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  • 2016/10/19(水) 23:37:47.70

靖国問題に対する中国ネットユーザーの反応に“ある傾向”

2016年10月17日、日本の安倍晋三首相が靖国神社の秋の例大祭に合わせて「真榊(まさかき)」を奉納したことに、中国外交部は反発するコメントを発表したが、中国版ツイッター・微博(ウェイボー)には意外な反応も寄せられている。

安倍首相は17日から始まった秋の例大祭に合わせて、「内閣総理大臣 安倍晋三」の名で真榊を奉納した。例大祭期間中の靖国神社参拝は行わないとみられている。
安倍首相は2013年12月26日に靖国神社を参拝しているが、以降の例大祭や終戦記念日には参拝を見送り、真榊や玉串料を納めている。

安倍首相の真榊奉納について、中国外交部の華春瑩(ホア・チュンイン)報道官は同日の定例記者会見で「中国側は日本の政府要人の間違ったやり方に断固として
反対し、日本にしっかりと侵略の歴史を正視し、深く反省することで軍国主義との境界線をはっきりさせ、実際の行動でアジアの隣国と国際社会の信頼を勝ち取ることを促す」と“例年通り”の抗議を行った。

これに対して、微博に寄せられたコメントはいささか“意外”とも言えるものだった。「日本はいつになったら謝罪し、反省するのか」「日本とは断交を」といった過激なコメントは少なく、
代わって「このやり取りは単なる外交辞令」「昔からこのニュースだけは内容が変わらない」「毎年同じだから、過去のVTRを流すだけでいいだろう」
「日本の首相が靖国神社の前の道を通っただけでもニュースになるんじゃないのか?」など、もはやニュースとして取り合わないようなコメントが多い。

また、「中国が批判するのはこちら側の事情、日本がそれを聞くかどうかは向こう側の事情」「抗議するもんでもない。関羽はあれほどたくさんの中国人を殺したが、今でも多くの人が彼を参拝してるじゃないか」
「日本にとっては靖国神社に祭られている人々は英雄。我々にとっての戦争博物館の中の英雄たちのようなもの。首相が参拝するのも当然だろう」といったコメントにも、少なからず“いいね”が付いている。

実は、13年12月に安倍首相が靖国神社に参拝した際も、外交部の反発とは裏腹に中国のネット上では参拝を問題視しなかったり、
「中国の指導部は中国の英雄を参拝しないのか」といったコメントが少なからず出ていた。中国のネット上では靖国問題に関する反応が年々薄くなっている印象がある。(翻訳・編集/北田)

http://news.livedoor.com/lite/article_detail/12161542/

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  • 2016/10/20(木) 12:12:04.71
赤塚不二夫が語っていた戦争と差別…終戦時の満州で助けてくれた中国人、日本に帰って受けたイジメと差別

赤塚不二夫は、1935年9月14日、満州にある古北口という、旧満州国と中国の国境沿いの町で生まれた。
父親は、特務警察を務めた後、奉天で消防分署の署長を務めていた。現地の中国人たちを監督する立場の人間である。
尊大な態度を取り、徹底的に彼らを痛めつけたとしても誰からも文句は出ないし、実際にそうしている日本人はたくさんいた。
しかし、赤塚不二夫の父の行動は、それとは真逆のものだった。

〈終戦直前におやじが奉天(現在の瀋陽市)の鉄西区の消防分署の署長になった。部下はみんな中国人。
彼らがミスしたとき、朝の六時ごろ、籠に卵をいっぱい入れて持ってきたり、砂糖とかいろんなもの持ってくるの、謝りに。
でも、おやじはぜったいに受け取らなかった。
「いらない、そんなもの。おまえたちが食べろ」って。
 ボクはまだ子どもながらも、なんか騒がしいなと思って起きて見にいったら、そうやってるわけだ、おやじと部下が。
 そしたらうちのおふくろが、「もらっとけばいいのに」。子どもたちに食べさせたいと思うわけだよ。そうしたら、おやじ怒った。
「ふざけるな」って。
 そういうことがずっと続いていたから、終戦のとき中国人が、「おくさんお米あるかあ、砂糖あるかあ」って持ってきてくれて
助けてくれた。
 学校では先生から、中国人を蔑視した教育を受けていたけど、ボクは学校から帰ってくると、おやじの部下の中国人
の子どもたちと、官舎のまわりで犬コロみたいに遊んでいた。中国語で、みんないっしょになって生活してたわけだから、
「おまえは日本人なんだからエリートなんだぞ」なんてことはおやじは言わなかった。だから、ボクは中国人に対して差別
とかそういう気持ちをもったことはなかった〉(中国引揚げ漫画家の会編『ボクの満州 漫画家たちの敗戦体験』亜紀書房)

 物資の少ない状況下、赤塚不二夫の父だって、付け届けは喉から手が出るほど欲しかったはずだ。しかし、それを受け
取ってしまえば、渡しにきた中国人たちが飢えに苦しむことになる。それを分かっていたから、頑として受け取らなかったの
だ。また、赤塚不二夫の父にはこんなエピソードもあると言う。

〈砦には時々、さまざまな物資を積んだトラックが到着した。おやじはその物資をよく村人に分けていた。
「敵も味方も同じ人間じゃないか」
 何か見返りを期待したわけじゃない、こちらに真心さえあればそれは必ず相手に通じるはずだ──これがおやじの人間
観だった〉(赤塚不二夫『これでいいのだ 赤塚不二夫自叙伝』文藝春秋)

 こういった行動は、実際に相手に伝わっていた。赤塚の父の首には当時の金額で2千円の賞金がかかっていたが、
誰も父のことを密告したりはしなかった。どころか、敗戰の混乱時には赤塚家を周囲の中国人が守ってくれたのだ。

 そして、終戦後は、なにかと面倒を見てくれたり、日本人の集まっている安全な場所まで部下だった中国人たちが
送り届けてくれたという。

 戦時中にいばっていた日本人のなかには、終戦の混乱のドサクサに紛れ中国人に惨殺された例もある。実際、近
所の中田さん一家は戦中に恨みを買っていたため、殺されてしまったという。その話を聞いた当時の心境を赤塚不二
夫は〈いつも部下の中国人を可愛がっていたおやじが、ぼくたち一家を救ったと思わないわけにはいかなかった〉(前
掲『赤塚不二夫自叙伝』)と振り返っている。

 弱い者いじめをするのではなく、助け合って生きていけば、今度は自分が困ったときに助けてくれる。小学生の赤塚
不二夫は父の行動からそのことを学んだのだという。

 しかし、小学校6年生のとき、引き揚げて母の郷里である奈良県の大和郡山で新しい生活を始めると、今度は「差別
される」立場に置かれることになる。ほとんど戦災を受けることもなく、古くから住んでいる地元の住人ばかりの土地に
とって、満州から引き揚げてきた家族は「よそ者」以外のなにものでもなく、冷たい扱いを受けたのだった。

〈ある時、配給があるから鍋持って集まれという回覧が回った。ぼくが鍋を持って行って並んだ。ところがぼくの番になったとき、
「あ、満州か、お前はダメだ」
 と断られた。あの時は悲しかった〉(前掲『赤塚不二夫自叙伝』)

http://www.yomiuri.co.jp/local/tokyotama/news/20161013-OYTNT50237.html

お絵かきランド
フリックゾンビ
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