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  • 2019/10/24(木) 23:28:09.10
「失意」

現役生活22年の後に3年間の助監督という“助走”を経て、王貞治が巨人軍第11代監督に就任したのは84年シーズンの事だった。
球団は創立50周年、満を持して就いた王に与えられた使命は、読売新聞主催で行われる前年ワールドシリーズの王者ボルティモア・オリオールズと
の“日米決戦”に出るため日本一を奪回する事だった。オープン戦は11勝4敗の2位、前年打点王の原辰徳を軸とする打線も固まり、下位に新外国人
ウォーレン・クロマティと中畑清を置くラインナップは強力といえた。投手でも元々の布陣に加え「斎藤(雅樹)という新しい投手も出てきて使えるメドが
立った」と話すなど王には自信が漲っていた。

しかし、その自信が崩れていくのは実に早かった。開幕戦で江川卓が阪神相手に4回6失点KO、終盤で4点差を追い付きドローに持ち込むのが
精一杯だった。2戦目はリチャード・オルセンに対し7回までわずか2安打で好投の西本聖を見殺し、3戦目には抑えの角三男が掛布雅之に逆転の
3ランを浴びて連敗発進して出鼻を挫かれた。巨人はこの後も一つ勝って2分けを挟みまたも中日、阪神、ヤクルトと4連敗したため開幕から10戦で
1勝しか出来なかった。3日後からもう一度4連敗した巨人はこの時点で3勝10敗3分けで最下位、12連勝の首位広島と早くも9.5ゲーム差が開いて
しまった。王は「開幕10試合で選手、チームに動揺が広がってしまった」とスタートを悔やんだ。
前半戦は苦しみ、5月の大洋戦で四番・原に送りバントをさせて引き分けに持ち込む試合もあった。首位中日と9.5差の貯金1で球宴ターン、後半戦は
中畑を四番、原を六番に下げて臨み10連勝するなど30勝18敗の追い上げはあったが、途中14連敗のあった中日だけならず、4位阪神にも5年ぶり
のカード負け越しを喫した王巨人失意の初年度は、297万4000人の観客動員新記録とは裏腹で一度も優勝争いに絡めず3位に終わった。
打高投低が目立ち機動力と投手力で広島に、長打力で中日に劣った巨人は何より緻密さに欠け犠打数ではリーグ唯一2ケタで最下位だった。
王期待の斎藤は8月以降に4勝を挙げて頭角を現したが槙原寛己、定岡正二、角の不振が響いた。打者で篠塚利夫が初の首位打者を獲得し、
中畑が初の30発といった個人成績の良さも王の大雑把な野球のイメージに拍車をかけた。

一軍のコーチ陣が全員監督より年下な事で、進言や意見する参謀役が不在だったのも一因だった。王は「50周年だっただけに、普段の年ならある
程度の所で育成も考えたが、節目の今年だけはどうしても優勝したかった」とシーズン後に話していた。
秋の日米野球で世界一決戦は実現しなかったものの巨人はオリオールズと5試合を戦ったが、オリオールズも84年はア・リーグ東地区で5位だった。
そのオリオールズに巨人は1勝4敗、日本一球団とワールドシリーズチャンピオンが激突するシステムはこの年限りで終わった。 (了)

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