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- 2024/06/12(水) 16:37:05.14
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>>647
1993年6月ころから、教団幹部は、山梨県南巨摩郡富沢町の「富士清流精舎」と呼ばれる教団施設内において、ロシアに何度か渡航し作成した図面や見本、見学した施設等を参考に、本格的な設計作業を進めるとともに、オカムラ鉄工を乗っ取った際に入手した大型工作機械などを用いて部品の製造方法の研究を行った。密造責任者の横山真人は、何が目的なのか知らないで引き受けたという[4]。AK-74は麻原の命名で「ナーディー[5]」、弾薬は「プラーナ[6]」と呼ばれていた。
1994年2月、麻原はAK-74を1000丁つくれと命令し[3]、4月下旬ころから、上九一色村の教団施設内に大型工作機械を多数設置して銃器製造工場の整備を行い、1995年1月1日、試作品の小銃1丁を完成させた。この日は読売新聞で上九一色村のサリン残留物検出がスクープされた日でもあり、麻原は「新聞にはこのような記事が出るし、おまえたちは小銃を持ってくるし、今日はほんとにすごい日だな」と語った[7]。
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