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  • 2011/09/01(木) 15:35:43.36
確からしさへのアプローチを、正確さの疑わしい自分の記憶や、同じく
疑わしい他人の記憶に依拠して行うか、物的資料や作品解釈、現実理解
(常識)に基づいて行なうかということでしょうね。
私は両方使いますが、両者が矛盾するなら、物的資料や常識を取る。

そこで、20年程前劇場で観た云々という466の話については、「DVDには
存在しない結末のある場面が存在していた「可能性」」などないと断言
します。これはリバイバル上映された際の話で、私もこの時見ている。
何度も映画館に足を運びました。その記憶と、仮にこのときに射殺シー
ンでもあったなら、「カット有り派」はもっと飛躍的に増大しているは
ずという常識的判断が、その根拠です。

では、日本初公開時のバージョンには射殺シーンがあったのか? これも
私は否定する。当時の映画雑誌に掲載されたシナリオと作品解釈が根拠です。

もっとも、「不存在」を証明することは「悪魔の証明」です。不可能とまで
はいかなくても、かぎりなく困難である。少なくとも「カットシーンの存在」
を証明するほうが、遥かに容易です。たった1葉の写真を提示するだけでいい。
「ほら、これが射殺シーンのスチールです」とね。それさえないことは、
むしろそんなシーンの不存在を物語っていると思いますね。

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