[2]。
プロテスタント諸国からのスペインへの一部の批判は、スペイン人とされているイスラム教徒と偽イスラム教徒らを、個人的に雇っているスペイン貴族の一部は堕落しているという、スペイン人への侮辱を含んでいた。

1600年代初頭に事態はさらに悪化した。
1604年の不況で金の価値が打撃を受け、スペイン帝国がアメリカ大陸に所有する宝の没落が起きたのである。
生活水準の縮小が、キリスト教徒と、貴重な仕事をするモリスコとの間に緊張を増大させた[2]。

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  • 2010/06/13(日) 12:32:55

地方ごとの対モリスコ姿勢
1609年、850万人の総人口の他におよそ325,000人のモリスコがスペインにいた。彼らはかつてのアラゴン王国領に集まっていた。
そこではモリスコは人口の20%を占め、バレンシア王国では特にその傾向が強く、総人口の33%を占めていた。
加えて、モリスコの人口増加は、キリスト教徒の人口増加に比べていくらか高かった。
バレンシアでは、モリスコ人口は、昔からのキリスト教徒の44.7%と比較して約69.7%の成長率を持っていた。
モリスコたちが田園地帯と都市の郊外貧困地区での人口を占める間、都市で暮らしていたのは金持ちとほとんどのキリスト教徒だった[3]。

かつてのカスティーリャ王国では、状況は全く違っていた。
カスティーリャは600万人の人口を持っていたが、モリスコ住民はわずかに10万人ほどだった。
モリスコはほとんど大きい存在でなかったので、カスティーリャでのモリスコへの不満は、アラゴンのキリスト教住民のモリスコに対する不満より遙かに小さかった[1]。

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  • 2010/06/13(日) 12:35:18

『イスラム教は脅威であり、打破すべきである』とする全般的な合意が事実上スペインにはあった。
しかし、公式にはキリスト教徒となっているモリスコたちに対し、どのような方法でイスラム教徒か否か照会するかは不明であった。
王家の参事官であるルイス・デ・アリアガ(1619年-1621年には異端審問所長官を務めた)のような一部の聖職者たちは、同化して、完全なキリスト教徒となるよう時間を与えて支援すべきとした[1] 。
この意見は、ローマの教皇庁も敏速に支持していた。
モリスコの最も熱心な援護者はバレンシアとアラゴンの貴族たちで、この姿勢には彼らの利己心が含まれていた。
これらの貴族は、モリスコが提供する乏しく安い労働力から最も利益を得ていたのである。

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  • 2010/06/13(日) 12:38:50

この見解に反対したのは、様々な名士と階級の人々だった。
アリアガに反対する聖職者にはハイメ・ブレダが含まれていた。
彼はバレンシアでの異端審問の最も著名な人物だった。
ブレダは初期にフェリペ3世に対して数回の申し入れを行い、モリスコ問題を消すかさもなければ終わらせるかを進言した。
彼はジェノサイドまでも勧めていた[1]。
最初、この種の嘆願は成功に結びつかなかった。
1596年、フェリペ3世の財政担当者であるレルマ公フランシスコ・デ・サンドバル・イ・ロハス(es)は、モリスコはイスラム教徒のバルバリア海賊と共謀していると告発した。
しかし、この意見に多くの住民が固執する間、残りの人々はこの脅威はずっと以前に終わってしまったとみなした。モ
リスコへのどんな懲罰的措置にも反対するアラゴン議会は、たとえモリスコたちがスペインを裏切りたかったとしても、
『モリスコはトルコ艦隊のために武器も軍用必要物資も所有しないし、守備も固めないし、基地も持たない』のでそのような状況にないと書いた。
その時に何も起きなかったが、レルマ公はモリスコに対する自らの反感を持ち続けた[2]。
一般庶民のうち、バレンシアの小作農らはこの件に最も関心を抱いていた。
彼らはモリスコを敵意のまなざしで見、彼らを経済的・社会的な競争相手とみなしていた[1]。
この不満は1520年以前、バレンシア一般大衆がバレンシア貴族だけでなくイスラム教徒のムデハルらに対しても反乱を起こした
ヘルマニア反乱(en:Revolt of the Brotherhoods)の時に沸き立った。
暴徒はバレンシアのモリスコを構成するイスラム教徒人口の多くを殺害し、生存者に大規模な洗礼と改宗を強いた。

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  • 2010/06/13(日) 14:05:07

レルマ公は結局、バレンシア大司教フアン・デ・リベラ(en:Juan de Ribera)の助けを借りてフェリペ3世を納得させた。
大司教はモリスコを全般的に異教徒・裏切り者であるとみなす人物であった。
大司教は王に、より説得力があるよう計画をたてる構想を与えた。
王はモリスコらの資産と不動産を没収でき、このことによって王家の財源にかつてのような劇的な後押しが提供された。
大司教は『良心のうちのどんな良心の呵責もない』のでこのようなことができたのだが、
彼は王に、モリスコを奴隷にしてガレー船、鉱山、アメリカ大陸植民地で働かせるようにも勧めたが、この提案は拒否された[1]。

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  • 2010/06/13(日) 14:08:25

1609年4月9日、モリスコ追放の勅令が署名された[3] 。
政府は、それほど多くのモリスコを追放することには問題があると知っていた。
モリスコ住民数が最大であるバレンシアから追放が始められることが決まっていた。
準備は厳正に秘密裡になされた。
9月に入り、イタリアからテルシオの大軍が到着した[4]。
彼らはバレンシアの主要港、アルファケス、デニア、アリカンテに配置された。
9月22日、バレンシア副王・バレンシア大司教フアン・デ・リベラが、勅令の公表を命令した。
モリスコ労働者を失えば自分たちの農業収入は崩壊してしまうと、バレンシア上流階級は追放に抗議するため政府と会見した。
政府は、彼らの損失と引き替えにモリスコの資産と土地の一部を提供したが、損失の補償となるには不足だった。
モリスコは、持ち運べるものなら何でも持っていくよう許された。
しかし、彼らの住宅と土地は彼らの主人のものとなった。
移動の前に自宅に火をつけたり壊したら、死を覚悟しろと禁じられた[4]。
特定の例外が与えられた。
全ての100世帯のうちの6世帯は、皆が去った後に残り、モリスコが優勢であった町での基盤を維持して良いと許された。
ごく少数しかこの特例に該当せず、彼らも後でいずれは追放されるだろうと考えられていた。
加えて、4歳未満の子供たちの追放は選択自由であった。これは後に16歳まで拡大された。
リベラ大司教は、強くこの解釈の一部に反対した。
彼は、少なくとも、子供たちが両親とともに去ることを禁じ、『彼らの魂の救いのために』隷属させ、キリスト教徒にさせなくてはならないと働きかけた[4]。

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  • 2010/06/13(日) 14:14:50

9月30日、最初の亡命者たちが港へ連行され、そこでは最後の侮辱として、彼らに旅行代金を支払うよう強制した[4]。
モリスコたちは北アフリカへ輸送された。
そこで彼らは時に、受け入れ側の人々から侵略者だとして非難された。
別の時には、小さな反乱が船上で起こり、船員との戦闘で亡命者の数人が殺害された。
これが、バレンシアに残ったモリスコ住民の恐怖を引き起こし、10月20日に追放に反対する反乱が起きた。
6,000人を数えた反乱軍は、人里離れたアヨラ谷とムエラ・デ・コルテスを占拠した。
5日後、新たな反乱がバレンシア南岸で起こり、15,000人の反乱軍がルガル谷を占拠した[5]。
11月に反乱軍は制圧された。
わずか3ヶ月間で、11万6千人ものモリスコがバレンシアから北アフリカへ輸送された。
1610年にアラゴン王国でモリスコ追放が始まった(特定の地域としてのアラゴンであり、元のアラゴン王国領全土ではない)。
41,952人がアルファケス経由で北アフリカへ送られ、13,470人がピレネー山脈を越えてフランスへ送られた[5]。
アグドの港にモリスコの大半が送られたことにフランス人は憤慨し、そして陸路をとった人々は通過料と海上料金を請求された[5]
9月、カタルーニャ君主国のモリスコたちが追放された。同様にアンダルシアは32,000人のモリスコを追放した[5]。

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  • 2010/06/13(日) 18:41:23

カスティーリャでのモリスコ追放は、最も困難な作業だった。
どの場所にも固まって住まず、むしろ1571年のモリスコ反乱以後、モリスコたちはカスティーリャ国内に分散していたのである。
このために、モリスコは自発的な出立という最初の選択自由を与えられた。
彼らは自分たちの一番価値のある財産を売ったり他のことをすることができた。
カスティーリャでのモリスコ追放は1611年から1614年までの3年間続けられた。
全体の32,000人ほどのモリスコがカスティーリャを去った。
一部は追放を避けてスペインにとどまることさえできた。
公式に追放が完了された後、おおよそ1万人ほどのモリスコがスペインに残ったと見積もられており、その大部分はカスティーリャにいた[5]。

追放は印象的に作用した。
国家は、居住者の地位の目録を注意深く保管し、官僚機構は短期間で国からあのような膨大な人数のモリスコを追い出すために、効率的に機能したのである。

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  • 2010/06/13(日) 18:43:58

カスティーリャ議会は1619年の追放を評価し、国にとっての経済的影響はないと結論づけた。
これはカスティーリャにとって基本的な真実であった。
一部の学者がモリスコ人口が重要であった部門で経済的結果を何も見いださなかったからである[6]。
しかし、バレンシア王国では農地は打ち捨てられ、キリスト教徒がおそらく満たすことができなかったであろう空白が経済分野に残された。
バレンシア王国の住民の33%を取り除いたことで、アリカンテ北部にある一部の郡では事実上その住民全てを失った。
経済・社会基盤は凋落し、キリスト教徒貴族と大地主たちは支払いの滞り状態となった。
現金に困ったバレンシア貴族の多くが、かつての収入に近いほどの返済をしなければならない借地料を、キリスト教徒の小作人らに対して増額した。
借地料の増加は、どんな新しい借地人でも取り替えられるために、支払いのできない借地人は追い払われるようになった。
その結果、バレンシアの農業生産高はすさまじく下がったのである[7]。

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  • 2010/06/13(日) 18:49:12

人口の4%の追放は少数に見えるかもしれない。
しかし、モリスコ人口は、考えられていたよりも大きな一般の労働人口であったことに留意しなければならない。
実際、モリスコは貴族、兵士または聖職者になるほど信用されていなかった。
これは、徴税において目立って税金収入が低下したことを示していた。
そして最も大きな被災地であるバレンシアとアラゴンは、数十年に渡って経済的に損害を受けた。

追放は、バレンシアとアラゴンの経済というだけでなく、貴族の権力にとっても大打撃であった。
しばらくの間かつてのアラゴン王国は、より豊かで人口の多いカスティーリャ王国の影であった。
しかしこのモリスコ追放で、バレンシアとアラゴンの成長はさらに減退した。
イベリア半島東部の王国のうち、カタルーニャ貴族は今や傑出し、彼らの収入は上記の2カ国よりはるかにモリスコ追放の影響を受けなかった。
このように、モリスコ追放は、バレンシアとアラゴンの伝統的な経済中心地からカタルーニャへと力を移すのを助けた[8]。

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  • 2010/06/13(日) 18:55:00

断固としてカトリック教徒のままいることを望んだモリスコたちは、だいたいにおいて新たな家をイタリア(特にリヴォルノ)で見つけることができた。
しかし、追放された人々の圧倒的多数は、イスラム教徒が掌握している北アフリカに定着した。

2008年に実施された遺伝子研究によると、モリスコを先祖に持つ人の一部がスペインに残るのが目立ち、追放がそれほど効果的でなかったかもしれないことを示している。
これは、『宗教上の改宗(任意か強制かにかかわらず)を高水準で示す』北アフリカ出身者(10.6%)を先祖に持つ平均割合の高さを示している。
彼らは、社会的・宗教的偏見の歴史的な出来事によって追いたてられ、最終的には子孫の同化に至った[9][10]。

数世紀後、謝罪の手段として、もう一度、モリスコの子孫であるスペイン市民は申し出てほしいとする提案が2006年になされた。

フリックラーニング
フリック回転寿司
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