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  • 2016/10/19(水) 21:16:23.82
ヤスパースの言葉を借りて言えば
儒教を捨てた日本人は「非精神化」された
ヤスパースは枢軸時代の結果として人類が「精神化」されたと述べている
またこの精神化こそが「強烈きわまりない生産性」を実現させるものだとも言っている

>この軸は、それ以降人間が人間として存在しうるもの、すなわち高度の人間存在が生まれた時点、
>人間存在の形成において強烈きわまりない生産性が実現された時点であるであろう。〔中略〕
>この世界史の軸は、はっきりいって紀元前五〇〇年頃、
>八〇〇年から二〇〇年の間に発生した精神的過程にあると思われる。そこに最も深い歴史の切れ目がある。
>われわれが今日に至るまで、そのような人間として生きてきたところのその人間が発生したのである。
>この時代が要するに《枢軸時代》と呼ばれるべきものである。〔中略〕
>この時代には、驚くべき事件が集中的に起こった。シナでは孔子と老子が生まれ、
>シナ哲学のあらゆる方向が発生し、墨子や荘子や列子や、そのほか無数の人々が思索した、〔中略〕
>いっさいが、シナ、インドおよび西洋において、どれもが相互に知り合うことなく、
>ほぼ同時的にこの数世紀間のうちに発生したのである。〔中略〕
>この時代に基本的範疇が生み出されたが、それらを身につけてわれわれは今日まで思惟しているのである。
>また世界宗教の萌芽が生み出されたが、それに基づいて人間は今日まで生きてきたのである。
>あらゆる意味で、普遍的なものに迫る歩みが、行なわれたのである。〔中略〕
>このような人間存在の全面的変革は、精神化といってもよい。
(河出書房刊『世界の大思想〈第2期 第12〉ヤスパース』 P16-18)

>枢軸時代の展開にあずからなかった人間は、数万ないし数十万年来の非歴史的な生き方を続け、
>あくまで「自然民族」のままにとどまった。枢軸時代の三つの世界以外の人間は、あくまで孤立したままか、
>あるいはこの三つの精神的放射の中心のどれかとの接触に入ったかのいずれかである。
>接触によって、彼らは歴史に受け容れられた。例えば、西ではゲルマン民族やスラブ民族、
>東では日本人、マレイ人、タイ人がこのようにして歴史に加わった。
>先史的諸民族は、彼らが枢軸時代に発した歴史的運動に編入されるまでは、どこまでも先史的存在にとどまった。
>さもなくば死滅したかである。枢軸時代はそれ以外のいっさいを同化する。
(同上 P21,22)

つまり日本人は枢軸時代の産物である儒教などを受け入れることによって精神化され文明人の仲間入りをしたが
>だれでもひろく愛して仁の人に親しめ。(金谷治訳注『論語 (岩波文庫)』 P24)
という孔子のこの言葉に象徴される儒教的精神を捨てた現代日本人は逆に非精神化され
「自然民族」ないし「先史的存在」に退行したのである
ヤスパースの説に従えば自然民族に戻ってしまった日本人は文明を維持できない
孔子が理想とした「ひろく愛すること」と「智者であること」に何の価値も見出さない現代の日本人は
もはや文明人ではなく、文明人であった頃の過去の遺産を食い潰すだけの存在になってしまっている

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