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  • 2010/11/23(火) 11:37:36
かつて中村武志が横浜時代に「川村に聞けばどんなことでも教えてくれる」って言ってた。
これに松家や加藤武治がいた当時の横浜投手陣の偏差値は無駄に高かったなw


そういうわけで高学歴の野球選手について語りましょう。
プロアマ特に問いません。

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  • 2010/12/23(木) 22:55:53
どんでんは北陽に推薦で進学する際、野球部の練習時間とは別に勉強時間の確保を要求したらしい。
それで家庭教師雇って学校のカリキュラムとは全く別に勉強してたらしい。
馬○で有名だった北陽出身とはいえ、侮れない学力があったはず

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  • 2010/12/24(金) 08:01:21
故山際淳司さんのエッセイ「スローカーブを、もう一球」

〜強豪がひしめく関東大会で勝ち残り第53回春の甲子園出場を勝ち取った高崎高校。
ヒーローもなく、ただひたすら自分達のペースで闘い続けた末の勝利。
猛練習とは無縁で、甲子園など夢にも思わなかった秀才校の快進撃を描く〜

このエッセイは、私の母校高崎高校のことを描いたもの。
この本が世に出た頃、私はまだ中学生で、
日々の生活の中での最大の目標は、県下でもトップの進学校である高崎高校へ入学することだった。
「賢い上に野球までも全国レベルなんだ」ということで、
ますます憧れを強めた覚えがある。
入ってしまった後は男子校ゆえ、「うるおいのない高校生活」が待っていたけど(苦笑)
この本に書かれている「先輩」たちは、私より4つか5つくらい上の代に当たるのかな?
もうすでにいいおじさんとして、現在はそれぞれの分野で活躍されているんだろうが、
後世に語り継がれる青春を過ごす事ができたというのは羨ましい限りです。

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  • 2010/12/24(金) 10:13:21
>>93-94
その両名は自身も裕福な育ちだな。
とくに負広は、指名の挨拶に実家を訪ねた阪神のスカウトが
豪邸ぶりにたまげたらしい。

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  • 2010/12/24(金) 16:06:43
>>95
スタンフォード大学ならいる

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  • 2010/12/24(金) 20:44:19
上でも少し話題になってるが、国立高校といえば西東京大会準々決勝、
超満員の昭島球場での、佼成学園との延長18回1-1で引き分け再試合となった試合が印象深い。
中でも連投に次ぐ連投にもかかわらず、18回を投げ抜いた市川投手には
子供ながらに強い感動を覚えたもんだ。
その後の再試合から決勝まで、初戦からだと8試合を1人で投げ抜き、
国立を都立として史上初めてとなる甲子園出場へと導いた
“小さな大投手” 市川投手は俺にとっては、いつまでも永遠のヒーローだな。

甲子園出場が決まった日の、国立駅から学校まで交通をすべてストップして行われた優勝パレード。
大学通りに大群衆が群がった、あの熱狂的なパレードで、
選手と握手してもらったり、目の前で深紅の優勝旗を見た思い出は
一生忘れることはないだろう。

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  • 2010/12/25(土) 11:57:02
松家卓弘

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  • 2010/12/25(土) 13:41:05
やっぱホプキンスでしょ

ゲイル・ホプキンス(Gail Eason Hopkins , 1943年2月19日 - )は、アメリカ合衆国オクラホマ州出身の元プロ野球選手(内野手)、医師、牧師。
ペパーダイン大学を経て、1965年にシカゴ・ホワイトソックスと契約。
1968年6月29日にメジャーデビュー。1971年にカンザスシティ・ロイヤルズ、
1974年にロサンゼルス・ドジャースに移籍。
1975年にジョー・ルーツ監督に請われて広島東洋カープに入団し、来日。
主に一塁手として出場し、10月15日の読売ジャイアンツとの優勝決定戦では勝負を決する3ランを放つなどセントラル・リーグ初優勝に貢献。
翌1976年もチームの主軸として活躍した。
1977年に南海ホークスに移籍し1シーズンプレーした後、現役引退。
帰国後は選手時代から勉強を重ねていた医者の道を志しシカゴ・ラッシュ医大に再入学、
整形外科医になりその後ミッション系大学で聖書学も教え始めたという異色の経歴を持つ。
広島在籍時には試合前に広島大学で実験を行っていたことや休み時間に医学書を読むなどということもあったという。
現在オハイオ州で病院を開業し、自らも整形外科医として患者の診察にあたっている。
また、地元大学で准教授として聖書学の講義を担当している。

-wikiより


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  • 2010/12/25(土) 13:51:58
マーティキナート著

●「鉄人」衣笠が憧れるタフな男
世界の「鉄人」衣笠祥雄が、自分よりずっとタフな男だと称える旧友がいる。
衣笠の脳裏に焼きついているのは、その男が試合前のロッカールームで本を読みふけっていた姿だ。
スポーツファンには、それぞれ絶対に忘れられない場面がある。私の場合、
イチローがメジャーわずか8試合目で見せた「ザ・スロー」が、脳裏に焼きついている。
あれは2001年4月11日だった。1塁にいたオークランド・アスレチクスの俊足テレンス・ロングが、
ライト前のシングルヒットで愚かにも3塁を狙い、イチローの鋭い返球に刺されたのだ。  
そして選手自身にも、生涯、忘れられない場面がある。  
先週、私は日本野球界の「鉄人」衣笠祥雄と、1975〜76年に広島東洋カープで衣笠とともに戦ったゲイル・ホプキンスと会った。
2人の思い出話は尽きず、静かに敬意を表したかと思えば、笑いが止まらなくなるときもあった。  
衣笠は1975年シーズンを、昨日のことのように覚えている。
「ゲイルの入団が決まってすぐに、当時のジョー・ルーツ監督から、僕が10年間、守っていた1塁から3塁に移ってくれと言われた。
ゲイルが1塁を守れるようにさ。でも、別に気にしなかった。だって、僕のほうがゲイルより足があって(守備範囲が広く)、肩もいいからね」
衣笠はそう言うと、温かい笑顔を見せた。  
ホプキンスはシカゴ・ホワイトソックス、カンザスシティ・ロイヤルズ、ロサンゼルス・ドジャースで7年間、
メジャーリーガーとしてプレーした後、日本に来た。彼は衣笠に反論したりしなかった。
「そう、そう。僕はあまりに足が遅いから、『ゾウ足』と呼ばれていた。今でも電子メールのアドレスに、その名前(zoashi)を使っているよ」

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  • 2010/12/25(土) 13:53:24
●野球選手になって、医師になって、宣教師になる  
衣笠の伝説を知らない人や、よく覚えていないという人のために、彼の見事な実績をおさらいしておこう。
1970年10月19日から87年10月22日に引退するまで、京都生まれの衣笠は2215試合に連続出場した。
この数字は、96年6月14日にカル・リプケン・ジュニアが更新するまで、輝かしい世界記録だった。
野球殿堂に名を連ねる衣笠は、23年間の現役生活で通算504本塁打、1448打点。84年にカープが4度目のリーグ優勝を果たし、
3度目の日本一を達成したシーズンには、セ・リーグのMVPに選ばれた。
しかし衣笠がとりわけ記憶に残っているのは、75年シーズンだという。
「その年にゲイルがやって来て、僕たちは勝てるんだという信念を植えつけてくれた。
(広島は)それまで一度も優勝していなかったんだ。ゲイルは体のあちこちを痛めていたのに全試合出場して、
ホームラン(33本)と打点(91点)はチーム1位だった」
「あれはシーズン129試合目(10月15日)、後楽園球場でジャイアンツと対戦したときだ。
9回表にゲイルが逆転の3ランを打ったとき、僕は優勝したと確信した。あの瞬間は絶対に忘れない。
僕の野球人生で、まちがいなくトップ5に入る思い出だ」  
もうひとつ、衣笠が昔のチームメイトについて忘れられない光景がある。
練習や試合の前のロッカールームで、ホプキンスが生物学のテキストや医学書を読んでいた姿だ。
「ゲイル、ずっと聞いてみたかったんだけど、医者になろうと思ったのはいつごろ?」
衣笠の目は、あこがれのスターに会ったときのように輝いていた。
「プロの野球選手にも医者にもなれるなんて、どうしてそんなふうに思えたの? 
日本では野球選手なら、目標はそれだけだ。僕にはずっと野球しかなかった」
「18歳でペッパーダイン大学に入ったとき、人生で3つの目標を決めた」とホプキンス。
「野球選手になること、医者になること、宣教師になること。
そして、神のおぼし召しにより、3つとも達成できそうだ」

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  • 2010/12/25(土) 13:55:08
●シーズン終了とともに医学校へ入学  
実際、13年間の野球生活のあいだも、ホプキンスは勉強を中断することはなかった。
現役中の74年には、生物学の博士号を取得している。75年から医学校へ進むつもりだったが、
長年低迷していた広島カープがホプキンスを説得。
1年契約には、75年シーズンの終盤に優勝は無理だと決まったらすぐに、日本を離れてもいいという条件が入っていた。
ホプキンスは、9月には帰国して医学校の新学期に間に合うだろうと考えていたのだ。  
ところが、優勝争いは広島を交えて最後まで白熱した。そしてホプキンスは、医学校に進む計画を延期したことを、
今も後悔していない。
「あの1975年は、僕たちみんなにとって、本当に特別なシーズンだった。最後の巨人戦を終えて広島に戻ったとき、
ある年配の男性が僕のところに来て、『もう死んでもいい』と言った。
平日に急きょパレードをやったのに、40万人も集まってくれたんだ。僕たちは広島の市民に誇りを与えることができた。
だから、帰れるはずがなかったよ。76年も広島で過ごすことにしたくらいだ」  
76年のシーズンが終わるとすぐに、ホプキンスはシカゴのラッシュ医科大学に定時制で入学。
77年も日本で南海ホークスのユニフォームを着た。
引退後の78年から学業に専念し、86年に整形外科のドクター・ホプキンスとなった。

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  • 2010/12/25(土) 13:56:41
●与えられた才能のすべてを最大限に生かすこと  
そして、外科医として17年間、活躍したホプキンスは今年で60歳。第3の人生を歩もうとしている。
「フルタイムの外科医は引退して、10月1日からは、ウエストバージニア州にあるオハイオ・バリー・カレッジという
小さなキリスト教系の大学で、生物学の教授になる。これが僕にとっての宣教師の道だ。
たぶん野球チームも手伝えるだろう。今週、学長のロバート・スティーブンス博士といっしょに日本へ来たのは、
日本の学生を呼ぶためだ」  
かつては世界一タフな野球選手だった衣笠は、この旧友は自分よりずっとタフで、少なくとも精神的にははるかにたくましいと感心していた。
「僕にはとてもできないよ」衣笠は何度も言った。
「2つや3つの分野のトップレベルで抜きん出るなんて、日本ではありえない」  
だが、ドクター・ホプキンスは「できるはずだ」と言う。
75年に広島が優勝したときのヒーローは以前、次のように語っていた。
「日本でも、まちがいなくスカラー・アスリート(秀才アスリート)になれたと思う選手に何人か会った。
頭脳はまったく問題がなかった。
ただ、彼らは野球しかやっていなかった。ちょうど会社員みたいだね。
昼も夜も会社に身をささげ、家族との楽しい生活を犠牲にしても仕方がないと思い込んでいる人たちだよ」
「日本のチームメイトも友人も、バランスの取れた生活を送っているようには見えなかった。
すべてのエネルギーを、たった1つの目標に注ぎ込んでいるみたいだ。悲しいことだね。
神様は、すべての人にさまざまな才能を与えてくださっているのに。
与えられた才能のすべてを最大限に生かすことは、僕たちの義務なんだ」

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  • 2010/12/25(土) 14:14:35
岡田は雑誌「ナンバー」でのサッカー岡田との対談で
早稲田卒業してないことがバレちゃったけどな。

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  • 2010/12/25(土) 18:47:01
>>85
今年、広島を引退した広池も立教高校に一般入試
元日ハムのデブ矢作もそうだったはず


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  • 2010/12/25(土) 19:18:16
元阪神の山崎一玄の名前がまだ出てないけど
彼も東大行けてた位の学力だったようで
阪神に指名された時東大か阪神かの二者択一だったそうだ
今は阪神の打撃投手
果たして人生の選択としてはどうだったのか・・・?




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  • 110
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  • 2010/12/25(土) 19:59:52
山崎って頭も良かったの?
新庄も一目置くイケメンで、野球も上手くて……
モテモテだったんだろうなぁ。

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  • 111
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  • 2010/12/25(土) 20:11:15
「山崎は東大にも行けた」ってのは都市伝説だろ。
静岡高校自体は確かに進学高だったけど。

それならば厚木高校卒の横浜川村も「東大伝説」があってもおかしくない。


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  • 112
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  • 2010/12/25(土) 20:32:02
最近は高校側が野球ばっかりの学校というイメージを払拭させようとして
色々工作するから解らんな。
履正社の岡田が「自分の出た学校は進学校なんですよ!」と力説していたのは違うだろうと思ったが。

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  • 2010/12/25(土) 21:45:40
東大いけるような頭脳の持ち主ならば、
退団後受験勉強して大学いくだろう。


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  • 114
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  • 2010/12/25(土) 22:09:43
大学いっても大卒の就職先ないぞ。

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  • 2010/12/25(土) 23:12:25
矢作は医者の息子だからな。

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  • 2010/12/26(日) 00:02:25
>>111
静岡県民だけど
静岡高校(地元では静高)は野球推薦みたいなのもやってるから
(今はわからないが、当時は確実にやっていた)。

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  • 117
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  • 2010/12/26(日) 01:10:40
もしほんとに山崎が東大行ってたら、
東大がリーグ戦で4位に上がれたかもしれんな。

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  • 118
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  • 2010/12/26(日) 14:08:32
あの頃は静高から、よく投手が入ってたし。
望月→広島、赤堀→近鉄
彼らの同期でそのまま社会人入りというのも結構いた。
野球部だと進路は監督が地元出身の駒大、専大あたりが多かった。

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  • 119
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  • 2010/12/27(月) 15:56:07
>>1にも出てるが、同世代として(若干自分の方が下だが)
文武両道といったら何と言っても元ベイの川村だな。
厚木高校(県内5本の指に入る公立高校)→立教大
当時の神奈川の公立は推薦なんてなかったし、3年夏まで野球やってて
現在と違って私大バブル絶頂期の立教に現役合格ってのは
並のアタマじゃ絶対ムリだろ。
今だったら、さすがに東大とは言わないが立教以上のレベルは
確実に行けてたはず。

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  • 120
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  • 2010/12/27(月) 16:24:43
昔の厚木高は、学校の授業のハイレベルさについていけず
授業に出ないで相模川の河川敷でぼうとしている生徒がよくいたらしい

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  • 121
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  • 2010/12/27(月) 16:38:18
東大を出てエリート官僚になるような人は、思春期に性欲に勝てた人。
逆に言えば、一番楽しい時期に楽しむチャンスの無かった人たち、の中でもっとも頭のいい人たち。
基本彼らは悔しいんだ。だから権力欲がすごい。

若い時、怠けて遊びまくったガテン系DQNなんかゴミクズみたいに思ってる。
ジジイになった今、カネとか地位があるからホステスにはチヤホヤされる。
でも寄ってくる女の本当の目当てはカネ。

若い時、欲望のままやりまくって、しおれた今は左官コテをもってしこしこ過ごすDQN。
片やオナニーと勉強で多感な時期を過ごし、ジジイになって女どもにカネをばら撒くエリート。

オレはDQNのが幸せだと思うんだ。

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  • 2010/12/27(月) 22:17:06
>>119
川村は80年代当時あった、立教の文学部B入試による合格だよ。
英語と小論文だけだよ。
そんなに難しくないよ。
だって工業高校出身の俺が合格したもの。
英語だけは得意だったからだけど・・・。


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  • 123
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  • 2010/12/27(月) 22:18:46
札幌南の投手はどうした?

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  • 124
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  • 2010/12/27(月) 22:45:35
>>122
そりゃああんたが頭良かったんでないの。
20年前のMARCHレベルは推薦でも厳しかったろ。一般入試だと今の早慶の下位学部かそれ以上の難度。
日東駒専が偏差値60超えてた時代だぞ

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  • 2010/12/28(火) 06:02:20
>>124
最終行に嘘を混ぜないように
60超えてたとしても日芸くらいだろ

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  • 2010/12/28(火) 08:17:28
第2次ベビーブーム時代は日東駒専ランクの大学に
入ることも大変だったよ
高校受験で偏差値60程度の高校から日東駒専行くのは
かなり難しい部類だったはず
今は少子化&不況でこのランクの大学は簡単に入れるみたいだが

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  • 2010/12/28(火) 11:38:42
ゲイル・ホプキンス

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  • 2010/12/28(火) 19:23:48
90年代初頭の大学受験はホント凄まじい時代だった。まさに戦争そのものだった。
今で言うところのBF大学なんか存在しなかったし、倍率10倍20倍は当たり前、
大教室で受験した受験生全員全滅とか、合格者番号表で合格者の次の番号が10
0人、200人とんでるなんかザラだった。あの大教室で受験した不合格者らは、
あの後、どんな道を辿り今何してるんだろうかとふと思うときがある。
90年代初頭の2月の東京、大学受験で熱かったあの日々を今も忘れない。

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  • 2010/12/28(火) 20:42:21
偏差値ってのはあくまで相対的なものだからね
知能の低い団塊ジュニアの中でいくら高偏差値でも「日本人全体」の中で最低ランクである事実に変わりはない
やれ私大バブルだの受験戦争だの言ってる世代は所詮同学年内での相対位置に過ぎない偏差値だけ比べて
ゆとりはレベルが低いなんて言ってるけど、お前らの知能の方がよっぽど低いってことをいい加減自覚してほしいわ
実際、今の35前後のやつらって全然仕事使えねーしバカばっかり、ゆとりの方が全然使える

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  • 2010/12/28(火) 21:17:22
俺も団塊ジュニア世代だが、人数が多いだけやっぱ競争はキツくなる。
予備校生が屯するタバコ屋のオバサンに
「あんたら世代は行きたい大学行くのに苦労した、損したね」
と言われる。

たけしも
「同世代が多かったからとんでもないバカもいたが、とんでもない天才がいた。
オイラはその生存競争を生き抜いてきた」
とか言ってた。

現に名球会の面子は団塊が多い。

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  • 2010/12/28(火) 21:47:38
後藤光尊は?
秋田高校→法政だからそこそこじゃ?

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  • 2010/12/28(火) 22:33:51
神奈川で私立高偏差値と言えば桐蔭学園だが、
高橋由伸はどうせずっと推薦とは言え、
一応慶応の藤沢までしっかり卒業しているので、そこそこなのでは?

すくなくとも大学で取得単位ほとんどゼロの阿部慎之助に較べればw

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  • 2010/12/28(火) 23:16:56
>>129
そろそろ引きこもり止めて街中に出た方が良いよ

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  • 2010/12/29(水) 03:00:09
自分は川村丈夫と同期なのだが、この年の神奈川は公立進学校に実力者が多く、川村以外にも横浜翠嵐→東大で首位打者の間宮や横浜緑ヶ丘→慶應でエースの西田なんてのもいたなあ。

泡嬢と交際発覚wwした河原も同期の公立だけども川崎北なので除外ww

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  • 2010/12/29(水) 14:23:49
>>129よ、何を言ってるんだオマエさんは!!
当時の例えば関東学園の経済や八千代国際に受かる学力があれば
今なら早慶の教育や商には受かるんだよマジで!!
あのころの関東学園はマジで難関だったんだぜ?
今の40才前で無職やバイトで苦しんでいる男性は無条件で
大手企業が正社員として事務職で採用すべきだ!!
ゆとりのバカやバブルのアホは全員バカヤローだ!!
マジで悔し涙が止まらねえよ・・・

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  • 2010/12/29(水) 16:14:12
>>66
新治氏については、女房役の土井淳氏と、同期入団の江尻亮氏(エジリン)が
大絶賛。
『三原のオヤジも、また面白いルートからの選手を採ってきたなあと。オヤジの事だから、間違いはないと思ったけどね。
ただ、彼は同じ六大学、それも在学中から知っていた。特にうち(明治)との対戦では好投していたからね。
当時大洋は打高投低、特に先発投手がベテランばかり、中継ぎが必要だった台所事情もあったし、
それ以上に彼の度胸のよさが中継ぎ向きだった。オヤジもそうだし、別所さんの彗眼にも恵まれたね。
初登板も覚えてる。神宮のサンケイ戦で、秋山の負傷緊急交代直後。僕がマスクを被っていた。
あそこで抑えてくれたから、その後もオヤジは重用し続けたんだろうね。
接戦の中盤以降に、右のスラッガー相手にリリーフすることが多かったが、江藤(中日)や山内(阪神)
もよく抑えてくれた。ただ、長嶋には打たれたけどね…。新治に、うちのチームの印象を聞いたら
“打ってくれるし、守備もいいから投げやすい”と。かなり気に入ってくれたみたいだ。
引退後は球団の非常勤取締役も勤めてくれた。彼にはGMになってもらいたかったね。ある意味最適の人材だろう』
(新治氏逝去翌日、土井氏の談話から)
そういえば、江尻さんもかなり優秀だったかと。

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  • 2010/12/29(水) 19:51:10
エジリンが大絶賛・・・・

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  • 2010/12/29(水) 21:21:16
朝日新聞昭和43年12月24日付

「ほしい合理的精神」

“サラリーマン新治氏” プロ野球の世界を語る

 東大出のプロ入り第一号とさわがれた大洋の新治伸治投手が、今シーズンを限りにユニホームを脱いで、サラリーマンになった。
「まだ、これを渡すのがうれしくてね」と笑いながら出した名刺に、大洋漁業 海外事業本部 貿易部 冷凍第一課 新治伸治 とあった。
 「野球をやっていた四年間、回り道をしたという人もいますが、普通の人がしたくても経験できない世界をのぞいただけでも
よかったと思っています」
 ―――ところで、その四年間をふり返って、プロ野球というものをどう感じた。
 「野球は一日一日が勝負。働ける期間も十年ぐらいで、それだけに密度の濃い毎日を送ることです。
ところがこのきびしさを忘れがちになります。こういう私自身も、いまになって知ったことですが・・・」と頭をかく。
 「プロ野球選手は一つの商品。その評価はグラウンドで決められるものです。
それなのに日本の場合、野球の世界へ持込むべきでない義理人情に多く左右されて、合理的な精神に欠けています。
野球は技術を要求されるもので、義理人情とは関係ありません」
 ―――では理想的な姿は。
 「選手各自が、まず基本的な立場を考えることだと思います。ほとんどの人が統一契約書の内容を熟知していません。
この一番身近にある、大事なことをまず知るだけでもレベルアップです。それに、若くて野球しか知らない人を
せり合わせるでしょう。そのうちで成功する人は少ない。失敗した人はそのまま社会にほうり出されます。
オーナーも少しは道義的な責任を感じてほしいですね」
 野球をやめるなり親会社へかえり、新しい職場についた自分に引きかえ、なかなか次の職が
定まらない数多い選手たちのことを思って、新治氏は、一瞬きびしい表情になった。


 ちなみに昭和43年12月とは、東京・府中で「3億円事件」があり、大学紛争の悪化にともなって
新治さんの母校でもある東大が史上初めて入試を中止とすることを決定した、そんな時代だった。

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  • 2010/12/29(水) 23:34:36
つい最近のインタビューと言っても疑わないような内容だな
40年間プロ野球界も根本的なところは変わってないってことか

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  • 140
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  • 2010/12/30(木) 01:46:37
そう言えば、20ぐらい前の立正大学の受験会場は、東京ドームだったらしい

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  • 2010/12/30(木) 02:31:07
>>136
エジリンって夕刊フジの江尻良文なら別人だぞ。
江尻亮の方もエジリンとか呼ばれてたならこちらが不勉強で申し訳ないが。
因みにどちらも早稲田だけど。

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  • お前らw
  • 2010/12/30(木) 17:01:18
_____       ___
|←合格発表|      |001|
. ̄.|| ̄ ̄ ̄        ┗(^o^ )┓三
  ||            ┏┗   三
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

____________
||      合格発表      .||
|| 002 006 010 014 018 ||.     
|| 003 007 011 015 019 ||    
|| 004 008 012 016 020 ||  
|| 005 009 013 017 021 ||  
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  • 2010/12/30(木) 17:03:43
>>136
新治さんは渡辺謙太郎アナ(東京放送)の高校の後輩。当時のアナだから、
実況にまで私情などは挟まなかった(それが普通)ようだが、それでも、彼が
登板するときは…やはり感情移入も多少出てしまったらしい。特にONと対する時。
ONとは、王に11打数4安打2HR、長嶋にも8打数3安打2打点と、土井捕手も
振り返ったように打ちこまれてしまったが…
王の当時史上最速となった250号HRも新治投手から。
王が世界記録を達成した時「756号タオル」なるものが出回った。
全756本を打った日時、球場、相手の投手が記されているしろものだが、
「昭和41年8月18日、川崎球場、250号、新治」
という一項は大書されていたらしい。新治さんも
『これで、僕がプロ野球選手だったという証明が残るじゃないですか。子孫にも見せられますね』
以上渡辺先輩の退社後談。
>>141
無論別人。夕刊フジの良文編集委員は多分大洋の亮選手は忌み嫌っているでしょう。
後に、例の「開幕投手に格下の園川」を起用した張本人のロッテ監督なのだから。
エジリンと呼ばれたらしい(2chでも、大洋やロッテ関連のスレッドでは)。

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  • 2010/12/30(木) 20:30:10
高橋由伸やその先輩の高木大成が出身の桐蔭学園には、実はスポーツコースは無い。
すべて能力別クラス編成になっていて、その中で一般生もスポーツ生も混成されている。
当時の桐蔭は赤点さえ取らなければ、評定で3未満は付かないシステムだった。

由伸も高木も優等生ではなかったが、劣等生でもなかった。
真ん中くらいの成績。
由伸は法学部に指定校だが、高木は総合政策のAO組。
必要な評定平均値は、ともに4.0以上。
ちなみに由伸と同期の部員で、一浪東大文?前期に受かった香具師がいた。

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  • 2010/12/31(金) 08:29:55
横浜−西武の田崎
国立九州工大出身で発光ダイオードに関する卒論は学会でもとりあげられたとかいう噂も

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  • 2011/01/01(土) 14:14:03
田崎昌弘

砂時計アラームタイマー
フリック回転寿司
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