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- 2020/11/23(月) 10:19:53.22
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露助には武力あるのみ。話し合いなど無駄
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http://www2.plala.or.jp/shyall/nenpyo/index.htm
<日露関係1800年代>
文化3年(1806)翌年にかけて、レザノフの部下フヴォストフら、蝦夷地北辺を襲撃(文化露寇★、フヴォストフ事件)。
天保二年(1831)ロシア船が蝦夷に侵入、役人と交戦
嘉永六年(1853)アメリカ・東インド艦隊指令ペリー、軍艦4隻を率いて浦賀に来航
嘉永六年(1853)ロシア使節・プチャーチン、軍艦4隻を率いて長崎に入港。国書受取要求
安政元年(1854)ペリー、軍艦7隻を率いて江戸湾に進出
安政元年(1854)日米和親条約附録(下田条約)締結。蘭、露とも締結
安政二年(1855)松前藩、北蝦夷地久春古丹のロシア人陣営を焼く
<文化露寇(1806)>
■樺太の松前藩居留地を襲撃し、その後、択捉島駐留の幕府軍を攻撃した。幕府は新設された松前奉行を
司令官に、弘前藩、南部藩、庄内藩、久保田藩から約3,000名の武士が徴集され、宗谷や斜里など蝦夷地の要所の警護にあたった
■樺太の久春古丹に短艇で上陸したロシア兵20数名は、銃で威嚇して17、18歳のアイヌの住民の子供1人を拉致した。
13日にも30数人の兵が再び上陸し運上屋の番人4名を捕えた後、米六百俵と雑貨を略奪し11箇所の家屋を焼き、
魚網及び船にも火を放ち、前日拉致した子供を解放して帰船。ロシア側本船は17日に出帆しその地を去った。
船を焼失した影響で連絡手段が絶たれたため、翌年4月になってこの事件が松前藩及び幕府に報告された
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