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- ネトウヨ ★
- 2021/10/14(木) 12:17:25.91
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車いすユーザーでコラムニストの伊是名夏子さんが今年4月、JR東日本の無人駅で下車しようとして駅員から“乗車拒否”された体験をブログに書いたところ、ネット上で炎上し、誹謗中傷が現在も続いている。伊是名さんは10月11日、炎上後初めて公的な場に姿を現し、女性が安全にインターネットを使える社会の構築を訴えた。
「火のないところに煙は立たないは間違いでした」
伊是名さんは会見で、こう語り始めた。
「私は今まで火のないところに煙は立たない、いじめられたり炎上にあったりするのは本人にも問題があると思っていました。しかしそれは大きな間違いでした。今回火のないところにわざとライターを持ってきて、どんどん燃え広げてデマを作り上げ、それを世界中に拡散する人がいるのがよくわかりました」
伊是名さんは今年4月、子ども2人と介助者らで旅行に出かけた。その行き先が無人駅だったことで、当初駅員から「階段しか無いので案内できない」といわれたが、結局他の駅の駅員が同行し車いすを運んだ。これについて伊是名さんは自身のブログに「ここまでの乗車拒否は初めてでした」と書いたところネット上で大炎上となり、伊是名さんには半年経った今も誹謗中傷やデマの拡散が続いている。
(略)
「生活がズタズタにされ、涙が止まらなくなる」
被害はネット上だけにとどまらない。伊是名さんの住んでいる地域の役所に不正受給について問い合わせをしたり、警察に電話をするケースもある。またパートナーの会社や伊是名さんの仕事の繋がりのあるところにも電話をしてクレームを入れる。自宅にも差出人不明の手紙が届いたり、携帯電話にも非通知着信がある。
こうした事態を受け、伊是名さんは「生活がズタズタにされている」と語る。
「街中で子どもを叱っているのをみられたら虐待していると拡散されるのではないかと怯えたり、仕事相手に非常識とかわがままとか呼ばれるのではないかと常に不安を抱えています。時に何も考えられなくなったり、気持ちが落ち込んだり、消えた方がいいのかなと考えたり。涙が止まらなくなることもあります。ネット上で毎日集団リンチに遭っているような気がします」
ネットで誹謗中傷に苦しむ被害者は、よく周りから「ネットの書き込みなんか気にしなくていい」「時間が経てばおさまる」とアドバイスされる。しかし伊是名さんはこう反論する。
「例えば学校でいじめが起きたときに、いじめた側に改善や責任を求めるのではなくて、いじめられた側にしばらく学校を休んだらと提案するのと同じで、何も問題の解決にはなっていません。加害者の責任、そしてプラットフォームの改善が必要です。そうしないと私のように誹謗中傷やデマが拡散され、次のターゲットを見つけてまた繰り返されるだけです」
(略)
https://news.yahoo.co.jp/articles/1a203ed68dfc5e9a2a02997c2ab6859b8d02f64e
※前スレ
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1634175043/
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- 2021/10/14(木) 12:17:59.81
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火がなんか喋ってる
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- 2021/10/14(木) 12:18:44.42
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火元
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- 4
- 2021/10/14(木) 12:19:09.50
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お旦那、福島みずぽダンマリ
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- 2021/10/14(木) 12:19:13.88
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また本人っぽい人来るかな
初めてのフリして
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- 2021/10/14(木) 12:19:16.95
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自業自得
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- 7
- 2021/10/14(木) 12:19:17.28
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今日は養護が元気だな
昨日は木村響子さんの対応で忙しかったんだろうか?
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- 2021/10/14(木) 12:19:22.19
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むしろ煙
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- 9
- 2021/10/14(木) 12:19:40.74
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メンタルがすごいな
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- 2021/10/14(木) 12:19:41.69
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そりゃ自分で放火してればね
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- 2021/10/14(木) 12:19:54.35
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>>31
ようこそ
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- 12
- 2021/10/14(木) 12:19:55.75
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さんいち
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- 2021/10/14(木) 12:19:58.46
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100キロの車椅子を人力で且つ無償で運ばせるのはリンチだろ
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- 2021/10/14(木) 12:20:26.22
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志位 正二(しい まさつぐ、1920年1月1日--1973年3月31日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。
終戦後シベリア抑留にあい、1948年4月にソ連諜報員となる誓約を行い[1]、モンゴルのウランバートルにあった「第7006俘虜収容所」において
諜報員、共産主義革命のための特殊工作員としての訓練を受けたとされる[2]。
1948年11月、シベリアより復員[1]。
1951年10月以降、G2在職のままソ連国家保安委員会(KGB)にエージェントとして雇われる[3]。
1953年11月、外務省アジア局調査員となる[1] が、「二重スパイ」の活動は継続した[3]。
1954年2月5日、警視庁公安部に自首し、自身がソ連の工作員(スパイ)であったことを認めた[4]。
しかし罪には問われず、その後、1973年3月31日、シベリア上空を飛行中の日本航空のダグラス DC-8型機の機内で死去した[1]。
親族:
甥 志位和夫(現日本共産党中央委員会幹部会委員長)
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